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序章 訪れた金の風

(1)酒場の扉が開くとき

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「あなた、私の愚痴を聞きなさい!」

そんな何気ない一言が、同じ日々を繰り返し酒に溺れていた俺の人生を変えるなんて、誰が想像しただろうか。

俺の名はカーライル。愚痴聞きのカーライルだ。黒髪に黒い瞳、無精ひげの生えた三十五歳だ。世間的にはもうすぐ「オジサン」と呼ばれる年齢かもしれないが、まだ「お兄さん」で押し通せるかもしれないと、心のどこかで思っている。俺の仕事?それは、冒険者たちの愚痴を聞いて報酬をもらうことだ。たまに助言を求められたときには、銀貨を手にするが、ダンジョンに入る?あんな危険な場所に再び足を踏み入れるつもりは毛頭ない。今はただ、安心で安全な場所に身を置き、楽に生きる。それが俺の信条だ。

この酒場に腰を落ち着けて、もう十年が過ぎた。当初はただの飲んだくれだった俺だが、いつの間にか『愚痴聞き』としての立場を確立した。冒険者たちは命がけの挑戦の合間に溜まった疲れやストレスを、この席に座る俺に吐き出しにくる。俺はただ黙ってそれを聞き流し、適当に相槌を打つ。それだけで銅貨が手に入る。助言も時折するが、役に立っているかどうかは正直分からん。何しろ、酔いが回っていることが多いからな。

それでも、夜が来るのが楽しみで仕方がない。今日もまた、どんな冒険者が愚痴をこぼしに来るのか、どんな酒を楽しむことができるのか、それを考えるだけで自然と口元が緩む。酒に身を委ね、何も考えず、ただ目の前の瞬間を楽しむこと─それが、今の俺の生き方だ。



夜が降りると、冒険者酒場は昼間の静けさを打ち破り、賑わいの中心地へと変貌する。古びた木造の天井から吊るされたランプが橙色の光を投げかけ、燻った煙と酒の香りが漂う中、冒険者たちは戦いや探検の成果を抱え集まってくる。笑い声、武器が触れ合う音、酒が注がれる音が混ざり合い、賑やかな交響楽を奏でていた。

テーブルでは大小様々なグループが戦利品や失敗談を交わし、カウンターでは次々と注文の声が飛び交う。冒険者たちの装備が火の光に照らされて鈍く輝き、疲れた顔には誇りが刻まれている。この酒場は、休息の場であり、次の冒険に向けた決意を新たにする場所でもあった。

カーライルは喧騒の中、カウンターの隅で静かに腰を下ろし、琥珀色のビールを味わっていた。無精ひげを撫でながら、賑わいに耳を傾けるが、自ら声を上げることはない。『愚痴聞き屋』としての彼の仕事は銅貨三枚で愚痴を聞き、一杯のビールでそれを流し込むだけだった。それ以上を望むこともなく、この変わらぬ日々に身を委ねていた。

そんな酒場の喧騒が、突如扉の開く音によって切り裂かれた。勢いよく開いた扉から吹き込んだ冷たい風が、賑わいを一瞬で凍りつかせる。笑い声や談笑が途切れ、全ての視線が入り口へ向けられた。空気は一変し、張り詰めた緊張が場を包む。カーライルも自然と扉の方に目を向けた。

扉の向こうに立っていたのは、一瞬で場を支配する威圧感を漂わせる少女だった。黒いローブを纏い、夜そのものを背負ったような佇まい。裾は冷たい風に揺れ、魔法使いであることを示す装いだった。鮮やかな金髪は闇の中で際立ち、まるで陽光を閉じ込めたかのような輝きを放っている。

白磁のように透き通る肌は黒いローブとの対比で一層際立ち、冷ややかな威厳を纏っている。碧い瞳は異質な力を湛え、見る者を射抜くような鋭さを持つ。若々しい外見に反して、その瞳には揺るぎない意志が宿り、場の空気を瞬時に変えた。

少女は迷いのない足取りでカウンターへ向かう。ローブが冷気を纏いながらなびき、小柄な体をさらに際立たせていた。銅貨三枚を握った手には微塵の緊張もなく、それをカウンターに放つと、硬貨は音を立てて転がり、カーライルの前で静かに止まった。その一連の動作には、堂々たる自信と覚悟が感じられた。

「あなた、私の愚痴を聞きなさい!」

その声は高くもなく低くもないが、どこか挑戦的で鋭く、場の空気を再び震わせた。カーライルは目の前の銅貨を眺め、口元に薄い笑みを浮かべた。銅貨三枚で愚痴を聞くのは珍しいことではない。しかし、差し出したのがこの年端もいかぬ少女だという点には、さすがの彼も意表を突かれた。

ジョッキを軽く傾けながら、カーライルは眉をわずかに上げ、静かに応じた。
「確かに銅貨三枚で愚痴は聞いてやるさ。けど、ここは酒場だ。子供が入る場所じゃない。それでも話したいなら、座りな。」

少女は迷うことなく隣の椅子に腰を下ろした。深く沈み込む小柄な体と、床に届かない足。それでもその態度には堂々とした自信が満ちており、彼女の気迫は冒険者たちの視線を自然と引きつけていた。

「で、あんたは誰だ?冒険者には見えないが。」

カーライルは低く無骨な声で問いかけた。こんな場に堂々と足を踏み入れられる子供は普通いない。それに彼女からは、冒険者特有の荒削りな匂いがまったくしなかった。戦いの中で鍛えられた生存本能や疲労感ではなく、彼女が纏うのはそれとは異なる気高さと意志だった。

「なによ、冒険者じゃないと愚痴を聞かないってわけ?職業で人を差別するなんて、最低ね。」

怒りを含んだ声が放たれたが、その碧い瞳には揺るぎない自信が宿っていた。

「私はアルマよ、アルマ。まさか、この街で私の名前を知らないなんて、本当に愚痴聞き屋なの?」

挑発的な言葉に、カーライルは肩を軽くすくめ、わずかに息をついた。

「悪いが、有名な冒険者でもない限り、俺の耳に入る噂は限られてる。それで、どんな愚痴を聞いて欲しい?」

気だるげな口調で返しつつも、カーライルの声にはどこか探るような響きがあった。

アルマは一瞬だけ黙り込み、鋭い瞳でカーライルを見据えた。そして、感情を押し殺したかのような硬い声で告げた。

「誰も私の話をまともに聞いてくれないの!」

その言葉は店内に響き、周囲の冒険者たちの視線が一瞬集まったが、すぐにまた自分たちの会話に戻った。

「街を守るために必死で考えて行動してるのに、大人たちは私を子供扱いするばかり。誰も真剣に向き合ってくれないのよ!」

その体から溢れる情熱と苛立ちが、周囲の空気を鋭く切り裂く。カーライルは静かにその言葉を受け流しながらジョッキを傾け、冷たいビールを一口飲んだ。そして、淡々と尋ねた。

「で、問題ってのは何だ?」

無関心そうな声ながらも、本質を突くような問いに、アルマは少し間を置き、怒りを押し殺すように低い声で答えた。

「墓地のゴースト問題よ!知らないの?」

その問いに、カーライルは眉をわずかに上げた。アルマは言葉を続けた。

「墓地でゴーストが出るたびに光属性の魔法使いを呼ぶけど、その度に莫大な費用がかかる。税金を無駄遣いして、何も変えないなんて馬鹿げてる!」

彼女の声は怒りに満ちており、再び店内を静寂に包み込んだ。しかし、カーライルは動じることなくジョッキを再び口に運んだ。

「それで、どうしたいんだ?」

淡々とした口調の中に、ほんのわずかだけ興味が混ざっていた。

「どうしたいかって?もちろん、この状況を変えたいに決まってる!でも相談しても『前例通り』で片付けられるだけ。誰も新しい方法を考えようとしない!」

アルマの言葉に熱がこもり、周囲の空気が再び揺れた。その様子を見ながら、カーライルは目を細め、短く呟いた。

「なるほどな。」

冷静なその一言に、アルマはさらに不満を募らせた様子だった。しかし、カーライルは続けた。

「解決策が一つある。ただし、それを教えるには銀貨一枚が必要だ。さっきの銅貨みたいに投げつけてくれたら話してやる。」

軽い調子のその言葉に、アルマの表情は瞬時に険しくなった。

「銀貨一枚?ふざけないで!街を良くしようと思う気持ちはないの?ただの飲んだくれじゃない!」

怒りを露わにした彼女の声が店内に響き渡るが、カーライルは冷静な声で返した。

「俺にも生活がある。銅貨三枚のうち、一枚はビール代だ。知恵には値段がつく。それが気に入らないなら、話はここで終わりだ。」

その冷淡な言葉に、アルマは椅子を蹴り飛ばした。大きな音が店内に響き渡り、周囲の冒険者たちが一瞬だけ目を向けたが、再び各々の会話に戻る。

アルマは怒りを露わにしながら勢いよく扉を開け、振り返ることなく低く吐き捨てた。

「期待した私がバカだったわ。」

扉が力強く閉じる音と共に、冷たい夜風が一瞬だけ酒場の中に吹き込む。その風が去った後、酒場は再び静寂に包まれた。カーライルは微動だにせず、その背中を見送りながらジョッキを静かに持ち上げる。琥珀色の液体が喉を滑り落ちる間、彼の瞳には苦笑と共に、どこか諦めたような複雑な色が浮かんでいた。

やがて視線をカウンターに移すと、アルマが投げた三枚の銅貨が薄明かりに鈍く光っているのが目に入る。そのうちの一枚を指先で軽く弾くと、乾いた音を立てて木目のカウンターを転がる。その音は静寂の中に妙に大きく響き、カーライルは小さくため息をついた。

「カーライル、ちょっといいか?」

カウンターの奥から、マスターが落ち着いた声で呼びかける。顔を上げると、彼はいつもの飄々とした表情ではなく、どこか真剣な面持ちでグラスを拭いていた。

「さっきの子、領主様の娘さんだ。王立魔法学院を飛び級で首席卒業して、この街を良くするために戻ってきたらしい。」

カーライルは一瞬だけ目を細め、手元の銅貨に視線を戻す。「そんな大層なお嬢様が、なんで愚痴聞き屋まで来るんだ?」

皮肉を込めた問いに、マスターは肩をすくめて苦笑する。

「俺にも分からんが、あの子、本気だ。もし何か問題が起きて領主様の耳に入ったら、こっちが面倒になる。お前、あの子を追ってフォローしてくれないか?」

カーライルは不機嫌そうに眉をひそめた。「冗談だろ。俺に何をしろってんだ?天才のお嬢様を相手にするなんて、柄じゃない。」

「確かに天才かもしれない。」マスターはグラスを置き、目を合わせて言葉を続けた。「だが、どれだけ頭が切れても、若さだけじゃ越えられない壁がある。」

その一言が、カーライルの胸を静かに刺した。かつて自分も若さと情熱だけを頼りにダンジョンへ挑んでいた日々。そして、その先に待っていたのは残酷な現実。記憶の底から蘇る苦い思い出と共に、アルマの強い瞳の奥にかすかに見えた不安が頭をよぎる。

「無鉄砲なところはあるが、あの子ならやり遂げるかもしれない。お前も、そう思ってるんじゃないか?」

マスターの問いに、カーライルは鼻で短く笑った。(早い話が、フォローしろってことか…)

しかし、長年世話になってきたマスターの頼みを無下にするのも気が引ける。カーライルはジョッキをカウンターに置き、低い声で応じた。

「やれやれ…俺の柄じゃないが、世話になってるお前の頼みだ。仕方ないな。」

その言葉に、マスターは安心したようにニヤリと笑い、軽く背中を叩いた。

「助かるよ。お前なら、うまくやれるさ。」

カーライルは何も言わず立ち上がり、酒場の扉に手をかける。扉を開けた瞬間、冷たい夜風が顔を撫で、まるで彼の背中を押すように吹き抜けていった。
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