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転生勇者と魔剣編
第七十六話 真相(3)
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「作っ……なに?」
今日、いやこの夜だけで幾度驚いた事だろう。そんな妙なことを考えているレッドに対し、枢機卿長は懐かしむような顔をしてこう語りだす。
「――二十年ぐらい前になるかな、魔王復活の兆候が観測されたのは」
「は……!?」
またぶん殴られたような衝撃を受ける。まるで、自分の足元がガラガラと崩れていく感覚だった。
「何言ってる……魔王復活が予期されたのは、まだ一年も経ってないだろ!?」
「そんなの公式で発表したってだけさ。魔王が今年……いや、最低でもここ数年以内に復活するってのは、五か国の重鎮たちは二十年前から知っていた」
「そん、な……!」
にわかには――違う、まったく信じられるようなものではない。
しかし、既にレッドの信じるものなど根底から破壊しつくされている。今更、嘘が一つ増えたくらいで驚くには値しないかもしれない。
「と言っても、ほとんど相手にされなかったけどね。そりゃそうさ。伝説の魔王たってもはや五百年以上昔の話だ。覚えている奴なんていやしない。そんな奴が突然復活しますよなんて言われたところで、信じる奴なんているもんかい」
カラカラ笑いながら喋る姿は、とても世界が滅びる大事を話しているようには見えない。この男は、どこまでが本気でどこまでが冗談かまるきり読めなかった。
「ただ――水面下で計画は進めていた。主に教会の関係者がね。聖剣の使い手、聖剣の勇者にふさわしい人物を作り上げる計画――『アークプロジェクト』はね」
「アーク……なに?」
「アークプロジェクト。君も知ってるだろ? 聖剣の正式名称、聖剣アークはさ。あれと、もう一つ、白き鎧との契約の時彼が発した『ノア』って名前、何のことだか知ってる?」
「い、いや……」
確かにアレンは、あの時「我が名は『ノア』」と言っていた。しかし、ノアもアークも、聞き覚えの無い単語である。
「まあ、この世界には存在しない単語だからね。これは異界の神話に由来しているのさ。タイトルは『ノアズ・アーク』、ノアの方舟ってところかね」
「ノアの、方舟……?」
意味が分からないレッドに、枢機卿長は「ああ」と答えた。
「神罰により世界の全てが洪水に沈もうという時に、巨大な方舟を作りそこに正しき者と多くの動物のつがいを入れて洪水から逃れ、世界を滅びから救ったという男、それがノアだ。異界では常識的な神話さ」
「はあ……」
そんな異界の伝承など説明されたところで、理解できるわけがない。異界の存在はこの世界では常識として認識されているものの、具体的なことは誰も把握していないのだ。
「それは分かったが、それと聖剣とどういう関わりがある?」
「おや、難しかったかな? 君なら理解できると思ったがね。聖剣の名が『アーク』、そしてそれを扱い白き鎧を身に纏う者の名が『ノア』――ここまで言えば分かるだろ?」
「何を、言って……」
そこで言葉を切ってしまう。
今まで重ねてきた単語が全て纏まり、一つになって、それは恐ろしい結論と化した。
「――そう、ようやく理解したようだね。その通りだよ」
口角を歪め、心底楽しそうに枢機卿長は笑った。
「アークプロジェクトとは文字通りノアの方舟、つまり聖剣アークを扱える人間を育てる計画。聖剣の勇者――ノアの名を持つにふさわしい人間を作り上げる計画なのさ」
レッドは、尋常でない怖気を覚えた。
一人の人間を、人格から精神から、何もかも理想的な人間へと作り上げる。
それがどのような意味があるか、想像が付くだけに恐ろしかった。
「――奴に、アレンに何をした?」
こちらの射るような目に対し、枢機卿長はわざとらしいリアクションで応じる。
「おいおい、物騒なこと言わないでくれよ。別にそんなヤバいことなんかしちゃいないって。ただ単に、彼の人生にちょっと手を加えさせてもらっただけさ」
「手を、加える――?」
「ああ。具体的には彼の故郷に人を入れて、彼が幼い頃から勇者物語に憧れるようにしたり、心優しく穏やかな子となるようしたりね」
「――奴を無能と蔑ませ、人々から差別させるよう仕組んだりもか?」
「いやあ、それは必要無いよ。犬族ってやたら上下関係とか力関係気にする奴らでさ、ヒエラルキーの下にいる奴を苛めたりするなんて当然なのさ。だから、そっちは僕が仕込んだ工作員が手下すまでもなかったね」
レッドには極めて軽く話す枢機卿長が、もはや怪物に見えてきてしまっていた。
アークプロジェクトだか何だか知らないが、この男は一人の人間の人生を、人格を、精神や信念に至るまで、全て捻じ曲げて自分の都合の良いように作り上げたのだ。
かつて、アレンがレッドに語った勇者パーティに参加した理由、故郷を、人々を救いたいという真摯な願いも、この男によって作り上げられた虚像に過ぎなかったのだ。
「――幸運だな。アレンがそんな都合のいい人物に育つなんて、いくら誘導していたとはいえラッキーなことだ」
「おいおい、そんな上手く行くわけないじゃないの」
「ん?」
「人一人の人格と理念を、完全に思い通り構築させるなんて難しい事さ。仮に彼の周りの全員を工作員で埋めたとしてもね。そこまで人員と費用を使うのはハイリスクローリターンの極みだ。たった一人に、そんな使えるわけないじゃん」
「なら、どうして……」
そこでまた、レッドは戦慄することとなった。
枢機卿長が言った、「たった一人に」という言葉の真意。それに愕然となる。
「まさか、貴様――!」
「――勘が回るようになったね、ご明察だよ」
そう笑うと、枢機卿長はテーブルに落としたままのカップの破片たちをまた空中で浮かべる。
いくつもの破片をクルクル回しながら、こう言った。
「彼だけじゃないよ。ノアに選ばれる人材として養育された――勇者の候補たちはさ」
「貴様――!」
あまりにも平然と言い放ったことに、レッドはまた激昂して襲い掛かろうとしたが、枢機卿長はその前にカップの破片をレッドの顔面に向けて飛ばした。
「うわっ!」
咄嗟に両手で顔を覆ったが、破片たちは顔に命中する前に停止しそのまま宙に留まった。
「――たった一人を、人格も思想も全て理想通り育てようなんて、そりゃハイリスクさ」
枢機卿長の説明と共に、破片たちはそれぞれ別々に宙で回っていた。
「だったら、最初から一人に限らなければいい。あらかじめ複数人の候補を用意しておいて、それぞれ別な場所で決められたカリキュラムに従い育てる。聖剣アークにふさわしい人物としてね。もしも、適切と判断されない成長を遂げた場合は――」
そして枢機卿長が指をツンと下げると、破片のほとんどが浮力を失い、テーブルへと落下し砕けていく。
「遺棄すればいいだけさ」
レッドの眼前に残ったのは、たった一つだけだった。
「――てめえ、何人の人生狂わせた?」
「人聞きが悪いな。遺棄って言っても別に殺したわけじゃない、介入を止めただけさ。ま、その後の人生は知らないけどね。勇者候補の総数は……そうだ、確かアレン君含めると十人ぐらいいたかな」
レッドの、残った右目が怒りで血走る。
こんな奴の、こんな奴の計画の為に、生まれも育ちも、価値観も歪められ、人生を狂わされた者が十人もいる。それを思えば、既に頂点と感じていた枢機卿長に対する憎悪がより増していった。
その姿を一瞥した枢機卿長は、どうしてだか「……あーあ」とため息をついた。
「これに怒るなんてねえ。変なところで人が良いんだから。やっぱり君を選んだのは失敗だったようだね」
「……? どういう意味だ?」
「おいおい、君は勘がいいのか悪いのかはっきりして欲しいね。今までの話聞いて、本当に気付かないのかい?」
「気付くだと? いったい何を……」
「レッド・H・カーティス」
いきなりフルネームで呼ばれ、一瞬固まってしまう。
しかし、枢機卿長はただ名前を呼んだのではないようだった。
「君さあ、気にしたこと無いの?」
「何の話だ……!」
「落ち着け、非常に簡単な事だって」
そう言って、今度はテーブルに零れた紅茶の水滴を指に付け、筆代わりに文字を記していく。
「レッド・『H』・カーティス……『H』って、何のこと?」
「い、いや、それは……」
レッドは、黙らざるを得なかった。
実は自分も、気にしたことは何度もある。
アトール王国において、ミドルネームを使うことはあまり一般的ではない。例えば親と同じ名前が付けられた場合や、とある家に養子に入った場合などに付けることもあるが、あくまでレアケースであり、ミドルネームを持つ人間はごく少数と言っていい。
ところがレッドは、特に上記の事情など無いのにどうしてだかミドルネームが付いている。昔は父や母に尋ねたこともあったが、「知らん」の一言で済まされてしまい、いつの間にかレッド自身興味を無くしてすっかり忘れていた。
だから、尋ねられたところでレッドは説明することが出来ないのだ。
そんなレッドの心境を把握しているだろう枢機卿長は、クスクスしながらこう述べる。
「知らないようだね。そりゃそうさ。その名前は、洗礼を受けに来た君の両親に、他ならぬ僕が付けた名前なんだからね。理由言わなかったから両親も知らないよ」
「は? お、お前が? ちょっと待て、お前何歳なんだ?」
「さぁて、ね。いくつだったっけ? まあそれは後でいいとして、大事なのは名前の方さ。レッド・H……これが、何を意味する言葉かも、当然知らないでしょ?」
「勿体ぶりやがって、それがどうしたって……!」
「red・herring」
頭に血が上りかけたところ、不意に聞き慣れない単語が出てきて一瞬硬直する。
「ヘリ……ング? なんだ、そりゃ……」
「レッド・へリング。まあこれも異界の言葉だけど、あんまり一般的な言葉じゃないし、分からないのが普通だろうね。市井に流れている言葉も割と極端だしねえ」
「どうでもいいことばかり並べるな。それより、その言葉に何の意味があるってんだ!」
いい加減回りくどすぎる話し方にうんざりしていると。「まあまあ」と適当に宥めながら枢機卿長は話を再開する。
「ちゃんと説明するって。ま、これは慣用句みたいなもんなんだけど、意味は――
――そうだな、簡単に言うと、真に隠すべき事柄から相手の注意を逸らすための偽の証拠、物品、偽りの存在ってとこかな?」
「偽の証拠、物品……? 何を言って……」
その次の言葉は、紡ぐことが出来なかった。
自らに付けられた名前の意味を、理解してしまったから。
真に隠すべき事柄から注意を逸らすための、偽の存在。
真に隠すべき、本当の人物の存在を隠すために用意された人物。
真の勇者を隠すために、用意された偽の人物。
「――やれやれ、ようやく分かったかい。お考えの通りさ」
青ざめた彼の顔に、枢機卿長はため息混じりにそう言った。
そして、レッドにとって、あまりに残酷な真実を、さも平然と告げるのであった。
「レッド・ヘリング・カーティス。君は――
真の勇者を隠す偽りとして僕らが作った偽勇者なんだよ」
今日、いやこの夜だけで幾度驚いた事だろう。そんな妙なことを考えているレッドに対し、枢機卿長は懐かしむような顔をしてこう語りだす。
「――二十年ぐらい前になるかな、魔王復活の兆候が観測されたのは」
「は……!?」
またぶん殴られたような衝撃を受ける。まるで、自分の足元がガラガラと崩れていく感覚だった。
「何言ってる……魔王復活が予期されたのは、まだ一年も経ってないだろ!?」
「そんなの公式で発表したってだけさ。魔王が今年……いや、最低でもここ数年以内に復活するってのは、五か国の重鎮たちは二十年前から知っていた」
「そん、な……!」
にわかには――違う、まったく信じられるようなものではない。
しかし、既にレッドの信じるものなど根底から破壊しつくされている。今更、嘘が一つ増えたくらいで驚くには値しないかもしれない。
「と言っても、ほとんど相手にされなかったけどね。そりゃそうさ。伝説の魔王たってもはや五百年以上昔の話だ。覚えている奴なんていやしない。そんな奴が突然復活しますよなんて言われたところで、信じる奴なんているもんかい」
カラカラ笑いながら喋る姿は、とても世界が滅びる大事を話しているようには見えない。この男は、どこまでが本気でどこまでが冗談かまるきり読めなかった。
「ただ――水面下で計画は進めていた。主に教会の関係者がね。聖剣の使い手、聖剣の勇者にふさわしい人物を作り上げる計画――『アークプロジェクト』はね」
「アーク……なに?」
「アークプロジェクト。君も知ってるだろ? 聖剣の正式名称、聖剣アークはさ。あれと、もう一つ、白き鎧との契約の時彼が発した『ノア』って名前、何のことだか知ってる?」
「い、いや……」
確かにアレンは、あの時「我が名は『ノア』」と言っていた。しかし、ノアもアークも、聞き覚えの無い単語である。
「まあ、この世界には存在しない単語だからね。これは異界の神話に由来しているのさ。タイトルは『ノアズ・アーク』、ノアの方舟ってところかね」
「ノアの、方舟……?」
意味が分からないレッドに、枢機卿長は「ああ」と答えた。
「神罰により世界の全てが洪水に沈もうという時に、巨大な方舟を作りそこに正しき者と多くの動物のつがいを入れて洪水から逃れ、世界を滅びから救ったという男、それがノアだ。異界では常識的な神話さ」
「はあ……」
そんな異界の伝承など説明されたところで、理解できるわけがない。異界の存在はこの世界では常識として認識されているものの、具体的なことは誰も把握していないのだ。
「それは分かったが、それと聖剣とどういう関わりがある?」
「おや、難しかったかな? 君なら理解できると思ったがね。聖剣の名が『アーク』、そしてそれを扱い白き鎧を身に纏う者の名が『ノア』――ここまで言えば分かるだろ?」
「何を、言って……」
そこで言葉を切ってしまう。
今まで重ねてきた単語が全て纏まり、一つになって、それは恐ろしい結論と化した。
「――そう、ようやく理解したようだね。その通りだよ」
口角を歪め、心底楽しそうに枢機卿長は笑った。
「アークプロジェクトとは文字通りノアの方舟、つまり聖剣アークを扱える人間を育てる計画。聖剣の勇者――ノアの名を持つにふさわしい人間を作り上げる計画なのさ」
レッドは、尋常でない怖気を覚えた。
一人の人間を、人格から精神から、何もかも理想的な人間へと作り上げる。
それがどのような意味があるか、想像が付くだけに恐ろしかった。
「――奴に、アレンに何をした?」
こちらの射るような目に対し、枢機卿長はわざとらしいリアクションで応じる。
「おいおい、物騒なこと言わないでくれよ。別にそんなヤバいことなんかしちゃいないって。ただ単に、彼の人生にちょっと手を加えさせてもらっただけさ」
「手を、加える――?」
「ああ。具体的には彼の故郷に人を入れて、彼が幼い頃から勇者物語に憧れるようにしたり、心優しく穏やかな子となるようしたりね」
「――奴を無能と蔑ませ、人々から差別させるよう仕組んだりもか?」
「いやあ、それは必要無いよ。犬族ってやたら上下関係とか力関係気にする奴らでさ、ヒエラルキーの下にいる奴を苛めたりするなんて当然なのさ。だから、そっちは僕が仕込んだ工作員が手下すまでもなかったね」
レッドには極めて軽く話す枢機卿長が、もはや怪物に見えてきてしまっていた。
アークプロジェクトだか何だか知らないが、この男は一人の人間の人生を、人格を、精神や信念に至るまで、全て捻じ曲げて自分の都合の良いように作り上げたのだ。
かつて、アレンがレッドに語った勇者パーティに参加した理由、故郷を、人々を救いたいという真摯な願いも、この男によって作り上げられた虚像に過ぎなかったのだ。
「――幸運だな。アレンがそんな都合のいい人物に育つなんて、いくら誘導していたとはいえラッキーなことだ」
「おいおい、そんな上手く行くわけないじゃないの」
「ん?」
「人一人の人格と理念を、完全に思い通り構築させるなんて難しい事さ。仮に彼の周りの全員を工作員で埋めたとしてもね。そこまで人員と費用を使うのはハイリスクローリターンの極みだ。たった一人に、そんな使えるわけないじゃん」
「なら、どうして……」
そこでまた、レッドは戦慄することとなった。
枢機卿長が言った、「たった一人に」という言葉の真意。それに愕然となる。
「まさか、貴様――!」
「――勘が回るようになったね、ご明察だよ」
そう笑うと、枢機卿長はテーブルに落としたままのカップの破片たちをまた空中で浮かべる。
いくつもの破片をクルクル回しながら、こう言った。
「彼だけじゃないよ。ノアに選ばれる人材として養育された――勇者の候補たちはさ」
「貴様――!」
あまりにも平然と言い放ったことに、レッドはまた激昂して襲い掛かろうとしたが、枢機卿長はその前にカップの破片をレッドの顔面に向けて飛ばした。
「うわっ!」
咄嗟に両手で顔を覆ったが、破片たちは顔に命中する前に停止しそのまま宙に留まった。
「――たった一人を、人格も思想も全て理想通り育てようなんて、そりゃハイリスクさ」
枢機卿長の説明と共に、破片たちはそれぞれ別々に宙で回っていた。
「だったら、最初から一人に限らなければいい。あらかじめ複数人の候補を用意しておいて、それぞれ別な場所で決められたカリキュラムに従い育てる。聖剣アークにふさわしい人物としてね。もしも、適切と判断されない成長を遂げた場合は――」
そして枢機卿長が指をツンと下げると、破片のほとんどが浮力を失い、テーブルへと落下し砕けていく。
「遺棄すればいいだけさ」
レッドの眼前に残ったのは、たった一つだけだった。
「――てめえ、何人の人生狂わせた?」
「人聞きが悪いな。遺棄って言っても別に殺したわけじゃない、介入を止めただけさ。ま、その後の人生は知らないけどね。勇者候補の総数は……そうだ、確かアレン君含めると十人ぐらいいたかな」
レッドの、残った右目が怒りで血走る。
こんな奴の、こんな奴の計画の為に、生まれも育ちも、価値観も歪められ、人生を狂わされた者が十人もいる。それを思えば、既に頂点と感じていた枢機卿長に対する憎悪がより増していった。
その姿を一瞥した枢機卿長は、どうしてだか「……あーあ」とため息をついた。
「これに怒るなんてねえ。変なところで人が良いんだから。やっぱり君を選んだのは失敗だったようだね」
「……? どういう意味だ?」
「おいおい、君は勘がいいのか悪いのかはっきりして欲しいね。今までの話聞いて、本当に気付かないのかい?」
「気付くだと? いったい何を……」
「レッド・H・カーティス」
いきなりフルネームで呼ばれ、一瞬固まってしまう。
しかし、枢機卿長はただ名前を呼んだのではないようだった。
「君さあ、気にしたこと無いの?」
「何の話だ……!」
「落ち着け、非常に簡単な事だって」
そう言って、今度はテーブルに零れた紅茶の水滴を指に付け、筆代わりに文字を記していく。
「レッド・『H』・カーティス……『H』って、何のこと?」
「い、いや、それは……」
レッドは、黙らざるを得なかった。
実は自分も、気にしたことは何度もある。
アトール王国において、ミドルネームを使うことはあまり一般的ではない。例えば親と同じ名前が付けられた場合や、とある家に養子に入った場合などに付けることもあるが、あくまでレアケースであり、ミドルネームを持つ人間はごく少数と言っていい。
ところがレッドは、特に上記の事情など無いのにどうしてだかミドルネームが付いている。昔は父や母に尋ねたこともあったが、「知らん」の一言で済まされてしまい、いつの間にかレッド自身興味を無くしてすっかり忘れていた。
だから、尋ねられたところでレッドは説明することが出来ないのだ。
そんなレッドの心境を把握しているだろう枢機卿長は、クスクスしながらこう述べる。
「知らないようだね。そりゃそうさ。その名前は、洗礼を受けに来た君の両親に、他ならぬ僕が付けた名前なんだからね。理由言わなかったから両親も知らないよ」
「は? お、お前が? ちょっと待て、お前何歳なんだ?」
「さぁて、ね。いくつだったっけ? まあそれは後でいいとして、大事なのは名前の方さ。レッド・H……これが、何を意味する言葉かも、当然知らないでしょ?」
「勿体ぶりやがって、それがどうしたって……!」
「red・herring」
頭に血が上りかけたところ、不意に聞き慣れない単語が出てきて一瞬硬直する。
「ヘリ……ング? なんだ、そりゃ……」
「レッド・へリング。まあこれも異界の言葉だけど、あんまり一般的な言葉じゃないし、分からないのが普通だろうね。市井に流れている言葉も割と極端だしねえ」
「どうでもいいことばかり並べるな。それより、その言葉に何の意味があるってんだ!」
いい加減回りくどすぎる話し方にうんざりしていると。「まあまあ」と適当に宥めながら枢機卿長は話を再開する。
「ちゃんと説明するって。ま、これは慣用句みたいなもんなんだけど、意味は――
――そうだな、簡単に言うと、真に隠すべき事柄から相手の注意を逸らすための偽の証拠、物品、偽りの存在ってとこかな?」
「偽の証拠、物品……? 何を言って……」
その次の言葉は、紡ぐことが出来なかった。
自らに付けられた名前の意味を、理解してしまったから。
真に隠すべき事柄から注意を逸らすための、偽の存在。
真に隠すべき、本当の人物の存在を隠すために用意された人物。
真の勇者を隠すために、用意された偽の人物。
「――やれやれ、ようやく分かったかい。お考えの通りさ」
青ざめた彼の顔に、枢機卿長はため息混じりにそう言った。
そして、レッドにとって、あまりに残酷な真実を、さも平然と告げるのであった。
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