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3.15の出発
➂ 愛洲の若様より加山の若様
しおりを挟む甲賀望月家にて、水目藩当主・加山明憲と鶴丸との対面が隠密裏に執り行われた。
一国の藩主が、たとえかつての豪族であろうと、一介の山里の主を訪れる事等例外も甚だしいが、今は加山家の行く末を左右する大事であるだけに、明憲自身体裁に構っている場合ではないのだ。
それだけではない。落馬事故による長患いの最中に起きた毒物混入の一件の後、明憲はこの望月翁が手づから調合した毒消し薬によって命を取り留めたという経緯がある。
城代家老の八千沢と望月翁が懇意ということもあり、明憲は以来、自ら屋敷に出向く程、望月翁に信頼を寄せていたのだった。
公儀の隠密が領内に入り込んでいる可能性も鑑み、鶴丸との対面は実に簡素なものとなった。
余人を引き払った奥座敷で休息している明憲に、鶴丸が薬を運び、一言二言交わすといっただけの段取りであった。
加山家の紋が入った裃という見違えるような姿で、鶴丸は生まれて初めて父に相見えた。
腰には、望月翁が大事に預かっておいた明憲より拝領の小刀を差していた。
「母は、息災か」
茶を差し出した鶴丸に、明憲はぎこちない作り笑顔で問うた。思いがけず、鶴丸の面差しが毎朝鏡に映す己の顔に驚く程似ている事に驚愕を隠せなかった。真実己の子であるか半信半疑でもあった明憲は、この瞬間、気味悪い程の血の絆を感じてしまったのである。
鶴丸は、そんな父の心の動きを、明敏に悟ってしまっていた。いや、仁王像のような明憲の大きな目が、全てを如実に語ってしまっていたのである。
「うちの婆ァは男好きでな、男がいなきゃ夜も日も明けねぇときたもんだ。だがな、あんたの顔見て思ったよ。俺のこの性悪面は、間違いなくあんたの血筋だ」
鶴丸の明け透けな笑い声に、付き従っていた八千沢配下の藩士が、腰の刀に手をかけて駆け込んで来た。
「構わぬ、下がれ」
明憲は狼狽しながらも、何とか配下を押しとどめて座敷より退去させた。
「おまえをこの山里に放っておいた事、幾重にも詫びる。だがな、余の眼差しを受け継ぐ其方なれば解るであろう。今、そなたが立たねば、余も、腹違いの兄も、立ち行かのうなる。獅子身中の虫めらが、この加山家を食い潰してしまうだろう。そうなれば、数多の領民が塗炭の苦しみを……」
語るうちに熱がこもっていく明憲をよそに、鶴丸は退屈そうに欠伸をするなり正座を解いて、足を投げ出すように大の字に寝転がった。
「で、嫡子ってのは、偉いのかい」
「生まれ落ちて何もせずに偉い等という事があるものか。学問を積み、武芸を鍛え……」
「女は思いのままか」
「それは……」
下忍の娘にも手を付けた明憲である。答えられよう筈がない。
「メシは、さぞ美味いものをたんと食わしてくれるんだろうなぁ」
「ひもじゅうはなるまい」
「ふうん……江戸へ行けばいいんだな」
「そうじゃ」
「江戸へ行けば、好きな事していいのだな」
巧く交渉の盆に乗せられたと明憲は舌打ちする思いであったが、半ば自棄になって鶴丸の言葉を肯定した。
「よおし。俺は今日から御嫡子様だ。誰にも文句は言わせねぇ。あんたもだぜ、親父よぅ。俺に頼むと頭下げたからには、おいらの出来が悪いからバッサリだなんて素振りしやがったら、御畏れながらと公儀に御家騒動のあらましぶちまけてやるからな」
それまで拳を握りしめていた明憲は、とうとう例の仁王が如き両目を吊り上げて、癇癪声を張り上げながら足音を立ててその場から辞去した。
「ええい厳斎ッ、大した仕込みじゃ! 」
しかし、別間で出迎えた望月翁は涼しい顔をして言った。
「夢にまで見た父親に会い、鶴丸君なりに甘えておられますのじゃ。今は全て受け止めるが肝要。父君としての懐が、きっとあの若君の性根を正す事じゃろう」
己の撒いた胤だと、暗に厳斎が明憲を諭した。鷹狩りの折に一刻の欲情に駆られて前後の見境無く女を奪ったその出来事こそが、明憲の撒いた胤であり、芽吹いた命を気にかける事も手元で養育する事も無かったが為に、鶴丸と言う若穂が出来上がったに過ぎない。
「親子の絆に良薬無し。ましてや子の成長に、親の愛に勝る薬があろう筈が無い」
君臣の鎖に縛られてはいない望月翁は、一人の経験ある老人として、若き藩主に対峙していた。故に、明憲はいつしか拳を解き、癇癪を恥じるように目を伏せ、居住まいを正して静かに耳を傾けていたのであった。
「余が不明であった。許せ」
望月翁は頷き、柔和に微笑んだ。
朝靄立ちこめる望月家の門前で、草色の小袖に伊賀袴という旅装束の志免が、鶴丸を待っていた。明憲との対面を終えた今、鶴丸は暦とした加山家若君である。鶴丸の荷物一切も、志免がその小柄な体に担いでいた。
「兄は助けぬぞ。己のみの力で、きっと成し遂げるのじゃ、良いな、志免」
荷物を志免の背に結い付けながら、綾乃が厳しく言いつけた。しかし、たった二人での、人目を憚る様な慌ただしい出立に、志免はその先の困難を思って鬱々としていた。
もし城中で対面を行ったのであれば、家中の知る所となり、仰々しい行列を以て出立する所であろう。だが、千代丸の状態を考えても余り時間はかけられず、また、公儀や御子柴一派の目に殊更鶴丸を晒す事にもなり、命が危うくなる。望月家での対面は、こうして密かに出立させる為でもあったのだった。
「おう、行くぜ、下僕」
すると、鶴丸がいつもの切袴姿で屋敷内から姿を見せるなり、見送りに出ていた綾乃や朱実の脇を通り過ぎて出立してしまった。
「何て奴だい」
「おやめなさい、朱実」
「あんな奴に負けるんじゃないよ、志免」
「……行って参ります」
プリプリと怒る朱実の言葉等まるで耳に入らぬ様子で、志免は今生の別れのように絶望に青ざめた顔で頼りなく頭を下げ、鶴丸を追って出立したのであった。
「鶴丸」
まだ傾斜の殆ど無い平坦な畦道を駆けて志免が近付くと、突然鶴丸が立ち止まって振り向いた。志免は条件反射の如く二間以上の間を空けて立ち止まり、ビクリと体を縮めた。
「愛洲の若様より、俺の方が偉いんだぞ。鶴丸さまだろ、サマ」
「鶴丸……さま」
「水」
水筒をよこせと差し出した鶴丸の手に、志免は恐る恐る近寄って水筒を突き出した。そして鶴丸の手に水筒が収まるや否や、甲羅に手足を竦める亀の如く、手を引いて体を小さくしたのであった。
「使えねぇなぁ」
苛立たしく舌打ちし、鶴丸は小石を蹴りながら里の道を練り歩いて行った。
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