愛洲の愛

滝沼昇

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4.篝火夢幻

➂ 曼珠沙華、一輪

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 2日の後、千代丸は江戸藩邸を発った。
「お辛くはございませぬか」 
 決して安全とは言い切れぬ藩の状況に、壱蔵は大名籠を囮に仕立てて表門から出し、出入りの商人の辻籠を装って裏門から千代丸と共に出た。
 柳沢邸への道筋に下屋敷があり、そこで落ち合って囮と本物が元に戻る手筈であった。
 
 ただでさえ体力の無い千代丸を、果たして、揺れの激しい粗末な辻籠に乗せて良いものかどうか、直前まで壱蔵は迷っていたが、本人が嬉々として町人姿にまで身を変えて乗り込んだため、心を決めて出立したのであった。

 壱蔵は、番頭の風を装い、やはり町人の姿に身を変えている。籠を担いでいるのは籠かきに化けた望月衆の使い手であり、道筋の至る所にも望月衆の下忍達を潜ませてあった。
「壱蔵、籠を」
 千代丸の儚気な声に、壱蔵は慌てて籠を止めた。
 すると這い出るようにして地に手を着きつつ千代丸が籠の中から身を投げ出した。
「若、若旦那! 」
 若旦那、と何とか芝居を続ける平静を保ちつつも、壱蔵は心臓の止まる思いでその華奢な体を抱き上げ、道の端へと運んだ。壱蔵に支えながら膝をついて座り込んだ千代丸は、激しく咳き込むなり、派手に吐血したのだった。横抱きに胸元を支えていた壱蔵の右腕が、鮮血に染まった。
「若、戻りましょう、さぁ」
「ならぬ。戻っては……ここで戻っては、柳沢めに、つ、付け入る隙を与える事となろう。嫌じゃ、千代は、千代丸は断じて嫌じゃ」
「しかし、このお体では」
「どのみち先の無い命。藩を守って死ぬるなら本望。柳沢と刺し違えても良い」
「お静かに……何も申されますな。さぁ、お静かに、ゆっくりと息を吐きなされ」
 壱蔵の左手は、嵐の様な音を立てて呼吸をする肺の裏側を擦っていた。その指先に背骨の形がはっきりと伝わる程、千代丸の背中は痩せていた。
 折れそうな体をしっかりと抱き締め、壱蔵は主命に従う決心を固めた。
「弟の家がすぐ其処です、まずはご休息を取られ、お召し替えなされませ」
「い、壱蔵……」
 こういう事もあろうかと、仁介の家には着替え一式と薬が揃えてあった。
「お命の保証は、出来かねまするぞ」
「覚悟の上じゃ……すまぬ、壱蔵」
「何を仰せられまするか。さぁ」
 年端も行かぬ子供の様に軽い千代丸の体を、壱蔵は衝撃を与えぬように優しく抱き上げた。
「辺りに目を配れ、このまま行く」
 摺り足のように滑らかに足を運び、壱蔵は千代丸を抱いたまま仁介の家へと急いだ。


       
 柳沢邸では、既に酒肴の支度が万全に整っていた。
 美童らの能舞いを千代丸に披露させるべく、保明は衣装から踊り手の配置にまで事細かに指示を出していた。
 能舞台は、庭の池に張り出すように建てられてあった。客席からは、白砂利の向こうに水面、そして水面に映る薪の炎の中に舞う役者、まさに幽玄の世界を一望する事が出来た。

「殿」
 能舞台に向かって誂えられた客席からの視界を確かめるべく保明が白砂利の上に発った時、客席の屏風の陰から声が掛かった。
「幻助か」
「物見の知らせにより、千代丸君、間もなく到着の由。伴は僅か数名の藩士」
「愛洲壱蔵は」
「片時も離れる事無く」
「やはり、来たか。陰流の使い手と聞いておる。何かと目障りな存在だ、殺れるか」
「所詮は太平の江戸詰め藩士」
「ほう、流石は風魔ふうま幻助げんすけ。但しこの邸内では決して手を出すでないぞ」
「承知してござる。それと、ご命令通り、御伽衆には御子柴の依頼を受けさせ、名古屋に網を張らせておりますれば」
「風魔の中でも異形の集団と聞く。御子柴は高い買い物をしたな」
「藩を牛耳り、見事尾張・紀伊家の監視役を果たして柳沢様の御覚えが目出度くなれば、幕閣での昇進も有り得る事。我々への報酬等、安きものにござる」
「瞬く間の夢であろうがな」
「束の間、御子柴に藩政の夢を見させ、程なく難癖を付けて取り潰す御所存でござろう。その端麗なお顔で、惨い事を考える御方よ」
「金で殺しを請け負う転び忍の言う言葉ではなかろう」
「金は金。風魔再興の約定、決してお忘れなきよう……」
 姿は見せぬまま、やがて風魔の幻助と呼ばれた人物は風のように気配を消した。
 風魔忍も又、太平の世にあって働き場を失い、主家も無く、夜盗同然に落ちぶれていく者も多く、闇の中で燻っていた。保明は館林時代に、夜盗の頭目として捕らえられた幻助の命を助け、私的な諜報活動に利用していたのであった。

 保明が、40絡みの醜悪な痘痕面を思い起こしていると、舞台の上で少年達の悲鳴が上がった。どうやら、シテ役の少年が足首を挫いたようであった。
「殿御自らの振り付け、私以外にこの役は務まりませぬ」
 痛みに堪えつつ、少年は気丈に訴えた。が、その足首の様子では到底務まり得ぬ事は明白であった。千代丸がどこまで芸を解する子供かは解らぬが、ここで手を抜いたとあっては芸に通じた保明の誇りが許さない。
「私が、相努めましょう」
 舞台の上で群がっている少年達をそっと押し退けるように、淡い藤色地に桔梗を染め抜いた友禅に身を包んだ美貌の青年が進み出た。
「仁介」
 稚児結の黒髪を背中にそよがせ、薄化粧を施した仁介が、保明に向かって婉然と微笑んだ。そして、右手にからげていた裾を放ち、足先で捌いて見事な友禅の花模様を舞台の板目に広げた。
 まるで、水面に舞い降りた花の精の如くであった。
「一差し舞うて御覧に入れます故、何卒吟味の程を」
 謡の一節の様な色味のある声でそう言い、仁介はその場に座して深々とお辞儀をした。
「音曲を」
 怪我をした少年が舞台から下ろされていくの待ち、保明が囃子方に命じた。
 白砂利の上に立ち尽くし、保明は眼前の艶姿に魅入っていた。
 江戸の流行の先端を行く友禅の袖を翻し、ひらひらと扇をそよがせて花の如く艶やかに繰り広げられる女形の踊りは、この能舞台には非常識であるかもしれない。だが、形式にとらわれぬ仁介らしい、創造性に満ちた自由な舞が、一流の美を渇望し続ける保明の飢えを満たすようであった。
「如何でございましょうか」
 短い舞を終え、仁介は居住まいを正して保明に問うた。真直ぐに保明を見据える仁介の目に、保明の美意識を打ち負かしたという誇らしさがあった。
「申し分ない。披露まで間はないが、舞台の趣向なりと思うがままに致すが良い」
「では、曼珠沙華を一輪、所望致しまする」
「庭ごと、おまえにくれてやろう」
 素直に、保明は負けを認めた。
 フッと笑みを洩らした保明に、仁介は褒められた子犬の様な無邪気な笑顔を返したのであった。
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