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4.篝火夢幻
➀ 英邁
しおりを挟む水目藩上屋敷の千代丸へ、柳沢保明から能鑑賞への誘いの使者がやってきたのは、秋の匂いを運ぶ冷たい風が吹く朝であった。
使者を待たせたまま、壱蔵は千代丸の居室へ向かい、入室の許可を得た。
「これは、若君」
中では、千代丸が普段着の着流しに着替え、書物に目を通していた。
「横におなりあそばしませぬと……」
「壱蔵、其方が望月の里より取り寄せてくれた薬が思いの外よう効いてのう、この通り、すこぶる調子が良いのだ」
望月家は、後の世に近江で1、2を争う製薬会社を起こす程、薬に精通している。今も、帰農しただけでは食べられない下忍の一部が、托鉢をしながら秘伝の薬を各地で売り歩き、その売り上げで里の生活を支えているのであった。壱蔵は、御子柴が千代丸を切り捨てた態度から、千代丸に与えられている奥医師の煎じ薬を疑い、密かに望月家の滋養の薬とすり替えて千代丸に飲ませていたのであった。
「御存知でございましたか」
「お匙の順堂がのう、私の顔色の良い事が不思議と見えて、こうして首を傾げるのじゃ」
日干しの鶴と渾名されている奥医師・順堂の仕草を真似て、千代丸が戯けた。余りに良く特徴を捉えたその真似ぶりに、壱蔵は思わず吹き出してしまった。
「わ、若、それではあんまり順堂殿が」
「構わぬわ、あの日干し鶴のヤブ医師め」
「お言葉遣いが悪うござ……ぶわっははッ」
嗜めつつも笑いを止められぬ壱蔵に、千代丸は尚も真似仕草を見せつけた。
「お、お許しを……柳沢様のお使者に返答致しませぬと」
「剣呑よのう。私の瀕死の容態を思っての事であろう。構わぬ。お誘い忝く、必ずやお伺い致しますると、お返事申せ」
物まねをやめた千代丸は、嫡子としての佇まいに戻り、柔らかいながらも明瞭な指示を壱蔵に与えた。
壱蔵は、思わず涙が溢れそうになるのを堪え、言葉も無く平伏した。
痛々しく横たわっていた千代丸が、このように一国の嫡子たる威厳を取り戻した事が、望外に嬉しかったのであった。これ程の英邁な少年が、病弱を理由に退けられる等、あってはならない。
「僭越ながら、某、御供仕りまする」
「おう、それは良い。堅物の壱蔵も、たまには芸術に触れるが良いぞ。そうじゃ、確か仁介は柳沢殿に笛を指南しておるとか言うておったのう。できればその場にて仁介の笛も堪能したいものじゃ」
「勿体ないお言葉にござりまする」
「壱蔵、使者をここへ呼ぶが良い」
「何と」
「直々に返答致す。これで柳沢殿も手を抜くわけにはいかぬよのう。何しろ、瀕死の筈の千代丸が、心楽しみに参るのであるからな」
中々に向こう気の強い千代丸の言葉は、壱蔵を更に興奮させた。この千代丸こそ、紛う事無き次期藩主なのだ、と。
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