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10. 恋慕
④ 宝
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二人の気配が失せた事を悟った綾乃が、やつれた顔に緊張感を走らせて壱蔵に対峙した。
「殿よりの御伝言です」
「待て。その前に、殿は如何されておる。心の臓の病と聞いた」
「心をお鎮めくだされ」
綾乃は壱蔵の手を取り、話し始めた。
その内容は、藩主明憲公の病は、実は国家老八千沢の発案による幕府への煙幕だと言う驚くべき内容であった。
「では、殿はご壮健なのか」
「いいえ、ここのところの諸問題にお心を痛められ、時々胸苦しくされておられるのは確かです。故に今は密かに、殿には望月の里にてご静養頂いております。城で病身を装っているのは影武者」
「じじ様と八千沢様め、この壱蔵にまで黙っておったとは……」
「あなたには御子柴様や柳沢様の手の者の目が光っておる故、知らせるなと。さて、殿よりの御伝言にございますが……千代丸が事、厚く礼を申す。よう最期を看取ってくれた。努々、追い腹など早まった真似はしてはならぬ。脱藩も許さぬ。この加山家の危難に、そなたら兄弟ばかりを死地に赴かせる事、ひとえに余の不徳。何としてもこの大事を乗り越え、兄弟打ち揃って、生きて余に苦労の胸の内をぶつけに参れ。待っておる」
「殿……」
壱蔵は綾乃の前に平伏した。滂沱の涙を流しつつ、遠国にいる藩主が自分の様な若輩の家臣の心底にまで気を配り、迷いの淵から救う言葉をかけてくれた事に、感激をしていた。
「綾乃、私は、私は、明憲公の為なら死ねる、死ねるぞ」
「あなた、それがいけないと殿は申されているのですよ。あなたは藩には欠かせぬ人、命を粗末にしてはならぬのです」
「元より、承知しておる」
「子供達にとっても、弟達にとっても、あなたは大切な人なのですからね」
「だが、燦蔵も仁介も行方が知れぬ。二人ばかりに前線で苦労をさせて、私は……」
「燦蔵は無事です。仁介が里に知らせをよこしてくれました。今頃は駆けつけた朱実が寄り添って、箱根の湯治場で治療をしている事でしょう」
「そうか、二人は生きていたか」
安堵の吐息を漏らしながらも、散って行った数多の下忍達の無念を思い、壱蔵の口元は堅く結ばれたままであった。
「仁介という子は……柳沢様との事、知らぬではありませぬが、その苦しい恋の決着を一人でつけるつもりなのではと」
「そこの辺りだけは、私では手に負えん」
「あら、他家の殿方との見合いの席から私を攫った情熱的な殿御は、どなた様でしたかしら」
藩主の伝言を無事に伝え、心の重荷を解いた綾乃が、そっと壱蔵の膝に頭を乗せて横たわった。
日頃、娘や息子の躾に厳しい綾乃の所作とも思えぬ、愛らしい無作法であった。
「あれから八年……壱之助はもう七つか」
「ええ。瑠衣の面倒は自分が見るから、母上はお気兼ねなく父上の元に行かれませなどと、大人びた事を申す様になりました」
愛妻の、埃で荒れた髪を撫でながら、壱蔵は別れた時の幼き姿のままの七歳の息子と四歳の娘の姿を思い描いていた。
「あの壱之助がのう」
「じじ様が、あなたの子供の頃によう似ておると、目を細めてらっしゃいます」
「甘やかしておるのだろうな」
「ええ、とても。気持ちが優しいのは良い事ですが、愛洲の跡継ぎとしてはいささか性根が甘いように存じます。やはりあなたでのうては、壱之助は仕込めませぬよ。瑠衣の方が余程、中身がしっかりとしております」
壱蔵が声を上げて笑った。
「瑠衣は、母上様似じゃ」
「まぁ」
体を起こして抗議する綾乃を、壱蔵がしっかりと抱きしめた。
「よう参った。よう参ってくれた」
「あなたの温もりだけを求めて、ここまで」
油が切れ、行灯の明かりが消えた。
壱蔵は妻の衿を荒々しく広げ、豊かな乳房に顔を埋めて汗交じりの芳香を吸い込んだ。
「あ、あなた、旅塵にまみれております故……」
「かまわぬ」
そして帯も解くのももどかし気に裾を割り、二人の子を産んだとは思えぬ若々しく引き締まった体を、貪るように愛撫した。
「綾乃……おまえは美しい……私の、宝……」
「うれしい……あなた……あ……」
綾乃も、久しく包まれる事の無かった壱蔵の逞しい体躯の下で奔放に手足をくねらせ、隠し様の無い歓びの声を上げた。
「殿よりの御伝言です」
「待て。その前に、殿は如何されておる。心の臓の病と聞いた」
「心をお鎮めくだされ」
綾乃は壱蔵の手を取り、話し始めた。
その内容は、藩主明憲公の病は、実は国家老八千沢の発案による幕府への煙幕だと言う驚くべき内容であった。
「では、殿はご壮健なのか」
「いいえ、ここのところの諸問題にお心を痛められ、時々胸苦しくされておられるのは確かです。故に今は密かに、殿には望月の里にてご静養頂いております。城で病身を装っているのは影武者」
「じじ様と八千沢様め、この壱蔵にまで黙っておったとは……」
「あなたには御子柴様や柳沢様の手の者の目が光っておる故、知らせるなと。さて、殿よりの御伝言にございますが……千代丸が事、厚く礼を申す。よう最期を看取ってくれた。努々、追い腹など早まった真似はしてはならぬ。脱藩も許さぬ。この加山家の危難に、そなたら兄弟ばかりを死地に赴かせる事、ひとえに余の不徳。何としてもこの大事を乗り越え、兄弟打ち揃って、生きて余に苦労の胸の内をぶつけに参れ。待っておる」
「殿……」
壱蔵は綾乃の前に平伏した。滂沱の涙を流しつつ、遠国にいる藩主が自分の様な若輩の家臣の心底にまで気を配り、迷いの淵から救う言葉をかけてくれた事に、感激をしていた。
「綾乃、私は、私は、明憲公の為なら死ねる、死ねるぞ」
「あなた、それがいけないと殿は申されているのですよ。あなたは藩には欠かせぬ人、命を粗末にしてはならぬのです」
「元より、承知しておる」
「子供達にとっても、弟達にとっても、あなたは大切な人なのですからね」
「だが、燦蔵も仁介も行方が知れぬ。二人ばかりに前線で苦労をさせて、私は……」
「燦蔵は無事です。仁介が里に知らせをよこしてくれました。今頃は駆けつけた朱実が寄り添って、箱根の湯治場で治療をしている事でしょう」
「そうか、二人は生きていたか」
安堵の吐息を漏らしながらも、散って行った数多の下忍達の無念を思い、壱蔵の口元は堅く結ばれたままであった。
「仁介という子は……柳沢様との事、知らぬではありませぬが、その苦しい恋の決着を一人でつけるつもりなのではと」
「そこの辺りだけは、私では手に負えん」
「あら、他家の殿方との見合いの席から私を攫った情熱的な殿御は、どなた様でしたかしら」
藩主の伝言を無事に伝え、心の重荷を解いた綾乃が、そっと壱蔵の膝に頭を乗せて横たわった。
日頃、娘や息子の躾に厳しい綾乃の所作とも思えぬ、愛らしい無作法であった。
「あれから八年……壱之助はもう七つか」
「ええ。瑠衣の面倒は自分が見るから、母上はお気兼ねなく父上の元に行かれませなどと、大人びた事を申す様になりました」
愛妻の、埃で荒れた髪を撫でながら、壱蔵は別れた時の幼き姿のままの七歳の息子と四歳の娘の姿を思い描いていた。
「あの壱之助がのう」
「じじ様が、あなたの子供の頃によう似ておると、目を細めてらっしゃいます」
「甘やかしておるのだろうな」
「ええ、とても。気持ちが優しいのは良い事ですが、愛洲の跡継ぎとしてはいささか性根が甘いように存じます。やはりあなたでのうては、壱之助は仕込めませぬよ。瑠衣の方が余程、中身がしっかりとしております」
壱蔵が声を上げて笑った。
「瑠衣は、母上様似じゃ」
「まぁ」
体を起こして抗議する綾乃を、壱蔵がしっかりと抱きしめた。
「よう参った。よう参ってくれた」
「あなたの温もりだけを求めて、ここまで」
油が切れ、行灯の明かりが消えた。
壱蔵は妻の衿を荒々しく広げ、豊かな乳房に顔を埋めて汗交じりの芳香を吸い込んだ。
「あ、あなた、旅塵にまみれております故……」
「かまわぬ」
そして帯も解くのももどかし気に裾を割り、二人の子を産んだとは思えぬ若々しく引き締まった体を、貪るように愛撫した。
「綾乃……おまえは美しい……私の、宝……」
「うれしい……あなた……あ……」
綾乃も、久しく包まれる事の無かった壱蔵の逞しい体躯の下で奔放に手足をくねらせ、隠し様の無い歓びの声を上げた。
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