理系少年の異世界考察

ヴォルフガング・ニポー

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百年前の人に会いに

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 一瞬何を言っているのかわからなかった。本当のタクトはあの難解な本の著者に会いに行っていた? 

「会いに? 本当ですか?」

「嘘をついてどうする? 会いに行ったのはお前自身だろ……って、そうか、記憶がなくなっちまったんだったな」

 他人のことなのに自分のことだというのは、今になってもどうもしっくりこない。

「おう、そう言えば。お前さ、もしも忘れたときのためにって、その住所をメモして俺に預けてたな」

「は?」

「ちょっと待ってな。えっと……」

 図書館に入ると、男はカウンターの引き出しを開けた。

 ――だけど、もしも忘れたときのためにって……??

 それは合理的なようであるが、明らかに奇妙である。一度行ったことがあるはずの住所をメモしておくだろうか? そしてそれを、あえてこの司書に預けるなんてするだろうか。まるで忘れる予定でもあったかのように。

「お、ここに挟んでたか。ほら」

 司書はファイルに挟まれた紙の切れ端を差し出した。

「まるで、お前が記憶喪失になるのを見越してたみたいだな。はははは」

 紙きれには、うまいとは言えない文字で住所が走り書きされていた。卓人は非合理的な周到さに司書が何かを企んでいるのではないかとも思ったが、この屈託のなさはおそらくそうではない。

「もう一度会いに行ってみるか? そんな予定だったのかもしれないぜ」

 それは、日々の忙しさにかまけてすっかり忘れてしまっていたことだった。

 自分の目的は、本物のエミリの兄を見つけることじゃないか。

 ――ここへ行け!

 直感が、これは本当のタクトからのメッセージだと告げていた。



「たしか、こっちでいいよな」

 夕方が迫るティフリスの街はほのかに茜色に染まり、空の色は抜けていた。

 卓人は街の主要地を巡る馬車に乗っていた。

 ヤノと何度も街を移動するために使っていたのですっかり慣れてしまった。ありがたいことにこの巡回馬車は公営で無料だった。とはいえ、宿に帰るのにあまり遅くなってしまうとエミリやヤノに心配をかけてしまうので気持ちは焦っていた。

 すでに中心街からは遠ざかり、家々の隙間に小規模ながら農地がちらりほらりと見られるようになると、いかにも郊外といった雰囲気が醸し出されるようになる。石造りの集合住宅は見られなくなり、土づくりの家や木造住宅が増えて華やかさが失われている。

 馬車の終

 点では十人ほどが降り、その人たちと同じ方向へしばらくついて歩くと、住宅がなくなりブドウ畑が広がっていた。司書から聞いた通りさらにその先を進むとまた五〇軒ほどの家が建つ集落があった。かつて貴族の土地が没収されて廃墟になった場所に人々が集まってできたらしく、もう何百年も前に崩れてしまったと思われる石塀が苔むし、夕映えに混じって寂寥の静けさを奏でていた。

 しかしながら夕食の準備をしているのだろう、温かなにおいがどこからともなく漂ってくる。

 新築の家はまるで見当たらないが、中でも随分と古めかしい小汚い石造りのアパートのような建物がある。

「ここか……」

 ほとんど衝動的にここまできたことを今更になって後悔する。

 シャローム・ファーリシーに会って何をするというのだろうか。本当はこんなところにくるんじゃなくて、学費について相談に乗ってもらうべきだったのではないだろうか。

 一瞬心が折れかける。しかし、この人はエミリの本当の兄について何か知っているかもしれないのだ。召喚の魔法について何か知っているかもしれないのだ。

 卓人は覚悟を決めた。古びた集合住宅の左から三番目のドアをノックする。

「はーい」

 中からは若い感じの男性の声がした。それは意外なことだった。シャローム・ファーリシーは結構昔から本を書いているので、結構な年齢のはずだと思っていた。

「どなたですか?」

 現れたのはやはり見るからに若い、この辺りでは見かけない赤みがかった肌の青年だった。

 細身で背が高く、卓人と同じかもう少し上か、いずれにしても初めに抱いていたイメージとは明らかに違う。もしかすると目的の人物の息子とか孫とかかもしれない。

 夏なのに耳が隠れるニット帽をかぶっているのが不思議だった。

「何の用でしょうか?」

「ああ、すみません。ここにシャローム・ファーリシーという方はいらっしゃるでしょうか?」

「ああ、あの人に用ですか。もしかして魔法研究に携わる方ですか?」

「まあ……そんな感じです」

「そうですか。申し訳ありませんが、シャローム・ファーリシーは死にましたよ」

 ――――え?

 いきなりすべてが頓挫したと思った。

「だって、あの人って初版はもう百年以上前ですよ。二〇歳の時がそうだとしても百二〇歳越えていますよ」

「そ、それはそうですね……」

 初版なんて調べたこともなかったが、少なくとも自分が読んだものも五〇年は経っていそうだった。

 ちょっと考えればわかりそうなことなのに気づきもしなかったのは、やはり焦っていたのかもしれない。直感などという根拠のないものを信じたせいでとんだ無駄足になった。だけど目的の一部でも回収したい。

「……あの、もしかして、シャローム・ファーリシーのご家族の方でしょうか? でしたら、教えていただきたいことがあるんですが……」

「うーん、残念ながら違います。あの人は生涯独身だったみたいで。私は彼が死んでからこの部屋を借りた者なんです」

「……そうなんですか」

「たまにいるんですよね。あの人の書いた本に触発されて、直に会ってみたいって尋ねてくる人が。多分あなたで十人目くらいじゃないかな」

「そうなんですか……」

 卓人は同じ言葉を繰り返すしかなかった。

 扉の奥の部屋には、たくさんの本が並んでいるのが見えた。それに化学実験の道具らしいものもそろっている。多分この世界なら錬金術師なのだろう。このまま帰るのも癪単語しゃくだったので、卓人は少しだけ会話することを試みた。

「あなたもシャローム・ファーリシーの本を読まれていたのですか?」

「後ろの本ですか? あれは遺品みたいなものです。読むには読んだかな。すぐにやめちゃいましたけどね。わかりにくいというより、あれはあれでしょう。抽象的にそれっぽく書くことで、俺は何でも知ってるぜ感を出すっていう。かっこつけてる系?」

「ああ……」

 同じことを図書館の司書も言っていた。

「まあでもこの人の本、結構有名みたいだし、もしかしたら高く売れるかなって思ってるんだけど。どう、買います?」

「いや、ちょっと僕はそんなにお金がないんで……」

 青年は、それは当然だと言った顔をした。

「あの道具は、錬金術をされてるんですか」

 損したくないと思って余計なことまで聞いてしまった。これではまるで悪質な営業だ。

「あれもファーリシーの遺品ですよ。気が向いたときにはちょっとやってみるかなって感じ」

「そうなんですね」

 完全な空振りだった。

 これ以上話しても、おそらく有意義な情報は得られそうもない。

「すみません、お邪魔しました」

「いやいや、あなたみたいな人は決して珍しいわけじゃないですから」

 卓人は残念に思ったが、こればかりは仕方がなかった。迷惑な客としてぞんざいに扱われなかっただけまだましだろう。

 もう帰ろうと背中を向けたとき、ふとあることが気になった。
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