愛洲の愛

滝沼昇

文字の大きさ
上 下
54 / 78
9.葵の御紋

➄ 千子正重

しおりを挟む

 狼狽する御子柴の傍らをすり抜け、壱蔵は立ち尽くす保明の面貌に踏み込み様の一太刀を浴びせた。
 軽く薙いだその刃先は、保明の左耳の下にある牡丹の様な紅い痣を一文字に裂いた。

 薄皮を裂かれた痣から、鮮血が滴り落ちた。

「愛洲、壱蔵……」
 保明の口から、呪詛の様な声が漏れた。
 同時に、保明の面貌を覆う肌の下が生き物が蠢く様に波打ち、獣の咆哮の如き苦痛の叫びが血まみれの口から発せられた。
「壱蔵兄」
 おもわず壱蔵の背中に回り込んで身を隠した鶴丸が、恐る恐る壱蔵の肩越しに顔を出すと、目の前の保明とも知れぬ人物は、悶えるように突っ伏していた。
 だが、間もなく呻きは呪文に代わり、丸められている背中が隆々と盛り上がり始めた。既にそれは、幕閣中枢に座す男の体ではなく、鍛え抜いた兵法者のものであった。
「壱ちゃんっ」
 鶴丸の退路を探る壱蔵に、天井から声が掛かり、壱蔵の愛刀が放り込まれた。
 密かに鶴丸を警護していた望月衆に同行していた志免であった。
「志免、鶴丸君を守れ」
 伊勢の名匠村正むらまさの門人千子正重せんごまさしげ作の大刀を抜き放った壱蔵の命に、志免はひらりと舞い降りるなり鶴丸の胴を抱き攫うようにして縁側の障子に体当たりした。そのまま中庭へと転がり出た二人は、この邸宅を囲む練塀目指し、木々の合間を駆けて行った。

「動くな、御子柴殿」
 鶴丸を追いかけようとした御子柴の鼻先に壱蔵が切っ先を向けたとき、保明が起き上がってその刃先を撥ね除けた。
 いや、柳沢保明ではない。似ても似つかぬ法師が、そこにいた。

「風魔御伽衆、紅丸」

 長身の壱蔵よりも僅かに体格にすぐれた紅丸は、剃髪した形のよい頭を撫でて不気味に笑った。
 整った顔立ちだけに、酷薄さが際立っている。
「紅丸、最早遠慮は要らぬ、この愛洲めを討ち果たせ」
 味方を得たとばかりに景気付く御子柴に、紅丸の両刃刀が突き刺さった。

「五月蝿い小物め。最早貴様に用はない」
 心の臓を一突きにされた御子柴は、壱蔵を見据えつつも言葉を発する事ができず、刃を抜かれたと同時にくたくたと崩れ落ちた。

「御子柴が雇い主ではなかったか」
「こんな小物風情に飼われる我らではない」
「では何の狙いあってか。我らの如き小藩一つ潰したとて、おぬしらに何の利がある」
 鮮血の滴る刃先を真直ぐに壱蔵に向けた紅丸が、そのまま踏み込んできた。
 思わず仰け反って躱した壱蔵が間合いの外に逃れようとするが、大柄な紅丸は大胆な歩幅で瞬く間に間合いを詰めてくる。縁側の淵まで後退した壱蔵は、振り下ろしの剣戟をまともに頭上で受けた。
 反りの深い正重の棟が、紅丸の刃を真っ二つに割った。弾かれた切っ先が、くるくると宙で回転し、睨み合う二人の正中に突き刺さった。
「妖刀村正か」
「かつて我が一族の領地であった伊勢の刀工、村正の門人千子正重が一刀。東照大権現とうしょうだいごんげん様に忌み嫌われ、名を千子と改めしも、その魂は正しく村正が正統。時代を見極めぬ哀れな妖怪共を斬るにはふさわしき剣よ」
「妖怪呼ばわりとは片腹痛し。貴様も風魔同様、既に滅びた一族の末裔ではないか」
「滅びてはおらぬ。愛洲一族の志は、この中にある」
 壱蔵が、自らの心臓を拳で叩き示した。
「ならばその鼓動、必ずや仕留める」
 刀身が半分と残っておらぬ刀を壱蔵めがけて投げつけた紅丸は、左の中指と人差し指を唇の前に立て、地響きのような低音で呪文を繰り返した。

 見る間に二人の間合いは白い霧に遮られ、紅丸の体の在処も瞬くに霧の中に消えた。

 気味の悪い低音の呪文が小さくなると同時に、この屋敷を包んでいた禍々しい殺気も失せて行った。
  
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

守護霊は吸血鬼❤

凪子
BL
ごく普通の男子高校生・楠木聖(くすのき・ひじり)は、紅い月の夜に不思議な声に導かれ、祠(ほこら)の封印を解いてしまう。 目の前に現れた青年は、驚く聖にこう告げた。「自分は吸血鬼だ」――と。 冷酷な美貌の吸血鬼はヴァンと名乗り、二百年前の「血の契約」に基づき、いかなるときも好きなだけ聖の血を吸うことができると宣言した。 憑りつかれたままでは、殺されてしまう……!何とかして、この恐ろしい吸血鬼を祓ってしまわないと。 クラスメイトの笹倉由宇(ささくら・ゆう)、除霊師の月代遥(つきしろ・はるか)の協力を得て、聖はヴァンを追い払おうとするが……? ツンデレ男子高校生と、ドS吸血鬼の物語。

家族になろうか

わこ
BL
金持ち若社長に可愛がられる少年の話。 かつて自サイトに載せていたお話です。 表紙画像はぱくたそ様(www.pakutaso.com)よりお借りしています。

そんなの真実じゃない

イヌノカニ
BL
引きこもって四年、生きていてもしょうがないと感じた主人公は身の周りの整理し始める。自分の部屋に溢れる幼馴染との思い出を見て、どんなパソコンやスマホよりも自分の事を知っているのは幼馴染だと気付く。どうにかして彼から自分に関する記憶を消したいと思った主人公は偶然見た広告の人を意のままに操れるというお香を手に幼馴染に会いに行くが———? 彼は本当に俺の知っている彼なのだろうか。 ============== 人の証言と記憶の曖昧さをテーマに書いたので、ハッキリとせずに終わります。

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

獣人将軍のヒモ

kouta
BL
巻き込まれて異世界移転した高校生が異世界でお金持ちの獣人に飼われて幸せになるお話 ※ムーンライトノベルにも投稿しています

王道にはしたくないので

八瑠璃
BL
国中殆どの金持ちの子息のみが通う、小中高一貫の超名門マンモス校〈朱鷺学園〉 幼少の頃からそこに通い、能力を高め他を率いてきた生徒会長こと鷹官 仁。前世知識から得た何れ来るとも知れぬ転校生に、平穏な日々と将来を潰されない為に日々努力を怠らず理想の会長となるべく努めてきた仁だったが、少々やり過ぎなせいでいつの間にか大変なことになっていた_____。 これは、やりすぎちまった超絶カリスマ生徒会長とそんな彼の周囲のお話である。

消えない思い

樹木緑
BL
オメガバース:僕には忘れられない夏がある。彼が好きだった。ただ、ただ、彼が好きだった。 高校3年生 矢野浩二 α 高校3年生 佐々木裕也 α 高校1年生 赤城要 Ω 赤城要は運命の番である両親に憧れ、両親が出会った高校に入学します。 自分も両親の様に運命の番が欲しいと思っています。 そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。 でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。 彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。 そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。

嫌われ者の僕が学園を去る話

おこげ茶
BL
嫌われ者の男の子が学園を去って生活していく話です。 一旦ものすごく不幸にしたかったのですがあんまなってないかもです…。 最終的にはハピエンの予定です。 Rは書けるかわからなくて入れるか迷っているので今のところなしにしておきます。 ↓↓↓ 微妙なやつのタイトルに※つけておくので苦手な方は自衛お願いします。 設定ガバガバです。なんでも許せる方向け。 不定期更新です。(目標週1) 勝手もわかっていない超初心者が書いた拙い文章ですが、楽しんでいただければ幸いです。 誤字などがありましたらふわふわ言葉で教えて欲しいです。爆速で修正します。

処理中です...