さよなら水龍さま

すなぎ もりこ

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本当の事

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カイザスは目を見開き、小さく首を振る。



「そんな、なぜ…いつの間に。やっぱりジョセフがお前を脅していたのか?!」

「ジョセフは私をずっと疎ましがっていたけれど、あの日以来、一切何かをされることはなかったわ。私も要らぬ反感を買わないように心掛けていたし」

「…あのジジイは、お前を見殺しにしようとした。本当に殺す気だったんだ」



チュセのように水龍や儀式を否定する人間は、この村においての危険要素。

ジョセフは、歴代の水守からの口伝に従い、排除しようとしただけだ。

そう、単なる使命感からそうしただけ。

殺人でさえ水守には許されている。



「ジジイは俺だけを水から引き上げた。そして、お前を助けに行こうとする俺を押さえ込み、口を塞いだ」



カイザスはその時のことを思い出しているのか、苦しそうに眉を寄せ、肩で息をする。



「だけど、お前はなんとか自力で岸に辿り着いて、倒れた。…俺はジジイに必死に頼んだんだ、お前を見逃してくれ、助けてくれって、なんでもするから、と」



チュセは初めて聞かされる事実に胸を突かれ、息を呑む。



「アイツは、俺に言った。“助けてやっても良いが、チュセと親しくするのは止めろ。チュセは罰当たりな忌み子だから、お前まで水龍様に祟られる。それと、今日見た事は誰にも言うな”と」



カイザスは声を絞り出す。



「でないと、チュセをまた湖に沈める、と」



カイザスは声を詰まらせた。

チュセは愕然とした。



なんて事だ。

カイザスはそんな秘密を一人で抱えて、これまで生きてきたのか。

異質な幼なじみが排除されることを、ずっと恐れて…



「カイザス、ごめん、ごめんね、そんな事、ちっとも知らなかった。…私に関わって迷惑を被るのが嫌だから避けているのだと思ってた。てっきり、人とは違う私が気味が悪いのだと思ってた」



カイザスはチュセの両腕を掴み、再び首を振る。



「俺はずっと憧れてた。自分の気持ちに素直で揺るがないお前の事。だから、俺が守るって決めてた。ずっと、ジョセフの事を監視していたんだ」

「もしかして、次期水守に立候補したのも?」



カイザスは頷く。



「心配でしょうがなかった。回避させる方法を考えたけど、下手に接触すればジジイに疑われるし。だから…お前から協力を頼まれた時は渡りに船だと思った。売り飛ばすには、きっと生娘の方が好まれるのだろうと思って」

「そんなにまでして…カイザスはやっぱり優しい」



チュセはカイザスを見上げ、その沈んだ青い瞳に目を合わせた。



「でも、もう良いんだよ。私のことで悩むことは無い。カイザスも水守なんか止めて大工になれば良い。フリカと一緒になって分家して、独立すれば…」

「俺は、お前と連れ添いたい。ずっと決めていた」



カイザスが掴んだ腕を引き寄せ、チュセの額がブルーグレーのシャツに触れる。

チュセは頭上から降り注ぐ切ない告白を聞いた。



「俺の建てた家に二人で住むんだ。贄の儀式が終わればジジイに成り代わって俺が水守になる。そうすれば、もう誰にも何も言わせない。誰の目をはばかることなくチュセと過ごせる…そう思って、その日が来るのを心待ちにしていたのに…!」

「カイザス…」



思いがけないカイザスの望みに、チュセの心が揺れる。

この一ヶ月のカイザスとの触れ合いが蘇り、激しい行為のその裏に隠されていた感情を想像し、目が眩むほどの罪悪感に襲われた。



「感情を押し殺してお前を抱いた。けど、内心では夢のようだった。つけ込んで何度も行為を強要して、溺れた。もう、離せない。チュセ、お前を失うなんて、俺は耐えられない」



カイザスは狂おしくチュセを抱きしめた。

激しくなる鼓動と身体の熱が布越しに伝わる。

チュセは背中に手を回し、すがりつきたくなる衝動を堪えた。

身体が震え、涙が込み上げた。



「チュセ、俺と逃げよう。村を出て他所で二人で暮らそう」



けれど、それに応えることは出来ない。



何故なら、チュセは約束してしまったから。



ジョゼフに湖へ突き落とされたあの日、チュセもまた、カイザスの命と引き換えに契約したのだ。



湖の主と。



「カイザス、それは出来ないの。私は贄だから。水龍様の望みを叶えるお役目がある」

「水龍なんていない!水守が捏造した迷信だ!」



チュセはカイザスの胸の中で首を振る。



「いいえ、本当に水龍様はいるのよ、この湖に。だって、私は何度も会っているんだから」



「…嘘だ、そんな…」



チュセは、そっとカイザスから体を離し、力を失ったその腕を取る。



「舟に乗せて、カイザス」

「いや…だ」

「私の知っていることは全部話すわ。それで、カイザスに頼みたいことがある」



顔を歪める大好きな幼なじみの頬に手を伸ばす。



「お願い。カイザスにしか頼めないの」







舟は湖を静かに進んでいく。

雨の粒を受け、細かい波紋を作る湖面をかき分けていく。

カイザスは憔悴した様子で、それでもチュセの望みに従いオールを漕ぐ。

捲りあげたシャツから除く、その逞しい筋肉の躍動を眩しく見つめながら、チュセは話し始めた。



「あの日、水底に沈んだ私は水龍様に会ったの」









それは、銀の鱗と鰭ひれを持つ、美しい生命体だった。

青く澄んだ水中で長い身体をゆっくりと漂わせ、真っ黒な瞳で、水面から落ちてきたチュセを見つめていた。

チュセはその超絶な美しさと存在感に圧倒され、呼吸の苦しさを忘れた。

水龍はガポっと音を立てて口を開けた。



二列に並ぶ鋭い歯と赤い口蓋、そして、その奥にポッカリと続く真っ暗な穴を見て、チュセは食われるのだと覚悟した。

思うようにならない身体と、到底相手にならぬ圧倒的な力の差。

目前の存在が、生物としての強者であることを本能的に感じ取っていた。



しかし、押し寄せた激しい水泡に揉みくちゃにされたチュセが再び目を開けた時、チュセの身体は大きな空気の泡に包まれていた。



喉を撫でて、呼吸が出来ていることを確かめる。



『我の声が聞こえるか、童』



頭に直接響いてきた声に戸惑いつつ、チュセは見下ろす。

じっとこちらを窺っているかのような水龍が目に入った。

チュセは頷き、その後、急いで声を上げた。



「き、こえる!」

『我はお前らが水龍と呼ぶ者。長くこの湖の主となり水源を護ってきた』



チュセは、水龍が真に存在したことに、目にしたことも無い神聖な生物と会話が出来ている事実に震える。

夢のような光景だが、ぐっしょり濡れた髪と衣服、倦怠感、喉の痛み…身体を取り巻く感覚はリアルで、これが紛れもない事実であるとチュセに告げていた。



そして、チュセはふと思い出す。

一緒に湖に落とされた幼なじみの事を。



「水龍様!カイザスを!一緒に湖に落ちた男の子を…助けて!」

『あの童か…良いだろう水守を操り助けさせよう…』



チュセは空気の壁に手を付いたまま、ホッとして膝を折る。



『代わりに…私の望みを叶えられるか』



チュセは顔を上げ、真っ黒な水龍の瞳を見た。

そして、迷いなく頷いた。

命を助けられ、カイザスを救ってくれることを約束された今、断る理由はなかった。

水龍の声が再び頭に響く。



『贄となり、我をここから解放する手助けをして欲しい』
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