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連載
第116話 ドーナさんの決断
しおりを挟むそんな怒涛の日々もすぐに過ぎ去っていった。
マヨネーズを使った新メニューということもあってか、売り上げはぐんと上がり、ドーナさんのお店は行列の絶えないお店となっていた。
多分、普通にお店をやって得られる一ヵ月の売り上げの何倍もの売り上げになったと思う。
それだけに、ドーナさんのお店を守れるかもしれないという希望が現実的になってきた気がしていた。
開店から閉店までせわしなく働いて、エルドさんはその後に修行をして朝方帰ってくる。
振り返る暇もないような日々が続いて、気がつけば約束の一ヶ月が経過した。
「悪いな、この店は閉めることにした」
そして、最後の一日の営業を終えたドーナさんは、店内の片づけを終えた私たちにそんな言葉を漏らした。
突然すぎる言葉だったが、いつかは聞かされるかもしれないと思っていた言葉。
そんな言葉を受けて、私は喉の奥の方がきゅっとなるのを感じた。
「……お金、足りなかったんですか?」
ドーナさんは私の作った料理を美味しいと言っていながら、どこかジェラシーのような物を抱くくらい料理に真剣だった。
ただ愚直に料理と向き合って、自分の料理を通してお客さんが喜んでいるこの空間が好きだった料理好きのお爺さん。
それが理不尽にその居場所を奪われようとしているのが許せなくて、私はこの一ヶ月頑張ってきたつもりだった。
売り上げも順調だったはずなのに、ドーナさんの友人に押し付けられた連帯保証人の借金の額には到達できなかったみたいだ。
……頑張っても報われない、そんな理不尽を前に立ち向かったつもりだったのに。
胸に広がっていく形容しがたいような熱い何かが胸を締め付けて、声を出せば裏返ってしまいそうなほどに喉を細めてくる。
そんな悔しさのせいか徐々に視界が潤んできた気がして、私はそれを隠そうと俯いた。
ドーナさんが一番辛いはずなのに、私が泣くのは多分違うから。
「いや、お金の問題じゃないんだ」
「え?」
私は思いもしなかった返答を前に、隠そうとして俯いたはずのその顔を反射的に上げてしまった。
私の表情を見て少し驚いたようなドーナさんだったが、すぐにその表情をからっとした笑みに変えた。
「料理人としてやることができた。ただそれだけだ」
「……どういう意味ですか?」
すっきりとした表情はお店を閉店させることを嘆いているようには見えず、その表情には少し吹っ切れたような何かを感じた。
「元々、料理人としてやれることをやりきったから、この店を畳むつもりだった。それで、その金を連帯保証人の借金の返済に回そうとしたんだがな」
ドーナさんは少し昔のことを思い出すようにそんなことを言った後、私たちを見て小さくため息を吐いた。
「そこに現れたのがお前たちだ。見たことも聞いたこともない調味料でうちの客を虜にしていった。ワシよりもずっと若くて幼いやつらがな」
その目は燻ぶるような言葉と裏腹に、何かに対する闘志の色が感じられた。それから、ドーナさんは小さく失笑した後に言葉を続けた。
「やりきってなんかいなかったんだよなぁ。……全然」
ドーナさんはしみじみとそんな言葉を漏らした後、いつものからっとした笑みを浮かべて言葉を続けた。
「てなわけで、俺は料理の修業に出ることにした。今のままじゃ、アンたちの味で舌が肥えた客相手に俺の料理は出せないからな」
「しゅ、修行ですか?」
思いもしなかった言葉を受けて、エルドさんは少し声を裏返していた。
弟子という立場で一ヶ月を共にしただけあって、その師が修行に出るということに驚きを隠せなかったのだろう。
「おうよ。エルド覚えておけ、料理人ってのは一生修行するもんだ。料理人をやめるまではな」
「わ、分かりました」
「てことで、借金はちまちま返済していくことにした。先は長いが……まぁ、暗くはないみたいだからな」
そこまで言うとドーナさんは前もって準備しておいたのか、布袋を取り出すとそれをエルドさんに押し付けるように手渡した。
「これは今までのお給金ってことで、取っておけ。ちと少ないのは許してくれ」
「ん? え、ちょっ、ドーナさん」
「今度は客としてこの店に来てくれや。ワシの修行がいつ終わるか分からんけどな」
「え、それって……」
店を閉めるということは、売りに出すことかと思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。
いつかまた少しだけ騒がしいお客さんたちに囲まれて、料理を提供するドーナさんの姿が見ることができるみたいだ。
結局、私たちが一ヶ月間頑張ってもドーナさんの友人に連帯保証人にされた借金は返しきれなかった。
それでも、ドーナさん料理人としての本能を刺激して、その背中を押すことはできたみたいだ。
「アン、エルド。達者でな」
借金として背負った額は大きいはずなのに、その表情はこれから先の未来を見つめているようで明るくからっとした笑みをしていた。
闘志が宿ったような目は、初めに会ったときの投げやりな目とは別人の物のようにさえ感じた。
「はい。ドーナさんもお元気で」
それなら、私にできることはドーナさんを応援することくらいだろう。
ドーナさんの料理の修業が上手くいくように、今度はお客さんとしてこのお店で会える日を夢見て、私はそんな言葉と共に笑みを浮かべたのだった。
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