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1.元禄3年
⓶ 禅問答
しおりを挟む保明の目が水目藩の内情に向けられていると察した仁介は、知らぬ顔で受け流した。
「むしろ、あって欲しいと願う程だ」
「凡庸な私の頭では、何の事か、とんと」
解っておるくせにと、保明が唇の端を微かに上げた。
「水目藩の江戸上屋敷では、御匙(医師)が連日大活躍をしておるそうではないか」
「流石に、お耳に達しておりましたか」
「嫡子・千代丸の病が重いと聞き及んでいる。当主|明憲殿に他に男子はいない」
「はい」
「と、いうのは表向き」
「はい? 」
「甲賀五十三家の一つ、其方の母方の里でもある望月家に、明憲殿の御胤があるとかないとか」
「そうと知られてしまっては致し方ございません。はい、それは私でございます」
笛を帯に差し挟み、仁介がなよやかに手をついて頭を下げた。その艶やかな髪が束ねてある後頭部を、保明が扇で軽く叩いた。
「痛い」
「たわけ」
「そこが可愛ゆいと仰せ下さいましたのに」
「然様。私はお前の虜じゃ」
鼻がつきそうな程に顔を寄せられ、仁介は思わず唇を差し出しそうになってしまったが、保明の瞳の奥の謀略の陰を見つけ、保明の胸を手で押すようにして体を離した。
「殿の御次男に何か不都合でも」
「御次男? まだ子としての届けは公儀に出されておらぬ。明憲殿には他界した正室に御子が無かった。千代丸殿の母は、加山家分家筋の家老・御子柴主膳の遠縁の娘。片や、望月家に預けられている御落胤とやらの母は、明憲殿が鷹狩りの折に休息場で茶を出した下忍の娘とか。血筋も問題だが、その御落胤の認知を公儀に届け出る前に千代丸殿が病で倒れれば、御家断絶。千代丸が死んだ後で次男だと届けても、公儀は決して受理すまい」
「今一人、姫君がおわします」
何か問題でも、とばかりに顎を上げて言い切る仁介に、保明は半ば呆れ顔で苦笑した。
「私は伊達に、美童や美女を囲っている訳ではない。千代丸殿の同母妹で国許におる小夜姫は確か12歳。だが、姫は江戸留守居役・御子柴の胤だという噂があると聞いている」
「酷い御方。あちこちにお菓子として差し出して、諜略の道具になさっておいでに」
「おまえも私を、水目藩を守る為に情報を引き出す道具として利用しておるではないか」
ここで仁介は、目に涙を湛えて保明を上目遣いに見つめた。これはもう、保明の自制が利かなくなる程の媚態である。
「仁介……」
「意地悪」
そして、ウッと嗚咽を堪えるように小袖の袂で口元を押さえ、パタパタと駆け去ってしまえば、安芝居としては上出来である。
「似合わぬ、まるで似合わぬ」
と、背後から聞こえてきた嘆くような保明の声に、仁介は立ち止まって溜め息をついた。
「少しは戯れ言に興じて頂きませぬと、つまりませぬ」
子供のように頬を膨らませつつ、仁介は居室に戻り、そのまま慣れた足取りで保明の膝の上に腰を下ろした。膝に重みも痛みも感じさせぬ程の、軽やかな体である。
「私の前では、おしゃべりも戯れ言も、思いのままになされて下さりませ」
「そうしておる」
愛し子をあやすように、保明は背中から抱き締めている仁介と共にゆらゆらと揺れた。
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