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9.葵の御紋
➄ 千子正重
しおりを挟む狼狽する御子柴の傍らをすり抜け、壱蔵は立ち尽くす保明の面貌に踏み込み様の一太刀を浴びせた。
軽く薙いだその刃先は、保明の左耳の下にある牡丹の様な紅い痣を一文字に裂いた。
薄皮を裂かれた痣から、鮮血が滴り落ちた。
「愛洲、壱蔵……」
保明の口から、呪詛の様な声が漏れた。
同時に、保明の面貌を覆う肌の下が生き物が蠢く様に波打ち、獣の咆哮の如き苦痛の叫びが血まみれの口から発せられた。
「壱蔵兄」
おもわず壱蔵の背中に回り込んで身を隠した鶴丸が、恐る恐る壱蔵の肩越しに顔を出すと、目の前の保明とも知れぬ人物は、悶えるように突っ伏していた。
だが、間もなく呻きは呪文に代わり、丸められている背中が隆々と盛り上がり始めた。既にそれは、幕閣中枢に座す男の体ではなく、鍛え抜いた兵法者のものであった。
「壱ちゃんっ」
鶴丸の退路を探る壱蔵に、天井から声が掛かり、壱蔵の愛刀が放り込まれた。
密かに鶴丸を警護していた望月衆に同行していた志免であった。
「志免、鶴丸君を守れ」
伊勢の名匠村正の門人千子正重作の大刀を抜き放った壱蔵の命に、志免はひらりと舞い降りるなり鶴丸の胴を抱き攫うようにして縁側の障子に体当たりした。そのまま中庭へと転がり出た二人は、この邸宅を囲む練塀目指し、木々の合間を駆けて行った。
「動くな、御子柴殿」
鶴丸を追いかけようとした御子柴の鼻先に壱蔵が切っ先を向けたとき、保明が起き上がってその刃先を撥ね除けた。
いや、柳沢保明ではない。似ても似つかぬ法師が、そこにいた。
「風魔御伽衆、紅丸」
長身の壱蔵よりも僅かに体格にすぐれた紅丸は、剃髪した形のよい頭を撫でて不気味に笑った。
整った顔立ちだけに、酷薄さが際立っている。
「紅丸、最早遠慮は要らぬ、この愛洲めを討ち果たせ」
味方を得たとばかりに景気付く御子柴に、紅丸の両刃刀が突き刺さった。
「五月蝿い小物め。最早貴様に用はない」
心の臓を一突きにされた御子柴は、壱蔵を見据えつつも言葉を発する事ができず、刃を抜かれたと同時にくたくたと崩れ落ちた。
「御子柴が雇い主ではなかったか」
「こんな小物風情に飼われる我らではない」
「では何の狙いあってか。我らの如き小藩一つ潰したとて、おぬしらに何の利がある」
鮮血の滴る刃先を真直ぐに壱蔵に向けた紅丸が、そのまま踏み込んできた。
思わず仰け反って躱した壱蔵が間合いの外に逃れようとするが、大柄な紅丸は大胆な歩幅で瞬く間に間合いを詰めてくる。縁側の淵まで後退した壱蔵は、振り下ろしの剣戟をまともに頭上で受けた。
反りの深い正重の棟が、紅丸の刃を真っ二つに割った。弾かれた切っ先が、くるくると宙で回転し、睨み合う二人の正中に突き刺さった。
「妖刀村正か」
「かつて我が一族の領地であった伊勢の刀工、村正の門人千子正重が一刀。東照大権現様に忌み嫌われ、名を千子と改めしも、その魂は正しく村正が正統。時代を見極めぬ哀れな妖怪共を斬るにはふさわしき剣よ」
「妖怪呼ばわりとは片腹痛し。貴様も風魔同様、既に滅びた一族の末裔ではないか」
「滅びてはおらぬ。愛洲一族の志は、この中にある」
壱蔵が、自らの心臓を拳で叩き示した。
「ならばその鼓動、必ずや仕留める」
刀身が半分と残っておらぬ刀を壱蔵めがけて投げつけた紅丸は、左の中指と人差し指を唇の前に立て、地響きのような低音で呪文を繰り返した。
見る間に二人の間合いは白い霧に遮られ、紅丸の体の在処も瞬くに霧の中に消えた。
気味の悪い低音の呪文が小さくなると同時に、この屋敷を包んでいた禍々しい殺気も失せて行った。
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