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9.葵の御紋
➂ お蘭哀れ
しおりを挟む江戸留守居の重役らが顔を揃える大広間の中央に、鶴丸は一人、座らされていた。
命を賭した旅路を経たばかりだけに、その顔に精彩は無い。
却ってそれが鶴丸を貧相に見せ、お仕着せの裃の不似合いを強調していた。
中々上段の間に現れぬ主人に代わり、御子柴が不遜な表情で上座から鶴丸を見下ろしていた。
「まずは、若殿に成り代わり、この御子柴が証拠のお品を拝見仕る。ここに出されよ」
鉄扇の柄で畳を突いて請求する御子柴の態度は、明らかに鶴丸を卑下していた。
「御子柴様、若君に対し、無礼が過ぎますぞ。鶴丸君は既に国許にて殿とのご対面も済まされ、真の御胤であらせられると殿御自らお認めになっておられます」
「黙れい。旅の途路、不慮の事が無いとは申せまい。この者が真に若君か、或いは若君に化けた望月忍辺りの影武者か明らかになるまでは、千代丸様へのお目通りをさし許す訳には参らぬ」
悪あがきを、と壱蔵が膝をずいと進めかけた時、上段の間の襖が動いた。
「鶴丸君」
控えよと暗に命じる壱蔵に従い、鶴丸はぎこちなく頭を垂れた。
だが、鶴丸の正面、母・お蘭の方に支えられながら上段の間に現れた千代丸は、着座する事無く真直ぐに鶴丸の側まで歩み寄り、優しく手を取ったのであった。
「よう参った。苦労をかけたのう」
その声は女の様にか細く、鶴丸の手を取った指も、生白くて折れそうな程に細い。
思わず鶴丸は、後方の下座に控えている壱蔵を振り返ったのだった。
「兄君の千代丸様にござる」
そう促す壱蔵に、千代丸は鶴丸の手を取ったまま、謝意を以て頷いたのであった。
「あいや暫く、若殿……」
「待ちや」
思いもよらぬ展開に口を挟む間を逸していた御子柴が、とうとう二人の若君の側へと膝を詰めた。
だが、その御子柴の機先を、千代丸がやんわりと制したのであった。
「御子柴、証拠の品など見ずとも、この者の顔立ちには父上の面影がある。いや、この千代よりもよう似ておる」
恐る恐る鶴丸が千代丸を見上げると、その青白く小さな顔は、何とも優しくそして典雅に微笑んだ。
海千山千の御子柴を瞬時に黙らせた物言いといい、これが、大名の子息たる気品であり器量なのかと、鶴丸は瞬時にその笑顔に圧倒されたのであった。
「我が弟よ。この日を首を長うして待った」
「あ……あに……」
兄上、とは流石に恐れ多くて口に出せずに吃る鶴丸を、無理はするなと千代丸が微笑んで制した。
青白いが、その優しい笑顔に、鶴丸は己の中に流れる血が共鳴するかの様に波打つのを感じた。
天涯孤独と思い定めて生きて来た身だが、血を分けた兄がこうして目の前に立っている。
心の奥深くから、兄への慕情の沸き上がりと共に涙が溢れそうになった。
「余は役立たずの世継ぎじゃ。これよりはそなたが、この水目藩・加山家の跡取りとして、励んで行って欲しい。其方の肩には、数多の藩士達とその家族、何より領民達の暮らしがかかっておる。短慮を慎み、幕府とよくよく折り合い、家内に気を配り……」
鶴丸の前で、千代丸の体がゆらりと揺れた。
「若っ」
後方で、すぐに壱蔵が立ち上がったが、千代丸の体は壱蔵が駆け寄るより早く、鶴丸の腕の中に落ちた。
咳き込んで吐き出された鮮血が、鶴丸のお仕着せの裃を染めた。
「あ、あにうえ……」
うわ言の様にそう呟く鶴丸の腕の中で、千代丸が血に染まった唇を綻ばせた。
「兄と、呼んでくれるか……鶴丸……」
「あに、兄上、しっかりしろい、兄上! 」
「どけ、鶴丸」
狼狽する鶴丸から、壱蔵が攫う様にして千代丸の体を抱き上げ、大広間から駆け出て行った。
重臣達の中から「医師を」という怒声が上がり、見る間に騒ぎは大きくなって行った。鶴丸を始め、大広間にいた小姓や近習達も、皆慌てふためいて駆け出ていった。
狼狽するお蘭の方も慌てて追いかけようとしたその裾を、残っていた御子柴が掴んで引き倒した。
「何をしやる! 」
畳に手をついて無様に転がったお蘭の方が、金切り声を上げた。が、大広間には、最早この二人の他にはいない。誰もが千代丸の容態に慌てふためき、壱蔵らを追うようにして駆け出て行ってしまったのである。
「馬鹿な女め」
御子柴は、泣いて拒むお蘭の乱れた裾をまくり上げ、肉付きの良い太腿を露にした。力ずくで左右に押し広げ、その奥の茂みに、鉄扇の柄を押し当てた。
乱暴をされるのかと、暴れて抵抗していたお蘭の足が力を失った。
「ここから生まれた小夜姫に、もう生き長らえる目はないぞ」
「む、無体な……」
「千代丸はもう駄目じゃな。ああして家中の面前で鶴丸を弟と認めてしもうた以上、今更この屋敷内で鶴丸を始末する訳にもいかぬ」
「だからと言って、何故、小夜が……」
「鶴丸が無事に家督を継げば、小夜を生かしておく理由は無い。おそらくあの愛洲は、小夜が儂の娘である事を知っておる」
「いいえ、あの愛洲壱蔵ならば、そのような惨い真似はせぬ。惨いのは、貴方様じゃ」
御子柴が憎々し気に、鉄扇の柄先で女の部分を撫で回した。堪えるお蘭の呻きとは裏腹に、御子柴の指先には熱い液体が伝う。
「ようも、この儂を裏切って愛洲に肩入れしたのう。もしや、あの堅物に抱かれたか」
「壱蔵は、小夜の無事を約束してくれた、千代を守ると言うてくれたのじゃ」
「つくづく馬鹿な女だ。小夜姫には藩の後継として、まだ浮かぶ瀬があると申すに」
「どういうことじゃ」
「小夜姫の将来を安堵したくば、松平嘉門との婚儀、其方の声掛かりとして話を進めよ。国許へも、其方から申し伝えるのだ」
「断る。聞けば素行の悪い阿呆だと言うではないか。母として、承知はせぬ」
お蘭は身を捩らせて御子柴の鉄扇から逃れた。
そして立ち上がり様、懐剣を抜き放って御子柴めがけて踏み込んできた。
しかし所詮は女の手。御子柴は軽々とお蘭を躱して足を掛け、俯せに転がったお蘭の打ち掛け裾を踏みつけるなり、その背中目掛け、脇差しを一閃した。
「ひいっ」
お蘭の方の背中に流れていた豊かな黒髪の束が、畳の上に転がった。
「小夜姫には最早、藩の後継となる他に生き延びる手は無い。その道理とて解らぬ乱心者め、尼寺で、千代丸の菩提を弔うが良い」
「私を、私を尼寺へお捨てになるのですか」
「いい加減、おまえの体にも飽いた」
ざんばら髪のまま尚も食い下がるお蘭を、御子柴は無情に蹴り付けた。
そして泣きながら罵倒するお蘭に最早些かの関心とて示さぬまま、御子柴は大広間から立ち去っていった。
「千代丸……お小夜……」
お蘭の方は、ざんばら髪を畳の上に広げる様にして突っ伏し、我が子の名を繰り返した。
止めどなく涙を溢れさせている両目からは、既に正気は消え失せていた。
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