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08 逃走
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それは本当にたまたまで、少しどこかの歯車がずれただけで実現しなかっただろう。ただ、もしかしたら互いに引き寄せた運命であったのかもしれない。
***
香月がいつものように工場の仕事を終え、家に帰っているときだった。
歩いている歩道から道路をはさんで反対側の歩道。そこをなんとなく見たとき、香月の身体に衝撃が走った。
匂いがする。例えようのないほどいい匂いが。
匂いのもとを目でたどると、2人の青年が歩いている姿が見える。
香月は本能で分かった。左側の黒髪の彼が、えい君だと。
ようやく会えたという事実に胸を打たれ、香月はしばらく動けなかった。
歩く彼を目に焼き付け、駆け出そうと一歩踏み出した瞬間、香月は気づいた。これだけ離れていても分かる彼の身長の高さ、着ているものの良さに。
香月はその場から動くことができなかった。
今すぐに駆け出したい本能を抑え込み、今の自分を見下ろした。まったく伸びずに止まった身長、ぼさぼさの髪、穴の開いたシャツにズボン、壊れかけたスニーカー。
誰がどう見ても釣り合っていなかった。
薬を長年服用しているので、香月の匂いは彼まで届かないだろう。
もしかしたら、顔を見ても分かってもらえないかもしれない。だって、香月のキラキラの目はもうなくなってしまったのだから。
彼の前に駆け出して行って、なんて言うのか。言える言葉などあるはずもなかったのだ。
自分から急にいなくなっておいて――
あの日した決意が、香月の中でボロボロと崩れていく。
会えたから、それでいいじゃないか。一目見ることができた。
彼にも気づいてほしいと思うのは、図々しいだけだ。身の程を知るべきなのだ。
香月は歩いていく彼の後姿を見つめた。
行ってしまう。ずっと会いたかった人が、すぐそこにいるのに! 走れば間に合う距離にいるのに!
叫びたい思いを唇をかみしめて耐える。
涙で彼の姿がぼやけてしまわないように、必死にこらえながら、香月は見えなくなるまで彼の後姿を目に焼き付けようとした。
その時、角を曲がろうとした彼が、ふとこちらを振り返った。
――目が合った
次の瞬間、香月は逆の方向を向いて脱兎のごとく走り出した。
いままで動かなかった身体が嘘かのように、全速力で逃げたのだ。
そのまま家まで帰った香月は、押入れまで駆け込んで泣いた。
色々な思いが込み上げてきて、涙が止まらなかった。
彼を見ることができて嬉しかった。思い出の中の彼よりもずっと素敵な人に見えた。匂いを感じることができた。目があって嬉しかったはずなのに、とても恥ずかしかったのだ。出会った当時よりも、ダメになってしまった自分自身を見られることが。
今の香月を拒絶されたくなかった。精一杯頑張ってきたはずなのに、こんなことになってしまっている自分を彼に知ってほしくなかったのだ。
それでも、もう一度会いたい。声を聞きたかった。あの時、夕焼けで染まる公園で言われたようにもう一度、大切だと、そう言われたい。名前を呼んでほしい。
相反する感情が心の中で渦巻いて、香月は押入れの中で布団に顔を押し当てながら、声をあげて泣いた。
しばらくそのまま泣き続けた後、顔を洗うためにお風呂場に向かい、そこにある鏡で泣きはらした自分の顔を見て、もう一度泣いた。
***
香月がいつものように工場の仕事を終え、家に帰っているときだった。
歩いている歩道から道路をはさんで反対側の歩道。そこをなんとなく見たとき、香月の身体に衝撃が走った。
匂いがする。例えようのないほどいい匂いが。
匂いのもとを目でたどると、2人の青年が歩いている姿が見える。
香月は本能で分かった。左側の黒髪の彼が、えい君だと。
ようやく会えたという事実に胸を打たれ、香月はしばらく動けなかった。
歩く彼を目に焼き付け、駆け出そうと一歩踏み出した瞬間、香月は気づいた。これだけ離れていても分かる彼の身長の高さ、着ているものの良さに。
香月はその場から動くことができなかった。
今すぐに駆け出したい本能を抑え込み、今の自分を見下ろした。まったく伸びずに止まった身長、ぼさぼさの髪、穴の開いたシャツにズボン、壊れかけたスニーカー。
誰がどう見ても釣り合っていなかった。
薬を長年服用しているので、香月の匂いは彼まで届かないだろう。
もしかしたら、顔を見ても分かってもらえないかもしれない。だって、香月のキラキラの目はもうなくなってしまったのだから。
彼の前に駆け出して行って、なんて言うのか。言える言葉などあるはずもなかったのだ。
自分から急にいなくなっておいて――
あの日した決意が、香月の中でボロボロと崩れていく。
会えたから、それでいいじゃないか。一目見ることができた。
彼にも気づいてほしいと思うのは、図々しいだけだ。身の程を知るべきなのだ。
香月は歩いていく彼の後姿を見つめた。
行ってしまう。ずっと会いたかった人が、すぐそこにいるのに! 走れば間に合う距離にいるのに!
叫びたい思いを唇をかみしめて耐える。
涙で彼の姿がぼやけてしまわないように、必死にこらえながら、香月は見えなくなるまで彼の後姿を目に焼き付けようとした。
その時、角を曲がろうとした彼が、ふとこちらを振り返った。
――目が合った
次の瞬間、香月は逆の方向を向いて脱兎のごとく走り出した。
いままで動かなかった身体が嘘かのように、全速力で逃げたのだ。
そのまま家まで帰った香月は、押入れまで駆け込んで泣いた。
色々な思いが込み上げてきて、涙が止まらなかった。
彼を見ることができて嬉しかった。思い出の中の彼よりもずっと素敵な人に見えた。匂いを感じることができた。目があって嬉しかったはずなのに、とても恥ずかしかったのだ。出会った当時よりも、ダメになってしまった自分自身を見られることが。
今の香月を拒絶されたくなかった。精一杯頑張ってきたはずなのに、こんなことになってしまっている自分を彼に知ってほしくなかったのだ。
それでも、もう一度会いたい。声を聞きたかった。あの時、夕焼けで染まる公園で言われたようにもう一度、大切だと、そう言われたい。名前を呼んでほしい。
相反する感情が心の中で渦巻いて、香月は押入れの中で布団に顔を押し当てながら、声をあげて泣いた。
しばらくそのまま泣き続けた後、顔を洗うためにお風呂場に向かい、そこにある鏡で泣きはらした自分の顔を見て、もう一度泣いた。
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