愛洲の愛

滝沼昇

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4.篝火夢幻

➃ 音曲の熱い抱擁

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 千代丸は予定より一刻程遅れて到着した。

 衣服を改めた壱蔵が片時も離れず、酒席の側にも付いて座る程であった。
 壱蔵の緊張感に満ちた硬い表情は、折角の幽玄世界の趣をも否定するかの如くであり、保明は壱蔵を益々疎ましく感じていた。
 千代丸は、青白い顔をしながらも、流石に一国の嫡子たる風雅を以て酒席に臨んでおり、保明の細やかな気遣いを見過ごす事無く、その幽玄世界に身を委ねようとしていた。
 むしろ、保明の美への配慮に無頓着であれば、無粋と不躾、更には無能の証明にもなったであろう。保明との会話の中にも、千代丸は大変な聡明ぶりを示していた。
 保明が感心した様子を見せた時だけ、壱蔵の顔が心無しか誇らし気に綻ぶのであった。

 薪が焚かれ、水面に赤い炎が映った。灯の中に浮かび上がった能舞台はしかし、鏡板の松の絵が白い薄衣に覆われていた。目付柱・脇柱といった舞台の柱にも曼珠沙華を模した様な薄紅の薄衣が巻き付けられていた。
 鏡板手前の横板には後見も囃子方も居らず、無人のままである。
 その舞台を見た時、千代丸は見た事も無い様な新しい歌舞音曲が始まるのだろうと期待を巡らせ、目を輝かせて踊り手の登場を待ったのだった。
 やがて、下手奥の揚幕が上がり、橋懸に藤色のかつぎを被った踊り手が現れた。まるで闇の中から幽玄の使者が現れた如くである。
「壱蔵、このような神秘に満ちた舞台があろうか、千代は初めてじゃ。何と美しい」
 嬉々として、千代丸はすぐ背後に控えている壱蔵に声を掛けた。
「あまり御気を昂られますと、お体に」
 壱蔵に支えられなければこの屋敷の門とて潜る事の出来なかった千代丸である。恐らく本人自身、血を吐いた事等もすっかり忘れる程、舞台に夢中になっているのであろう。
「おお、何と艶やかな」
 千代丸が体を乗り出すようにして、舞台の正中に立った踊り手の姿に驚嘆の声を上げた。
 踊り手は、ゆっくりとかつぎを被ったまま体を小さく折り曲げて屈み込んだ。刹那、千代丸のすぐ隣で、鼓が高らかな音を響かせた。保明自ら、鼓を打っていたのであった。
「はっ」
 保明の声を合図に、踊り手が一気に体を伸び上げてかつぎを水面へ投げ捨てた。中から現れたその姿は、深紅の曼珠沙華が描き散りばめられた、白地と薄緑の片身替わりの大振り袖に、黒烏帽子。肩には金の柄杓を担ぎ、解かれた黒髪が肩に流れている。何より、その衣装をまとって立つ踊り手の美貌。紅を差し、眉を整え、まるで古の白拍子の様な神々しさと、高位の傾城のような匂い立つ色気とを、絶妙な匙加減で合わせ魅せている。
「じ、仁介」
 度肝を抜かれたのは壱蔵である。鶴丸と志免の動向を監督している筈の仁介が、軽々と東海道を駆け戻り、何も無かった様に壱蔵へ艶たっぷりの流し目を送ってくるのだ。
「何、仁介とは、確か壱蔵の……」
 千代丸が益々目を輝かせて仁介の艶姿に魅入った。
 束の間、心臓に堪える程に驚愕した壱蔵だったが、仁介が韋駄天いだてんの足を駆使して、こうして目の前にいる理由に思い至り、無心で鼓を打ち鳴らす保明の横顔を凝視した。
 保明は明らかに、千代丸の器量を試していた。そして、驚愕さえしていた。その驚きぶりを推察するに、保明は、いつか水目藩を取り潰して天領と成す為に、千代丸は必ずや障害となると判断したに違いない。ここで千代丸がただの病弱で暗愚な若殿ぶりを晒したのなら、仁介が飛び込むまでもなく、無事に江戸藩邸へ帰る事も出来たであろう。英邁なだけに、そして世間の風に当たったことが無かっただけに、千代丸は保明に命という的を自ら差し出す結果となってしまったのである。
 くるくると身を翻し、仁介が舞台の上を踊り回る。
 そして時折、柄杓ひしゃくを伸ばして見栄を切り、媚を示す。壱蔵は、その枝の指す方向に殺気が燻っている事を確認し、誰にも気付かれぬよう、仁介に解ったと目配せをした。

 
 夜も更け、舞台を堪能した千代丸は、心から感動した様子で保明に礼を述べ、屋敷を辞したのであった。

 なるべく籠を揺らさぬよう細心の配慮を命じ、壱蔵は籠に手を添えつつ歩調を合わせてゆるゆると夜道を歩いていた。
「しかし、壱蔵と仁介は、同腹の兄弟とも思えぬのう」
 柳沢邸を後にしてからの夜道、千代丸はまだ興奮冷めやらぬ様子で、籠の中から話し続けていた。
「お熱を出されても知りませぬぞ。どうぞ御静かに」
「良いではないか。しかし美しい、世の中にあのような美しい男がおったものか。いや、女にもあれ程の美しき者は見当たらぬであろう。恐ろしい程じゃ。壱蔵、おまえはその面構えで良かったのう」
「は? 」
「あれ程の美貌ならば、黙っていても危険が寄って参ろう。おまえの面構えなら、口説こうなどという了見を起こす者も無く、綾乃とて、浮気の心配をしなくて済むと言うもの」
「どうせ私はこの程度でございます」
「褒めておるのじゃ。千代は壱蔵の、男らしい面構えの方が好きじゃもの」
 きゃっきゃと、千代丸がはしゃぐように笑った。これほど千代丸が楽しめたのであるなら、或いは今日と言う日は無駄ではなかったのだろうと、壱蔵は心の中でたった一言保明に礼を言った。いや、どんな腹の内であろうと、保明のもてなしに手抜きは無かったのだ、この上ない気配りを以て、千代丸を歓待してくれた事は確かである。
「読めぬ男よ」
 裏も表も、黒も白も同居している様な柳沢保明と言う男の多面性が、壱蔵には不気味であった。
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