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退屈する権力
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剣闘会が終わったまさに次の日、兵学校校長の更迭が首都の政府から下った。
四十三歳のセルゲイ・ムジリがこのアイア兵学校の校長になったのは五年前である。ドマニス王国での兵学校の校長は、退役間近の軍人の名誉職、あるいは国家を託すにふさわしい若手幹部候補の登竜門としての位置づけで、国内三番目の規模を誇るここでは後者として認識されている。
どかどかと物々しい雰囲気で学校長室に入り込んできた軍中枢から派遣された三人は、至急前教官を集めるように指示し、全員がそろったところで軍務大臣から預かった文面を読み上げた。誰もが驚いて更迭の理由を質すと、次のような返答があった。
『先のバルツ軍のドマニス侵攻に際し、人道に悖る虐殺が行われたことによる』
これに対し、兵学校教官から一切の異論はなかった。文句を言っても覆ることはないからだ。セルゲイは「承知した」とだけ言って一人だけ先に席を外した。数分を置いて、他の教官たちも会議室を出た。
中央からきた三人のうちの一人が、出て行こうとするある教官の肩を叩き、別室で話そうと親指で示し合わせた。ニコライはそれを了承した。
一枚のアイア地区の大きな風景画が飾られた会議室は、くっきりとした陰影の中に緑の光を含んで、それはむしろ重圧を加えるかのようであった。
「なんで、皆殺しなんてひどいことをしたんだ。こっちは事後処理でずいぶん大変な目に遭わされたぞ」
やや高圧的にものを言うのはダヴィドだ。彼はニコライの幹部養成学校時代の同期だった。兵学校の教官に甘んじるニコライに対し、順調に出世をしている。
「お前ほどなら上官にも進言できたはずだ、ニコライ」
「大佐の司令官としての仕事に一切の問題はなかった」
「何を言っている。降伏させて、捕虜にしてもよかったはずだ」
「降伏しないで攻撃してくる敵に降伏させろってか。お前はいよいよ平和ボケしてきたみたいだな」
だがニコライはそんなダヴィドを冷たくあしらった。
「それをうまくやるのが、現場の軍人だろう?」
「うまくやるのは政治家や官僚の仕事だ。命がけで戦っている最中に、降伏してくれとうまく頭でも下げろと言うのか」
「俺たちがどんな非難を受けたかわかってるのか?」
「現場にすべて丸投げしておいて、結果が思わしくなければ責任を押しつけるってか。誰にでもできる簡単なお仕事だな」
「お前……俺のほうが官職は上なんだぞ」
「上官に正論を申してはならないのか?」
「…………」
ダヴィドがニコライに声をかけたのは、もちろん同期の誼|《よしみ》だからだ。憐れな立場にある友人を彼なりに励ましてやろうと思ったのだ。しかし情けをかけたつもりが、言われてみれば自分たちは何かとんでもない間違いをしてしまったんじゃないかと気づき始め、みるみる青ざめていった。
「だって……バルツがあんなことを言い出すなんて……」
「そりゃ、国によって都合はあるだろうさ。政治の分析が甘いからこうなる」
「我々ドマニスは、エルゲニアの支配からバルツを救ったはずなんだぞ」
「その救ってみせた本人は誰だ?」
それは国防省もほとんど知らない予科生である。偶然、坑道作戦を知りえた少年が食い止めたという報告は聞いている。
「ただの魔法が使えなくなった予科生で……」
「その程度のことしかわかってないのさ。他人の功績を自分のことのようにしゃべらないでいたらこんなことにはなってなかったさ」
「なんだと!」
「お前はどこを見て仕事してるんだ?」
その言葉にダヴィドは思わず胸ぐらにつかみかかった。そして何か言い返そうとしてやめた。
先日、先の戦争について中立的な立場の国で周辺国家を含めた調停会議がもたれた。
エルゲニアはドマニスを侵略するためにバルツの兵を無理やりに戦闘に赴かせ、その隙に坑道作戦を行ったが失敗した。このことは周辺国家から一斉に非難を浴び、交易中止などの経済的制裁を受けることになった。
結果的にバルツはエルゲニアから解放され、国際的にドマニスはその救い主としての評価を受けることになった。
最初の会議はそれで終わったが、次の会議では全く違った展開が待っていた。助けたはずのバルツが、自国の兵を虐殺されたとしてドマニスを訴えてきたのである。
当初はどの国もドマニスの味方であったが、時間とともに風向きが悪くなってきた。ドマニスの外交官が経緯を完全に把握していなかったことが綻びの始まりで、ほつれてしまった糸はもはや元に戻ることはなかった。
軍や外交部の混乱ぶりは今回の処分を見ても想像にたやすかった。
「その意味で俺は幸せなのかもしれないな」
「そのときの司令官を切ったということは、国際的にもこっちに落ち度があったことを認めたことになる……」
ダヴィドは今更ながら自国が極めて不利な立場に立ってしまったことを悔いた。
左遷により今の立場にあるニコライだが、七年前に軍の中心にいたときからこうなるのではないかと思わせる不穏な偏狭さがあった。
なんだかんだと三五〇年の栄華を保ってきたこの王国だが、その間に社会は成熟し、国民は国王を尊敬し、法律や制度を劇的に変化させなければならないような状況は起こらなくなってきた。
国内事情に限れば極めて平和であった。
言い換えれば国はその権力を発揮する場を失った。
それでも仕事はある。とくに刺激のない退屈な仕事が山のようにある。ミスをすれば上司に叱られる。結果として顔色を伺うことが本来の職務より優先されるようになる。とてもつまらないが今の地位を失いたくはない。
そして、ふと気づく。自分はそれなりに権力のある地位にいたはずではないのかと。
自分にあるはずの権力を実感したい。だけど、それを発揮する機会がない。どうすればいい?
社会がぶっ壊れればいい。
例えばどうするか。
国家予算が足りないと危機をあおって、増税でも始めるだろうか……
「まあ、事態は動いてしまったんだ。こちらもできることはするさ」
その言葉に対しダヴィドは「すまない」とは言わなかった。それが彼の立場である。
「ダヴィド……お前は、この国のために戦っているんだよな?」
「当たり前だろう?」
「そうだよな……」
彼が真面目に職務をこなしていることは知っている。彼だけではない、ほとんどの軍幹部やその他役人も誠実に己の役割を果たしている。
――地獄への道は、善意で敷き詰められている。
そんな言葉を聞いたことがある。
権威を保つつもりが嗜虐心を肯定することにすり替わってしまうかもしれない。
国家を守るといいながら国民を弾圧するようになるかもしれない。
外圧に屈した権力の牙が内に向き始めた。
それは外国からの何らかの攻撃がそう遠くない未来にあることを示している。しかし、それよりももっと近い未来に自らが首を絞め始めるだろう。
わかったところで何かできる立場にはない。
そのときのニコライの目はダヴィドに向いていなかった。なのに彼はその眼光の鋭さに恐怖を覚えずにいられなかった。
四十三歳のセルゲイ・ムジリがこのアイア兵学校の校長になったのは五年前である。ドマニス王国での兵学校の校長は、退役間近の軍人の名誉職、あるいは国家を託すにふさわしい若手幹部候補の登竜門としての位置づけで、国内三番目の規模を誇るここでは後者として認識されている。
どかどかと物々しい雰囲気で学校長室に入り込んできた軍中枢から派遣された三人は、至急前教官を集めるように指示し、全員がそろったところで軍務大臣から預かった文面を読み上げた。誰もが驚いて更迭の理由を質すと、次のような返答があった。
『先のバルツ軍のドマニス侵攻に際し、人道に悖る虐殺が行われたことによる』
これに対し、兵学校教官から一切の異論はなかった。文句を言っても覆ることはないからだ。セルゲイは「承知した」とだけ言って一人だけ先に席を外した。数分を置いて、他の教官たちも会議室を出た。
中央からきた三人のうちの一人が、出て行こうとするある教官の肩を叩き、別室で話そうと親指で示し合わせた。ニコライはそれを了承した。
一枚のアイア地区の大きな風景画が飾られた会議室は、くっきりとした陰影の中に緑の光を含んで、それはむしろ重圧を加えるかのようであった。
「なんで、皆殺しなんてひどいことをしたんだ。こっちは事後処理でずいぶん大変な目に遭わされたぞ」
やや高圧的にものを言うのはダヴィドだ。彼はニコライの幹部養成学校時代の同期だった。兵学校の教官に甘んじるニコライに対し、順調に出世をしている。
「お前ほどなら上官にも進言できたはずだ、ニコライ」
「大佐の司令官としての仕事に一切の問題はなかった」
「何を言っている。降伏させて、捕虜にしてもよかったはずだ」
「降伏しないで攻撃してくる敵に降伏させろってか。お前はいよいよ平和ボケしてきたみたいだな」
だがニコライはそんなダヴィドを冷たくあしらった。
「それをうまくやるのが、現場の軍人だろう?」
「うまくやるのは政治家や官僚の仕事だ。命がけで戦っている最中に、降伏してくれとうまく頭でも下げろと言うのか」
「俺たちがどんな非難を受けたかわかってるのか?」
「現場にすべて丸投げしておいて、結果が思わしくなければ責任を押しつけるってか。誰にでもできる簡単なお仕事だな」
「お前……俺のほうが官職は上なんだぞ」
「上官に正論を申してはならないのか?」
「…………」
ダヴィドがニコライに声をかけたのは、もちろん同期の誼|《よしみ》だからだ。憐れな立場にある友人を彼なりに励ましてやろうと思ったのだ。しかし情けをかけたつもりが、言われてみれば自分たちは何かとんでもない間違いをしてしまったんじゃないかと気づき始め、みるみる青ざめていった。
「だって……バルツがあんなことを言い出すなんて……」
「そりゃ、国によって都合はあるだろうさ。政治の分析が甘いからこうなる」
「我々ドマニスは、エルゲニアの支配からバルツを救ったはずなんだぞ」
「その救ってみせた本人は誰だ?」
それは国防省もほとんど知らない予科生である。偶然、坑道作戦を知りえた少年が食い止めたという報告は聞いている。
「ただの魔法が使えなくなった予科生で……」
「その程度のことしかわかってないのさ。他人の功績を自分のことのようにしゃべらないでいたらこんなことにはなってなかったさ」
「なんだと!」
「お前はどこを見て仕事してるんだ?」
その言葉にダヴィドは思わず胸ぐらにつかみかかった。そして何か言い返そうとしてやめた。
先日、先の戦争について中立的な立場の国で周辺国家を含めた調停会議がもたれた。
エルゲニアはドマニスを侵略するためにバルツの兵を無理やりに戦闘に赴かせ、その隙に坑道作戦を行ったが失敗した。このことは周辺国家から一斉に非難を浴び、交易中止などの経済的制裁を受けることになった。
結果的にバルツはエルゲニアから解放され、国際的にドマニスはその救い主としての評価を受けることになった。
最初の会議はそれで終わったが、次の会議では全く違った展開が待っていた。助けたはずのバルツが、自国の兵を虐殺されたとしてドマニスを訴えてきたのである。
当初はどの国もドマニスの味方であったが、時間とともに風向きが悪くなってきた。ドマニスの外交官が経緯を完全に把握していなかったことが綻びの始まりで、ほつれてしまった糸はもはや元に戻ることはなかった。
軍や外交部の混乱ぶりは今回の処分を見ても想像にたやすかった。
「その意味で俺は幸せなのかもしれないな」
「そのときの司令官を切ったということは、国際的にもこっちに落ち度があったことを認めたことになる……」
ダヴィドは今更ながら自国が極めて不利な立場に立ってしまったことを悔いた。
左遷により今の立場にあるニコライだが、七年前に軍の中心にいたときからこうなるのではないかと思わせる不穏な偏狭さがあった。
なんだかんだと三五〇年の栄華を保ってきたこの王国だが、その間に社会は成熟し、国民は国王を尊敬し、法律や制度を劇的に変化させなければならないような状況は起こらなくなってきた。
国内事情に限れば極めて平和であった。
言い換えれば国はその権力を発揮する場を失った。
それでも仕事はある。とくに刺激のない退屈な仕事が山のようにある。ミスをすれば上司に叱られる。結果として顔色を伺うことが本来の職務より優先されるようになる。とてもつまらないが今の地位を失いたくはない。
そして、ふと気づく。自分はそれなりに権力のある地位にいたはずではないのかと。
自分にあるはずの権力を実感したい。だけど、それを発揮する機会がない。どうすればいい?
社会がぶっ壊れればいい。
例えばどうするか。
国家予算が足りないと危機をあおって、増税でも始めるだろうか……
「まあ、事態は動いてしまったんだ。こちらもできることはするさ」
その言葉に対しダヴィドは「すまない」とは言わなかった。それが彼の立場である。
「ダヴィド……お前は、この国のために戦っているんだよな?」
「当たり前だろう?」
「そうだよな……」
彼が真面目に職務をこなしていることは知っている。彼だけではない、ほとんどの軍幹部やその他役人も誠実に己の役割を果たしている。
――地獄への道は、善意で敷き詰められている。
そんな言葉を聞いたことがある。
権威を保つつもりが嗜虐心を肯定することにすり替わってしまうかもしれない。
国家を守るといいながら国民を弾圧するようになるかもしれない。
外圧に屈した権力の牙が内に向き始めた。
それは外国からの何らかの攻撃がそう遠くない未来にあることを示している。しかし、それよりももっと近い未来に自らが首を絞め始めるだろう。
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