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11.風魔絶唱
➁ あなた
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厚化粧ながらもその腰元の美貌は、箱根で行方を絶った愛洲仁介のものである。
「あなた」
仁介は男を抱き起こした。
仁介が愛し気に「あなた」と呼ばわるこの囚われ人こそ、紛れもなき公儀お側用人柳沢保明の変わり果てた姿であった。
仁介は望月衆が使う気付け薬を口に含み、唾液と混ぜて口移しに保明に呑み込ませた。
「う……」
仁介の腕の中で、唯一無傷である顔を保明が歪ませた。
やがてうっすらと目を開いた保明は、仁介の顔を見た途端、狂乱したかの様に手で仁介を押しのけようとした。
余程の惨い目に遭わされたのか、その怯え様は尋常ではなかった。
だがここで騒がれては二人共に命はなく、かといって平静に戻るのを待つ時間とて無い。
「御免」
仁介は当て身で再び保明を眠らせた。そして素早く腰元装束を脱ぎ、冷えきった保明の体に女物の着物を着せて背負うと、保明と自分の体を帯でぐるぐると巻き付けて保明をしっかりと自分の背中に固定した。
仁介は腰元の矢絣の小袖の下に忍び装束を着込んでいた。
だが、自分より長身の保明を背負っては、思うように動ける筈も無く、仁介は足を踏ん張るようにして一段ずつ、慎重に石段を上った。
すると辰姫との戦いで左脇腹に受けていた浅手の刀傷が開いたのか、踏みしめる石段に血が滴り落ちた。鈍い痛みを感じて手を当てがうと、中の晒しが血でねっとりと濡れているのが解った。
「もう少しだ」
この座敷牢に通じているのは邸内の船着き蔵である。蔵を出てしまえば、目の前の船着き場から荷船を奪取して逃げられる。この寒さだというのに額に汗を浮かべながら、仁介は出口を目指した。
「やはりお出ましか」
石段を上りきり、蔵の出口に手が届いたとき、外から蔵が開けられた。
目の前に立ち塞がる坊主頭の大男を見て、仁介はやはりただでは通れなかったかと苦笑を漏らした。
「貴様が、吉次と辰姫を討った愛洲仁介か」
「お初にお目もじ致しまする。ええと、こなた様は、ああ、比叡山にて高僧の尻仲間であらせられたとかいう、風魔の紅丸様で」
茶化すように女の声色で答えた仁介に、坊主頭こと紅丸が持っていた大槍の柄を容赦なく振るった。
背負っていた保明ごと真横に吹き飛ばされ、仁介は俯せに転がった。
「ほう、その美しい顔を泥にまみれさせても、背負った男を守ろうというのか」
飛ばされながらも咄嗟に身を返して保明が地面に直撃する事を避けた仁介の体術を、紅丸が感心したように褒めた。
「おまえか、保明様をこのような姿にしたのは。答えろ」
決して保明を離さぬままに、仁介は唸り声を上げて立ち上がった。
「俺に、そんな趣味は無い」
「ならば一体……綱誠か」
「慮外者が、口を慎め! 」
鼻白む紅丸の背後から、仁介の言葉にいきり立った尾張藩士達が一斉に斬り掛かってきた。
いや、ただの藩士ではない。蔵屋敷に密かに飼われている、尾張柳生の忍達である。
「天下の柳生新陰流の正統が、風魔の風下に立ったか」
仁介の怒号に、忍達が一瞬足を止めた。
だが、ここで目障りな柳沢保明もろとも仁介を殺してしまえば一石二鳥、主君の為にも成る。
仁介の得物は僅かに小刀一振り。
その小さき切っ先を懸命に敵へ向けて伸ばしたまま、仁介はじりじりと船着き場へ後退した。
「その堀にでも身投げして、心中か」
紅丸の皮肉通り、仁介の片方の踵は船着き場の堀の石垣からはみ出していた。あと一歩でも後退すれば、二人諸共堀に堕ちる。
数々の修羅場は潜り抜けてきたが、今度こそ、年貢の納め時か……その時、胸の前にだらりと垂れていた筈の保明の手が、仁介の泥だらけの頬を撫でた。
「あ……保明様」
「苦い薬を飲ませおって……」
保明が掠れた声を出し、そして命じた。
「私を捨てよ。おまえ一人なら逃げられる」
「嫌です、二度と離れるものですか」
嗚咽を堪えて仁介が小刀を握り直した瞬間、轟音とともに水門が爆発した。
「あなた」
仁介は男を抱き起こした。
仁介が愛し気に「あなた」と呼ばわるこの囚われ人こそ、紛れもなき公儀お側用人柳沢保明の変わり果てた姿であった。
仁介は望月衆が使う気付け薬を口に含み、唾液と混ぜて口移しに保明に呑み込ませた。
「う……」
仁介の腕の中で、唯一無傷である顔を保明が歪ませた。
やがてうっすらと目を開いた保明は、仁介の顔を見た途端、狂乱したかの様に手で仁介を押しのけようとした。
余程の惨い目に遭わされたのか、その怯え様は尋常ではなかった。
だがここで騒がれては二人共に命はなく、かといって平静に戻るのを待つ時間とて無い。
「御免」
仁介は当て身で再び保明を眠らせた。そして素早く腰元装束を脱ぎ、冷えきった保明の体に女物の着物を着せて背負うと、保明と自分の体を帯でぐるぐると巻き付けて保明をしっかりと自分の背中に固定した。
仁介は腰元の矢絣の小袖の下に忍び装束を着込んでいた。
だが、自分より長身の保明を背負っては、思うように動ける筈も無く、仁介は足を踏ん張るようにして一段ずつ、慎重に石段を上った。
すると辰姫との戦いで左脇腹に受けていた浅手の刀傷が開いたのか、踏みしめる石段に血が滴り落ちた。鈍い痛みを感じて手を当てがうと、中の晒しが血でねっとりと濡れているのが解った。
「もう少しだ」
この座敷牢に通じているのは邸内の船着き蔵である。蔵を出てしまえば、目の前の船着き場から荷船を奪取して逃げられる。この寒さだというのに額に汗を浮かべながら、仁介は出口を目指した。
「やはりお出ましか」
石段を上りきり、蔵の出口に手が届いたとき、外から蔵が開けられた。
目の前に立ち塞がる坊主頭の大男を見て、仁介はやはりただでは通れなかったかと苦笑を漏らした。
「貴様が、吉次と辰姫を討った愛洲仁介か」
「お初にお目もじ致しまする。ええと、こなた様は、ああ、比叡山にて高僧の尻仲間であらせられたとかいう、風魔の紅丸様で」
茶化すように女の声色で答えた仁介に、坊主頭こと紅丸が持っていた大槍の柄を容赦なく振るった。
背負っていた保明ごと真横に吹き飛ばされ、仁介は俯せに転がった。
「ほう、その美しい顔を泥にまみれさせても、背負った男を守ろうというのか」
飛ばされながらも咄嗟に身を返して保明が地面に直撃する事を避けた仁介の体術を、紅丸が感心したように褒めた。
「おまえか、保明様をこのような姿にしたのは。答えろ」
決して保明を離さぬままに、仁介は唸り声を上げて立ち上がった。
「俺に、そんな趣味は無い」
「ならば一体……綱誠か」
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いや、ただの藩士ではない。蔵屋敷に密かに飼われている、尾張柳生の忍達である。
「天下の柳生新陰流の正統が、風魔の風下に立ったか」
仁介の怒号に、忍達が一瞬足を止めた。
だが、ここで目障りな柳沢保明もろとも仁介を殺してしまえば一石二鳥、主君の為にも成る。
仁介の得物は僅かに小刀一振り。
その小さき切っ先を懸命に敵へ向けて伸ばしたまま、仁介はじりじりと船着き場へ後退した。
「その堀にでも身投げして、心中か」
紅丸の皮肉通り、仁介の片方の踵は船着き場の堀の石垣からはみ出していた。あと一歩でも後退すれば、二人諸共堀に堕ちる。
数々の修羅場は潜り抜けてきたが、今度こそ、年貢の納め時か……その時、胸の前にだらりと垂れていた筈の保明の手が、仁介の泥だらけの頬を撫でた。
「あ……保明様」
「苦い薬を飲ませおって……」
保明が掠れた声を出し、そして命じた。
「私を捨てよ。おまえ一人なら逃げられる」
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