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魔法が使えるようになるには

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「魔法が使えるようになるために必要なことは、戦場で人を殺すことです」

「……え?」

 それはこの世界にきて最も嫌なことだった。

「戦場における殺し合いとは、互いの自己肯定のぶつかり合いです。敵の命よりも自分は価値があるという意志の衝突なのです。でも、あなたはむしろそれを拒んでしまいます。つまり、自分の存在を否定した……極端に言えばそういうことです」

「いや、だけど……!」

「あるいは」

 卓人の弁解は、鋭い言葉に消された。

「誰かを深く愛するか……」

 そのときの校長の目は妙に見透かしているようだった。

「誰かを愛するということは、その相手にとって他の誰よりも自分こそが価値があることを示すということでもあります。そして、戦場のように敵が死んでいなくなるわけじゃありませんから、自分の価値を示し続けねばなりません。むしろ戦場より強い自己肯定を必要とするでしょう」

 戦場で人を殺すよりは何倍も簡単なはずだが、卓人はその話題に深く入りたいとは思わなかった。

「……あの、さっき言ってた『第三の目』というのは?」

「それはまた別の話です。第三の目が開いていても、自分の存在を認められない人に魔法は使えません」

「…………そうですか」

 断定的な何かを告げられたわけでもないのに、卓人の心は激しく落ち込んだ。

「研究とは決して慈善事業では成り立ちません。とくに基礎研究というのは、その発見が時代によっては金銭的な利益につながらないことも多くあります。即座にお金になる研究、成果が認められる研究もいいでしょうが、それしか研究として認められないのであれば、いずれそこで行われている研究は形骸化してゆくことでしょう。私たちは基礎研究を重視するからこそ、きちんとお金を払ってくれる学生を募集しているのです」

 この声はもはや冷たくなかった。だからこそ決定的だった。

「……あなたや妹さんにご縁があるならば、きっと今後何かあるはずです。例えばいい仕事が見つかるとか。人生とはそういうものです」

 要は縁がなければ学校にくるなということである。

 人生は金じゃないと多くの人が言いながら、結局誰もが金を欲している理由がよくわかった。金がないことで失われるのは機会なのである。

 得られるはずのものを得る機会、新しい何かに出会う機会。

 そういった機会は、経済活動によって生まれてくるものなのである。

「そうですよね……」

 卓人は笑顔をつくってみせたが、明らかに肩を落としていた。

 ――エミリにはなんて伝えよう。

 多分、合格できるだけの点数は取っているだろう。そして今頃は面接を終えて結果を楽しみに待っていることだろう。仕事がないから合格させられなかったなんて、だったら初めから受験なんてさせなければよかった。余計な不安と期待とをもたせただけで、彼女にとって何かプラスになることは何もなかった。

 ――ごめんな、エミリ。

 そのときバンッという爆発音が響いた。

 何か小さなものが飛んできた。それは夏の陽気に汗ばんだ頬に一度くっついてから、重力によってはがれた。手で受け止めると、それは木でできたボタンだった。

 卓人はその状況を即座には理解できず校長のほうを見たが、彼女も何が起こったかわかっていなかった。

 ふと視線の下に変容があることに気づくと、彼女のブラウスのボタンが弾けてなくなってしまっていた。今、手元にあるボタンがそれであったことは、ブラウスに並ぶ他のボタンと比較すれば自明であった。

 それは、一瞬の出来事であった。

 ひとつのボタンがその任務を諦めたことによって、他のボタンにその負荷が回ってきた。すでにぎりぎりの状態で大きすぎる胸をなんとか拘束していたボタンたちは、わずかひとつが失われただけで、そのあまりに凶暴な力を抑えきることあたわず、次々に瓦解していったのであった。

 校長のブラウスのボタンが、次々と弾け飛んでゆく。

 卓人はその瞬間をつぶさに見た。

 ボタンを留める糸が引っ張られて細くなり、撚った力から解放されてうねるようにちぎれてブラウスの奥へ隠れてゆく様を。ちぎれた糸のわずかな断片がふっと加速度を得て広がりつつも空気抵抗で即座に速度を失い、あとは重力に引かれながら空気中をたゆたう様を。

 糸の拘束から逃れたボタンが自由を謳うかのようにはじけ飛んでゆく様を。

 そして、巨大な肉球がブラウスの布を掻き分け、転|《まろ》び出る瞬間を!!

 夏の暑さに汗ばんだ柔らかな半球は、その勢いで水滴を散らしながら圧力から解放され、本来あるべき体積を取り戻すべく周囲を押しのけてその姿を現していた。

 見てはいけない!

 それは、目の前の女性の尊厳を損ない、そして自らの矜持にも反する行為である。いかに偶発的な事故であろうと、女性に恥をかかせるなど許されることではない。

 マリアは羞恥のあまり驚きの声すら上げられなかった。

 これは事故であり、自分に責任がある。咎めるのは適切でない。

 そう思った。

 しかし次の瞬間、状況はまるで違っていた。

 少年は自分の胸をまじまじと食い入るように見ていた。

『ガン見してる――――!?』

 やはりこの少年も他と同じ、いやらしい目でしか女を見ないろくでもない男だったか。裏切られたような怒りがマリアを支配するはずだった。

 だけど、何かが違った。

 少年は左手にあごを添え、真剣な眼差しでその有り様を丹念に観察していた。こんなにも露骨に凝視されているというのに、辱めを受けているような気持ちにはならなかった。

 先ほどまでの頼りない少年の姿はどこへやら、むしろ凛々しささえ覚える。

 ――見てはいけない。

 しかし同時に、卓人は解決すべき課題をもっていた。

 曲線の美しさについて――

 なぜ美しいと感じることができるのか。

 なぜ美しいと感じたとき、心は躍動するのか。

 数学的な曲線は原則的に無機質に映るが、それは美しいと考えてよいだろう。しかし、あの生物由来の曲線は単純な数式によってはもたらされない。それは容易に解にたどりつくことのできない課題である。

 容易にたどりつけないからこそ、その課題に遭遇したときは、その機会を逃すわけにはいかない。そして、余すところなくつぶさに観察しなければならないのである。

 マリアは困惑していた。本来なら胸を覆い隠しているはずの両腕は、なぜかその仕事をしようとしなかった。ごくりとつばを飲み込み、見られるがままになっている自分をどうしたらいいのか、ただひたすらに混乱した。

 自分の顔よりも下を見ていて、まぶたがわずかに閉じようとする角度の目は、睫毛が妙に際立って見える。男性の睫毛をこれほどしっかりと見たことはなかった。その奥にある瞳はまるで深い湖のようだった。草むらをかき分けて見つけたような美しい湖。マリアはその水で自らの肉体を清めたいとさえ思った。

 その瞳がにわかにこちらを向く。そして一言つぶやいた。

「美しいとは、どういうことなのでしょうか?」

 声は甘く脳にしみわたり、心にこびりついた頑なな何かを洗い流してゆくかのようだった。窓の外に目を移すと、夏の日差しは焼き尽くさんばかりに美しく空を満たしていた。

「保護者面接を始めまーす。保護者の方は控え室の方へご移動願いまーす」

「は!?」

「はうあ!」

 事務員の女性の声が二人を我に帰させた。そして、気まずそうに別れるのであった。
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