愛洲の愛

滝沼昇

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9.葵の御紋

➄ 猿芝居

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 水目藩二万千五百石の嫡子を乗せた籠が、時の側用人・柳沢保明の別邸へと吸い込まれて行った。

 二万七千石に加増され、押しも押されぬ大名格となった保明は、猟官の為に各家の用人達が門前市をなす上屋敷とは別に、麻布村に密かに綱吉公から贈られた別邸を所持していた。日本橋辺りの商家が持っているような瀟酒な寮で、表向きは寄合席の旗本の持ち物という建前になっている為、ここには保明の口利きを求める猟官連中も押し寄せてはこなかった。

 三百坪ほど敷地は、時の権力者の持ち物としては如何にも小振りである。だが、その庭の造形には彼の美意識が細部にまで行き届いており、まるで小京都を思わせる美しく可憐な庭園の風景であった。

 仄かに木々が赤く色づき始めているその庭園を見渡せる客間に、鶴丸はもう一刻以上待たされていた。
 鶴丸の後ろには、壱蔵と御子柴が、呉越同舟の如く並んで控えていた。

「壱蔵兄、こんなに待たされなきゃならないのか? 」
「口を慎め」
 壱蔵が口を開くより早く、御子柴が鶴丸を制した。
「御子柴様こそ、鶴丸君は、我が藩の御跡目となられるお方ですぞ」
 鶴丸を身分卑しき妾腹の子と侮る御子柴に、壱蔵が静かに、しかし詰と言った。

 その壱蔵は、脇差のみでこの場に侍る心許なさを禁じ得なかった。
 これ程の美を尽くした建物だというのに、空気が澱んでいるように感じられてならなかったのだ。まるで殺気を隠す為にわざと瀟洒な香りで誤摩化されているような、そんな油断ならぬ気配であった。

「殿のお成りでございます」
 仰々しく、小姓姿の美少年が告げた。
 あんな風に、仁介も保明に寵愛されていたのかと思うと、壱蔵は保明という男に嫌悪しか感じない。
 だが今は、水目藩の行く末を握る男である。その嫌悪は押し殺すしか無い。

 三人は平身低頭して、保明の登場を迎えた。
「大儀にござった」
 同じ大名格だというのに、まるで政府の実権を握る老中職にでもなったかのような保明の不遜な言葉から、対面の議は始まった。
「本日は、お目通り叶い、誠に有難く存じまする。加山明憲が嫡子、鶴丸にござりまする。何卒よしなに御引き回しの程、お願い申し上げまする」
 教わった通りの文言を、鶴丸は何とか舌を噛まずに言上した。
「これは丁寧なる挨拶、痛み入る」
 保明は作り笑顔でそう応じると、手に取った書物を捲りつつ、壱蔵に視線を移した。
「守役か。中々の面構えよのう」
 壱蔵は、平伏したまま僅かに顔を上げ、下から覗き見るようにして保明の顔を確認した。
「亡き主・千代丸になり代わり、過日のおもてなしの御礼を申し上げまする」
 御子柴を差し置いて、壱蔵は牽制するようにそう言上した。
 一瞬、保明の瞳に獰猛な光が灯ったが、すぐに元の怜悧な政治家たる瞳に戻っていた。
「いや、千代丸殿は、体さえご壮健であれば一廉の名君となられた器。この保明にとっても、忘られぬ夜となったわ」
 芝居がかったような言葉と共に、わざとらしく保明がじっと目を瞑ってみせた。

「恐れながら御側用人様、当家鶴丸の改嫡届の件に存じまするが」
 中々確信に至らぬ会話に焦れたように、御子柴が割って入った。
 目を開いた保明が、一瞬、御子柴と視線を合わせた。
「おお、そうであった。既に明憲殿がお墨付き、証拠の品、先程確認を済ませておる」
 保明は一旦言葉を切り、じらすようにゆっくりと息を吐いた。その目尻が妖しく上がり、瞳に悪意の色が灯った。
 
 壱蔵は剣者の本能で脇差の柄を確かめていた。

「加山家は、神君家康公が永代譜代格を御許しになったお家柄。こちらとしても、生半な者を跡目として承諾する訳には参らぬ」
 何とも不遜な物言いである。まるで幕府が己そのもの、己の判断が将軍家の判断そのものであるかのような事を、さらりと保明は言ってのけたのであった。
「跡目を失った明憲殿は、お目を曇らせたとしか思えぬな」
「何と仰せか」
 冷静に抗議する壱蔵を、御子柴が制した。
「この者の生母は荒淫の性にて、明憲殿の他にも同時期に数人の男とも情を交わしておった事、こちらの調べにて明白である。よって鶴丸君は明憲殿の胤とは認めがたく、改嫡願いの件は却下と致す」
「それはまた理不尽な」
「黙れ無礼者、このような胤も解らぬ者をようも嫡男になどと願い出たものよのう。それとも、幕府はこの程度の絡繰りとて見抜けぬ阿呆ばかりと、高を括っておったか! 」
 壱蔵の静かなる敵意に呼応した保明が、立ち上がって怒声を轟かせた。

 御子柴は、二人の間に座したまま、じっと動かない。

「俺のお袋はよ、確かにあばずれだ。俺も初めは、柳沢様のように考えてた。だがな、兄上が言ったんだよ、死んだ兄上が、俺の顔を見て、父に面差しが似ていると」
 殺気の合間で顔色も変えずに座していた鶴丸が、静かに口を開いた。
「俺もあの殿様、いや父上も、初めて会った瞬間に血の繋がりを思い知った。有難くもねえが、嫌ってほど、俺は父上に似てるんだ」
「ふ、戯れ言を」
 筋の通った鼻を上向かせて小馬鹿にしたように笑い飛ばした保明の態度に、鶴丸のこめかみがピクリと痙攣した。
「ってーかさ、あんた自身が言った事だぜ、ウチは東照神君家康公から、永代譜代格えいたいふだいかくを許された家だと。だったら、昨日今日の大名成り立てほやほやのド新人風情が、大きな顔してのさばるんじゃねえや」
 低い声で、だが決して感情的に怒鳴るのではなく、鶴丸が保明に迫った。
 真直ぐに顔を上げて、今にも詰め寄りそうな鶴丸の気迫に、御子柴が狼狽して思わず鶴丸めがけて拳を振り上げた。
「気でも違うたかっ」
 裏返る声で叱責しつつ振り下ろされた御子柴の拳を頭上で掴み、鶴丸は見限ったような冷たい一瞥をくれた。

「壱蔵兄、これでいいかい」
「うむ。上出来だ。いや、流石は若君」
 ゆっくりと、壱蔵が立ち上がった。左手の親指は既に脇差の鯉口こいくちを切ろうとしている。
「御子柴殿、ここまで化けさせるのであれば、ついでに某の風貌をも知らせておくべきでしたな」
「これ、愛洲っ、何を申すか」
「某、柳沢様とは初対面ではござらぬ。それも命の遣り取りをした相手。気で、それと解り申す。柳沢様が如何に腹黒いお方といえど、これほどに禍々しい邪気は持ち合わせてはおられませなんだ」
 狼狽する御子柴の傍らをすり抜け、壱蔵は立ち尽くす保明の面貌に踏み込み様の一太刀を浴びせた。

 軽く薙いだその刃先は、保明の左耳の下にある牡丹の様な紅い痣を一文字に裂いた。
 
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