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3.15の出発
➄ 仁ちゃんと燦ちゃん
しおりを挟む手首の痛みに、鶴丸は目を開けた。が、手足を伸ばそうと思っても、四肢は微動だにしない。
相変わらず雨は激しく打ち付けてくるが、その痛みたるや、それまでの比では無い。
「のぁ、は、は、裸だ、おい」
雨粒がやけに痛いのは、鶴丸が下帯一つ身につけていないため、肌がまともに水飛礫を浴びているからであった。
しかも、ここは往来、城下の掘割に架かる橋の袂。
質素な欄干に、鶴丸の体は縄でぐるぐると縛り付けられていたのである。それも、両手両足の関節を完全に封じた縛り方である。
「無駄だ。もがいた所で関節一つ外す事は出来ぬ。関節が外せねば、縄抜けとて無理。まあ、暫くは、道逝く人々に無様な姿をたんと笑ってもらうが良かろう」
先程、鶴丸を急襲した男の、例の如く澄んで良く通る声が、蔑むような笑いを響かせた。
橋を渡ろうとした若い娘が、傘の下で短い悲鳴を上げ、足早に去っていく。口の悪い老婆が、そんな粗末なモノを晒されたんじゃ町の迷惑だと罵っていった。急な雨で仕事を切り上げたであろう大工の一団は、面白そうに鶴丸を囲んで、こいつぁ醜女を泣かせてとんだ意趣返しをされたのだと、指を差して笑った。一人として、傘を差し出したり、着物を被せてくれたりする者は無かった。
「所詮、おまえは人だ。人らしく振る舞わねばならぬ。獣の如きその姿で、獣のように牙を剥くだけでは、人として世間で生きていく事は出来ぬ。獣は恥を知らぬが、人は恥を知る。恥を知らぬ者は、この世間に於いてはそれ相応の報いを受ける事となろう」
「どこだ、何処で俺を見ている」
鶴丸は目に雨粒が入って痛むのも堪え、カッと見開いた瞳で辺りを何度も見渡した。
「鶴丸、まだ解らぬか」
「何じゃ! 」
「おまえに辱められた者達が味わった口惜しさを、とくと知るが良い。恥という言葉を、学ぶが良い」
「御託を並べやがって、放せ、縄を解けッ」
「もがいても無駄だと申したであろうに」
そして高らかに鶴丸を笑い飛ばしたのを最後に、二度とその声を聞く事は無かった。
桑名の町外れにある地蔵堂で、志免は束の間体を横たえていた。鶴丸から離れ、それまで張りつめていた緊張が一気に解けたのか、打ち付けるような激しい雨音にも関わらず、志免は穏やかな眠りを得たのだった。
「志免、志免、起きろ」
体を揺さぶられ、志免は跳ね起きた。いつの間にか雨音は止み、日暮れ間近の橙色の光が地蔵堂の中にまで差し込んでいた。そして志免の横には、深草色の忍装束に身を固めた燦蔵が座っていた。
「燦ちゃん……」
馬鹿だ阿呆だといつも怒鳴られている志免は、燦蔵の姿を見て反射的に体を竦めた。しかし、燦蔵の目は吊り上がってはいなかった。
「おまえにはやっぱり酷だ。俺が代わる」
「でも……壱ちゃんに怒られるし」
「兄者には、お、俺が怒られておいてやる」
望月衆を束ねる若頭目、泣く子も黙る望月の燦蔵も、壱蔵の雷には弱い。体格等は余程燦蔵の方が大きいのだが、燦蔵と志免にとっての壱蔵とは兄というより父であり、父のように末っ子の志免を甘やかした壱蔵は一方で、父の代りに燦蔵を厳しく仕込んだのであった。
「鶴丸は、どうしてあんなに乱暴なんだろう。燦ちゃんの特訓から庇ってくれた事もあったのに、あんな事するなんて……」
「もう、体は、何ともないか」
「うん。朱実姉ちゃんの塗り薬のおかげ。でも、鶴丸を一人にして大丈夫かな」
「あんな目に遭わされても、まだあいつの心配をするのか」
燦蔵は目一杯頬を膨らませた。仮にも甲賀望月流の上忍でありながら、主家の命令をないがしろにする堂々たる発言である。壱蔵が聞いたら間違いなく手討ちになるだろう。
「燦ちゃん」
「……仁の奴がついてるよ」
「仁ちゃんが、仁ちゃんが来てるの? 」
「兄者の指示だ。江戸の若殿ご自身が、お命のある内に鶴丸に逢いたいと切望なされておられるとかでな。ちっ、あの出しゃばりめ」
毒づいてはいるが、一歳しか違わぬ仁介とは双子のように仲が良い。
兄弟の父母が江戸住まいの頃に生まれた仁介は、そのまま江戸望月屋敷に預けられ、大叔母の手によって育てられた。大身の屋敷への出入りが叶う手段として芸事全般を玄人の域にまで仕込まれた仁介が、忍の修業の為に甲賀へ戻されたのが10歳の時であった。
一方の燦蔵は、父母が国許へ帰参して間もなく生まれ、山を駆け回る事しか知らぬような、それこそ野生の獣のような子供であった。
だが、10歳と9歳にして初めて対面した兄と弟は、余りに違う育ち方が幸いしたか、まるで凹と凸が重なり合うように瞬時にして心を通い合わせたのだった。
「燦ちゃん、戻るよ」
「続けるというのか、お守りを」
「だって、壱ちゃんも仁ちゃんも燦ちゃんも、皆大役を立派に務めているというのに、私だけ何も出来ずに投げ出すのは、何だか情けないもの」
「ああ、おまえは兄弟きってのへなちょこ野郎だ」
燦蔵は、そう笑って志免の頭をその大きな手で撫で回した。
「俺が仕込んだのだ。滅多な事じゃ遅れは取らん。だが、肚を決めたなら、二度と逃げるな。次は容赦なく掟破りの制裁にかける」
思えば、燦蔵が面と向かって志免に労りの言葉をかける事等無かった。こうして忍としての厳しさを説く姿の方が、余程いつもの燦蔵らしいと言えよう。
志免の瞬きの内に、燦蔵は姿を消していた。
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