さよなら水龍さま

すなぎ もりこ

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水龍の棲む村

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チュセは腕に下げていた籠を祭壇に下ろし、掛布を捲った。
籠の中には橙色の果実が詰め込まれている。
チュセは一番上にある果実をひとつ掴み、振りかぶって思いっ切り湖に投げた。

ポチャンと音がして、凪いだ水面に波紋が広がる。
微かに吹く風が、チュセのくすんだ黄褐色の前髪を揺らす。
チュセはその波紋が収まるのをじっと待ってから、再び籠に手をやった。


空の籠を携えて細い小路を上り、小枝で編んだ垣の間にある木戸を引いた。
幾ばくか広い道に出て、木戸の把手を南京錠で施錠する。

それから、木立の向こうにある灰色煉瓦の建物に視線を移す。
後れ毛と前髪を整え、服装の乱れを確かめた。
高鳴る胸に手を当てて深呼吸をすると、チュセは足を踏み出した。


「鍵を返しにきました」

見慣れた戸口から声をかければ、建物の奥から返事が返ってきた。

「ご苦労さまー、鍵はカイザスに渡してくれ、礼拝堂にいるよー」
「はーい」

チュセは予想通りの答えに胸を弾ませ、礼拝堂へ向かう。
建物の角を曲がると直ぐに、円錐型の白い建物が現れた。
チュセは木製の扉の隙間から中を窺う。
ブルーグレーのシャツの大きな背中が見え、チュセの鼓動が跳ねる。
息を吸い込み、思い切って声をかけた。

「カイザス、鍵を返しに来たわ」

カイザスは少し静止した後、振り向かずに答えた。

「椅子の座面に置いとけよ」
「今日も礼拝堂の掃除当番なの?」
「お前こそ今日も湖の奉賛当番なのか、見上げた信仰心だな」
「別に、そんなんじゃないわ。誰も行きたがらないから引き受けてあげてるだけ」

チュセはわざとサバサバとした人格を装う。
本当は小心者で雨上がりの土のように湿っぽい性格なのに。
心に秘めたこの計画を成功させるためには、そうする必要があるからだ。

「今更水龍様から距離を置こうとしたって意味などないんだがな」
「そうよね、贄は奉賛の回数では決まらないもの。水龍様はすべてお見通し。すべては水龍様の御心のまま」

チュセは声を落とした。

「だけど、私は皆の気持ちも解るの」

そこでカイザスは漸く振り向いた。
短く刈った黒髪がヒョンヒョン跳ねている。
相変わらずのくせ毛なのだ。
表情に乏しい端正な顔の中で、唯一光を放つブルーの瞳。
思わず見惚れてしまったチュセは我に返り、急いで言葉を繋ぐ。

「ほら、迷信かもしれないけど、色々あるでしょ、水龍様は火の気を好まないから鍛冶屋の娘は選ばないとか」
「お前の家は仕立て屋だ。残念だったな」

いつものように冷たい言葉と態度に挫けそうになるが、チュセは勇気を振り絞る。

「他にもあるわ、穢れた娘は敬遠されるとか」
「…馬鹿馬鹿しい」
「だけど、贄候補の娘が皆こぞって処女を捨てたがるの、カイザスだって知ってるでしょ」
「くだらない。浅はかな考えだ」
「くだらなくても、縋りたくなる気持ちは解るわ。贄になるのは…怖いもの」

カイザスは鼻を鳴らす。

「仕方ないだろう、この村に生まれた者の使命だ。水龍様があの湖に留まって下さるから水源が枯れずに済んでいる。毎日祈りを捧げ、十年に一度、村から娘を贄に差し出すことを条件に三百年前の先祖が契約したんだ」

そんな事はわかっている。
小さな頃から散々大人達から話して聞かせられるからだ。
それは、村の娘達の中に当たり前の常識として染み込んでしまっている。
自分たちは羽をもがれた鳥だと思い込むほどに。

「カイザスは男だからだわ。贄にならずに済むから」
「それがどうした」
「私は出来れば贄になんかなりたくない。家族や友達とお別れしたくないし…好きな人とだって…」

カイザスはツカツカとチュセに近寄り、その手から鍵を奪った。

「つまらないねぇことを言うな。帰れ」
「私、何度も言ってるわ、カイザスが好きだって」
「だから何だ、俺も何度も言ってる筈だ、興味が無い」

チュセはカイザスのシャツを掴んだ。
見下ろす冷たいブルーの瞳に足がすくむ。

「離せ」
「知ってるわよ。カイザスが私に興味がないことぐらい。それどころか嫌われてることもね」
「だったら諦めろ」
「小さい頃は仲良くしてくれてたのに」
「覚えてない」

クールなカイザスだが、誰にでも冷たい訳じゃない。仲間内では笑ってふざけたりする様子も良く見かけた。
冷たく接するのはチュセにだけだ。
それこそあからさまに。
それでも諦めきれず、こうしてまとわりついて気持ちを告げ続けている。
毎回毎回、心臓が飛び出しそうになるほどの心地で話し掛け、冷たい態度に胸が潰れそうになるほど傷付いても、止めることが出来ない。

けれど、チュセはついに覚悟を決めた。

「カイザスに頼みたいことがあるの」
「お前の頼みに応える理由がない」

チュセは早口で言い切った。

「私の処女をもらって欲しい」

カイザスは一瞬目を見開き、直ぐに顔を逸らした。

「馬鹿なことを言うな」

チュセは縋り付く。

「お願い、他の人にこんな事頼めないし、他の人じゃ嫌なの!」
「うるさい、離せ!」
「どうしてもダメなの?」
「何でお前のくだらない思い込みに付き合わされないといけないんだ?ふざけるな」

カイザスはチュセの手をふりほどき、鋭く睨むと扉から出ていく。
チュセはその背中を追う。

「どうしたら引き受けてくれる?」
「………」
「見かけが気に入らないなら目を瞑ってても良いよ、声も出さない」
「………」
「そうだ、お金を払う!最近花嫁衣装のオーダーが入ったからお給金を弾んでもらえる約束…」

カイザスは立ち止まり、チュセを振り返る。
そして、見たこともないような怒りを孕んだ目でチュセを睨みつけた。
チュセは息を呑む。

「…ごめん」

チュセは俯き、込み上げる涙を堪えた。
…やっぱり駄目だ。
いくらカイザスが精力旺盛な若い青年でも、嫌いな女は抱けないのだ。

「カイザスは私の事嫌いだもんね。こんな浅はかな真似をする人間も許せないんでしょ」

カイザスは黙っている。
チュセは震える息を吐き目を瞬くと、顔を上げて笑って見せた。

「他の人に頼むよ。気分を悪くさせてごめんね。今までもうっとおしくてごめん。金輪際まとわりつかないから」

チュセはカイザスに背中を向けて早足で歩き出す。
押さえ込んでいた涙が溢れ、呼吸が乱れる。
だけど、泣いていることは悟られたくなかった。
だから、流れる涙を拭うことはせず、背筋を伸ばして大股で遠ざかった。

しかし、水守の家の前を通り過ぎ、帰路に続く道にさしかかった時、チュセの耳が足音を拾った。
それは後ろからどんどんと近付いてくる。
チュセは慌てて涙を拭い、顔をキッと引き締めた。

「おい」

カイザスに肩を掴まれ、チュセは立ち止まる。
そして、振り返らずに平静を装って応えた。

「なに?」

この期に及んで説教でもするつもりだろうか。
追い打ちをかけるような真似は止めて欲しい。
ちなみに他の人に頼むなどというのはハッタリだ。カイザス以外の男に身体を触れさせるなど絶対嫌だ。

「相手になってやる」

あまりにも予想外の言葉に、チュセの頭は思考を停止した。
そして、次に強い罪悪感に襲われた。

「あ、あの、カイザス…やっぱりさっきのは…」
「明日の夕方、仕事が終わったら西の森の作業小屋に来い」
「え、えっと」
「覚えてるよな、俺の家の木材置き場があるところだ」
「お、覚えてる」

昔良く遊んだ場所だ。
それだけ言うと、肩から手が離れ、足音は遠ざかっていった。

チュセは暫くその場所から動けなかった。
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