銭湯エルフと恋の夏

（４１）エルフと決断

芝生の上で銀さんと並んでいると、不思議と胸の奥に溜まっていた重たい気持ちが軽くなっていく気がする。夏菜の話を終えたばかりの俺だったが、頭をよぎるのはやっぱりフィリアのことだった。夏菜とは全然違う、不意に現れて俺の日常に新しい色を加えた存在。彼女の笑顔や驚く姿が、この夏を特別なものにしているのは間違いない。

「さて…次は、フィリアについてなんですけど。」
少し気恥ずかしい気持ちを押し隠しながら切り出すと、銀さんは「ほう、フィリアちゃんか！」と嬉しそうに身を乗り出してきた。

「正直、何考えてるのか全然わからないんですよ。」
言葉を選びながら、思い浮かぶままに続ける。「日本のこともよく知らないから、いちいち驚いたり、楽しそうにしてくれる。それを見ると、俺もなんだか嬉しくなるんですけど…ふと、これでいいのかなって思っちゃうんです。」

銀さんは俺の言葉にじっくり耳を傾け、時折小さく頷いている。その穏やかな視線に励まされながら、俺は話を続けた。

「あと半月で帰るのに、俺は彼女の期待にちゃんと応えられてるのかなって。夏菜みたいに『これしたい』とかはっきり言ってくれるわけじゃなくて、なんか遠慮してる感じもするし…俺が勝手に思い悩んでるだけかもしれないですけど。」
自分でも整理しきれない言葉をつなぎながら、視線を地面に落とした。

銀さんはしばらく黙って考えるようにしてから、俺の肩を軽く叩き、優しい声で言った。「そんなん、あんちゃんが気にしすぎや。」

「え…？」
顔を上げると、銀さんはふっと笑いながら続ける。

「ええか、フィリアちゃんがはっきり何か言わんのは、もしかしたら遠慮があるのかもしれん。でもな、逆に今のままで十分楽しんどるからって可能性も高いんや。」

その言葉に、ハッとする。確かに、フィリアは毎日何気ないことで笑顔を見せたり、小さな発見に驚いたりしている。それを見て、俺まで心が弾む瞬間がたくさんあった。

「あんちゃんにとっては日常でも、彼女にとっては全部が新鮮で特別なんや。その新鮮な景色を一緒に楽しむ。それがあんちゃんの役割なんちゃうか？」
銀さんの声はいつもより少し真剣で、まるで俺の迷いを丁寧にほどいてくれているようだった。

「…確かに。」
言葉が自然と漏れた。フィリアが何も言わなくても、あの笑顔が全てを物語っているのかもしれない。

「無理に何かしようとせんでええねん。彼女が今を楽しんどるなら、それが一番なんや。それを一緒に感じてやるのが、あんちゃんにしかできんことやで。」

銀さんの言葉が胸に深く沁みた。無理して何かしようとするんじゃなくて、彼女が見つけた楽しさを一緒に共有していけばいい。そう考えると、胸にあった迷いが少しずつ消えていくのが分かる。

「…そっか。俺、変に気負ってたのかもしれないですね。」
思わず漏れた呟きに、銀さんは満足そうに大きく頷いた。

「そうそう。それでええねん。焦らんことが一番大事や。」

その一言に、不思議と体が軽くなるのを感じた。肩の力がふっと抜けて、胸の中で絡まっていたものがゆっくり解けていく。フィリアが帰るまで、あと半月。限られた時間をどう過ごすかに悩んでいたけど、ただ「楽しむ」と決めただけで心が少しずつ晴れていく。張り詰めていた何かが溶けて、夏の空気がいつもより柔らかく、優しく感じられた。

俺は手に持っていた冷たい麦茶をぐいっと飲み干す。氷の冷たさが喉を通り抜け、体中に染み渡るような心地よさが広がる。飲み終えたカップを置くと、銀さんが満足げに微笑んだ。

「ええ感じやな、あんちゃん。そんぐらいでちょうどええんや。」

その言葉が妙に胸に響く。力を抜いて、自然体でいることの大切さ。それを教えてくれる銀さんの言葉が、まるで体に馴染んでいくみたいだった。

しかし、ふと銀さんの表情が真剣なものに変わる。その鋭い視線が俺の心の奥底まで射抜いてくるようで、自然と背筋が伸びた。

「でもな…」
銀さんの声が低く響く。まるで釘を打ち込むような重みを持っていた。「この前も言うたけどな、決断っちゅうもんは大事や。選ばなあかん時が来たら、きっちり選ばなあかん。そうせんと、どっちも手元からこぼれてしまう。それだけは忘れたらあかんで。」

その言葉に、思わず息を呑む。銀さんは例え話を交えながら、さらに続ける。

「たとえばやな、誰かの誕生日ケーキを選ぶとするやろ？あれもこれもって迷ってばっかりやと、気付いたら時間切れや。店も閉まってしもて、結局何も買えんまま。あんちゃんもな、迷ったまま過ごしとったら、ほんまに大事なもんを失うことになるで。」

その言葉が、夏菜とのやり取りを思い出させる。花火大会に誘われた時、俺は即答できなかった。その結果、夏菜はフィリアも誘ったけれど、あの時、自分の気持ちを素直に伝えられなかったことが今でも引っかかっている。銀さんの言葉が、そんな過去の後悔を掘り起こしながらも、前を向くきっかけを与えてくれるようだった。

「…確かに、その通りですね。」
胸に響く銀さんの言葉に、自然と感謝の気持ちが湧いてくる。「ありがとうございます。なんか…少し吹っ切れました。」

俺が素直に礼を言うと、銀さんはカップを掲げながら満足げに頷いた。「そりゃええ！それでこそあんちゃんや。」

その豪快な笑顔に、自然とこちらも笑みがこぼれる。何か重い荷物を降ろしたような解放感だった。

その後、銀さんに改めてお礼を言い、グルメフェスの会場を後にして銭湯へ戻る。到着すると、ばあちゃんとフィリアが営業の準備を進めていた。銀さんとの話が俺に与えてくれた余裕のせいか、今日は気持ちが軽い。「代わってくれてありがとう」とフィリアに伝えると、彼女は少し恥ずかしそうに控えめな微笑みを返してくれる。その笑顔がこれまで以上に胸に沁みた。

その日は、銀さんの言葉が心の支えになったおかげで、ため息ひとつ漏らさず、軽やかな気持ちで一日を終えることができた。肩の迷いが少しだけ薄れ、夏の夜風が心に優しく吹き込むのを感じながら、穏やかな眠りに落ちていった。