愛洲の愛

滝沼昇

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8. 死闘への道行

⑨ 右近衛権中将

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 仁介がその遺骸の側に寄り、注意深く首筋に指を当てて絶命を確かめた時、河原に冷たい風が吹き抜けていった。

 風に煽られた辰姫の髪は、老婆のような白髪に変わり、その五体も見る間に萎んで、老人か老女か判別できぬ程の年輪を経た木乃伊のような体と変わり果てていた。

 と、痩せて露になった歯に、糸が結びつけられている事に気付き、仁介は恐る恐る、その糸を手繰った。糸は喉の奥、胃袋にまで通じる長さがあり、その先には、小さな油紙の固まりがあった。胃液に塗れた油紙は何層にもなっており、仁介は川の水で濯ぎながらも慎重に剥がしていった。
「これ……」
 その中から出てきたものは、書状であった。
 『余の大望成った暁には、風魔一族の再興を許し、士分と、天領と成った水目藩領の一部を知行として与える事を約定す』
 折目だらけで読み難い文面を何とか読み下し、最後の署名を見た時、仁介は思わず書状を取り落としそうになった。
 その書状の最後には、右近衛権中将さこんのえのごんのちゅうじょう綱誠つななりつまり、尾張徳川家嫡男・綱誠の署名と花押血判かおうけっぱんさが記されていたのである。
「風魔と尾張の密約書ではないか」
 尾張家の悲願そして大望とは、将軍職を得る事に他ならない。そして五代将軍綱吉公唯一の男子が夭逝ようせつし、未だ後継が産まれぬ以上、次期将軍家は御三家筆頭たる尾張に引き継がれて然るべきである。だが、綱吉公にはただ一人成人した姫がおり、その鶴姫は紀州徳川家の嫡男・綱教つなのりに嫁していた。綱吉公は娘可愛さに次期将軍を綱教にと考え、その意を汲む柳沢保明が綱教擁立の為に尾張を黙らせるべく画策していることは仁介も承知している。
 何かと融通の利かぬ水目藩を天領にして尾張の監視下に置き、邪魔な保明を排除すれば、次期将軍家は徳川綱誠の元に転がり込む。
「まさか、保明様までもが尾張の掌の上で転がされていたというのか……」
 これは、尾張家が書いた遠大な絵図だ。自国の忍・御土居下おどいした衆を麻痺させ、尾張の臭いのせぬ風魔を柳沢保明に近づけて雇わせ、御子柴の野心を利用して水目藩取り潰しの策略を働かせる。御子柴も保明も、水目藩という撒き餌まきえにまんまと食らいついてしまった哀れな道化だったのだ。ではその道化を相手に、自分達は必死に戦ってきたというのか。
「姫若、見事におやりなすったね」
 戦いの終わりを見届けた善蔵が、旅支度で駆け寄ってきた。腰を曲げた普段の姿からは想像だにできぬ足の運びである。
「鶴丸様と志免様は、無事にお発ちになられた。あの分なら間違いなく、江戸の藩邸に辿り着けるじゃろう」
 そう言って傷の手当にと差し出した晒し布を受け取った仁介が、その皺だらけの手を掴み寄せ、辰姫から奪った書状を握らせた。
「これを、これを急ぎ江戸の兄上に」
「姫若、姫若よ」
 善蔵の手に、仁介の震えが伝わった。何かに戦くかの様に唇を震わせて宙を見据える仁介を、善蔵が案じるように覗き込んだ。
「しっかりしなせぇ。あんたは立派に、敵の頭領を討ちなすったんですよ」
「ああ、それが……善じい、とてつもない黒幕が居たんだ。兄上に書状を渡し、何としても藩を、鶴丸を守れ、大渦の巻き添えになってはならぬと伝えてくれ」
「相解った。姫若は」
「燦蔵と落ち合う。善じい、急いでくれ」
 善蔵は頷くと、河原の石をものともせずに走り、川下に係留してあった川船に飛び乗った。若い頃から川の宿を守ってきた善蔵は、馴れた手つきで見事に竿を操り、見る間に川船の姿は視界から消えて行った。 
「保明様……」
 尾張に睨まれた保明の身が案じられた。が、仮にも保明は公人であり、江戸には壱蔵らの目も光っている。間違いは有るまい。
「これだからお前に叱られるのだな、燦坊」 
 兄弟に刺客を差し向けた男とほんの一瞬なりとも天秤にかけてしまった事を弟に詫び、仁介は猛然と走り出した。風と同化するような走りは、兄の壱蔵が韋駄天よと唯一褒める仁介の武器である。
「今行く。生きていておくれ……」
 体中から血を迸らせつつ、仁介は箱根を目指した。
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