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火蓋
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三〇分ばかりかけて火薬と小麦粉をそれぞれいくつかの薄い紙に包んで、ピンポン玉くらいの紙球にして準備した。
もう一つ、飯場で見つけた一メートル弱の素焼きの筒。これは、飯場にあった毛布でぐるぐる巻きにした。
そうこうしているうちに意気揚々とした男たちの声が少しずつ聞こえるようになってきた。音が幾重にも反射して何を話しているかはっきりとわからないが、これから起こそうとしている破壊と蹂躙に胸躍らせているのはわかった。
だが、声が大きくなるにつれそれは慌てたものに変わってゆく。
「おい、なにをにたにた笑ってるんだ?」
「いや、そんなつもりはないが、なんか……顔がしびれてきて……」
「しびれる?」
「異様に眠い……なんだろう……」
「高山病か? しかしなんで今頃になって」
「もういい、体調に異変のある奴らは置いていくぞ。貴様らは体調が回復するまでここで休んでろ」
卓人が塩と混ぜて熱したのは、ブタの糞尿のしみ込んだ泥から硝酸カリウムをつくったときに残った溶液を乾燥させたものだった。その中に含まれる硝酸アンモニウムは塩化物イオンの存在下で熱分解により亜酸化窒素を生じる。これは笑気ガスとも呼ばれるほぼ無色無臭の気体で、麻酔作用がありその効き目も速い。トンネルが完全に通じたことで生じたゆっくりと坑道の奥に向かう気流に乗り、奥からやってきた敵兵はここにくるまでに延々と吸入し続けたことになる。
亜酸化窒素は効くのも速いが切れるのも速い。それでも敵が眠って半日ほど時間が稼げれば、状況は変化すると期待した。卓人はこっそりと分岐点をのぞいた。残念ながら、すべての敵が眠ってくれたようではないようだ。何人かはこちらへ向かっている。
「やれやれ、気流に乗って燃やしたようなにおいがしていたにもかかわらず、何も警戒せずにいたとは。敵が迎え討ちにきているかもしれん」
もうすぐそこまできている。
卓人は呼吸を整えるのに五秒ほどかけ、敵がいるほうへ歩いた。
「待っていました」
そう言って、敢えて堂々と敵兵の前に姿を現した。
目の前に現れた敵兵は全部で四名。彼らはドマニスのものではない孔雀青の軍服を着ていた。先遣隊ということもあり軽装備でその他の荷物もほとんどもっていなかった。
「なるほど、私の部下たちを眠らせたのはきみの仕業か?」
「いったい、どんな魔法を?」
「さあ、どうなんでしょうね」
卓人はとぼけてみせた。
「ソフィアはしくじったのか?」
卓人が助けたあの女のことだろう。敵兵は明らかに動揺していた。
「いいじゃないか、拠点はできているのは確かなのだ。ドマニスの準備ができてしまう前にこちらが準備をしてしまえばいい。予定を少しだけ早めればいい」
四〇代くらいのスキンヘッドの男の言葉であっさりと平静を取り戻してしまった。豪奢な袈裟のようなマントや落ち着いた態度からして、この部隊のリーダーのようだ。わずかな灯りしかない暗がりでもわかるぎょろりとした目つきが皓々と光っている。
「なんだね、坊や。きみ独りかね」
「……そうですね」
何かブラフを仕掛けようと思ったが、その貫録を前に通じる気がしなかった。
「われわれの作戦を見破ったことは誉めてやるぞ。バルツ兵の無益な時間稼ぎがこういうふうにつながっていたとは、そうそうは思わないだろうからな」
「あなた方の仲間がやったことが教えてくれました」
「孤立した集落だと聞いていたが」
「ええ、僕が偶然通りかからなかったら、わからなかったでしょう」
「なるほど。だが、きみはたった独りだ。仲間は誰も信じてくれなかったのかね?」
「いいえ、軍はすでに動いていますよ。僕は偶然ここにきただけです」
卓人はあえて偶然を強調した。
「そうかね。では、何をしにきた?」
「時間稼ぎに」
卓人はよどみなく答えた。ビビッている場合ではないのだ。
「さすがに我々を殲滅しにきたとは言わんか。ということは魔法には自信があるようだ。しかし、この数を相手に大丈夫かね?」
「……いいえ、魔法は使えません」
「ははははは! いい度胸だ。だが、それではバルツ軍ほどにも役に立たんぞ」
確かにその通りだ。
「それはどうですかね?」
それでも敢えて卓人は、挑発気味の返事をした。
「こいつ!」
敵兵の一人が火の魔法を構えた。
卓人はこの展開を待っていた。
その兵に向かって紙球を投げつけた。
指先に灯った炎が紙球に引火すると小さな爆発を生じ、敵兵は勢いですっころんだ。
量的に命を奪うほどの威力はない。だが、心理的にはかなりの効果があったようだ。
「何だったんだ、今のは?」
明らかに動揺している。ほとんど無手にもかかわらず自信ありげに振る舞ったことも敵の想像力を掻き立て混乱させた。卓人が次々に火薬や小麦粉の入った紙球を投げつけると敵兵は慌ててよけたりはじいたりした。いずれも爆発などしなかったが、敵兵は精神を削られる攻撃を嫌った。
「調子乗ってるんじゃねえぞ!」
別の敵兵がまた火の魔法を放とうとした。卓人は確認するやきた道へ逃げ込んだ。
次の瞬間、今度は空気に引火し爆発を引き起こした。
原因は空気中に舞った小麦粉の粉塵爆発である。
さらに残っていた亜酸化窒素も助燃性の化合物である。空気中に分散した小麦粉のことごとくは一瞬にして完全燃焼し、その空間を炎の海にした。
さらに散らばった火薬に引火爆発すると、熱を伴って空気は急速に膨張した。
筒状構造の坑道は圧力がそのまま通路のある方向にだけかかるため、逃げた卓人もその威力で吹き飛ばされて転がった。直後、陰圧になった坑道は多量の空気を吸い込んで、坑道内は嵐のようになった。
それが穏やかになって分岐点に戻ると、敵兵がもっていた松明は全て消え、卓人がもって入った風防付きのランプだけが転がりながらもなんとか燃えていた。何とか人影が認識できる程度の明るさしかなかったが、目に見える敵兵はすべて倒れていた。
爆圧あるいは爆発による瞬間的な酸素不足によって意識を失ったのだろう。
――殺してしまったのだろうか……?
意図して傷つけた時点でそれを受け入れる覚悟もしてきたが、大きなダメージを受けてはいるものの誰一人として死んではいなかった。
卓人は率直にほっとした。
もう一つ、飯場で見つけた一メートル弱の素焼きの筒。これは、飯場にあった毛布でぐるぐる巻きにした。
そうこうしているうちに意気揚々とした男たちの声が少しずつ聞こえるようになってきた。音が幾重にも反射して何を話しているかはっきりとわからないが、これから起こそうとしている破壊と蹂躙に胸躍らせているのはわかった。
だが、声が大きくなるにつれそれは慌てたものに変わってゆく。
「おい、なにをにたにた笑ってるんだ?」
「いや、そんなつもりはないが、なんか……顔がしびれてきて……」
「しびれる?」
「異様に眠い……なんだろう……」
「高山病か? しかしなんで今頃になって」
「もういい、体調に異変のある奴らは置いていくぞ。貴様らは体調が回復するまでここで休んでろ」
卓人が塩と混ぜて熱したのは、ブタの糞尿のしみ込んだ泥から硝酸カリウムをつくったときに残った溶液を乾燥させたものだった。その中に含まれる硝酸アンモニウムは塩化物イオンの存在下で熱分解により亜酸化窒素を生じる。これは笑気ガスとも呼ばれるほぼ無色無臭の気体で、麻酔作用がありその効き目も速い。トンネルが完全に通じたことで生じたゆっくりと坑道の奥に向かう気流に乗り、奥からやってきた敵兵はここにくるまでに延々と吸入し続けたことになる。
亜酸化窒素は効くのも速いが切れるのも速い。それでも敵が眠って半日ほど時間が稼げれば、状況は変化すると期待した。卓人はこっそりと分岐点をのぞいた。残念ながら、すべての敵が眠ってくれたようではないようだ。何人かはこちらへ向かっている。
「やれやれ、気流に乗って燃やしたようなにおいがしていたにもかかわらず、何も警戒せずにいたとは。敵が迎え討ちにきているかもしれん」
もうすぐそこまできている。
卓人は呼吸を整えるのに五秒ほどかけ、敵がいるほうへ歩いた。
「待っていました」
そう言って、敢えて堂々と敵兵の前に姿を現した。
目の前に現れた敵兵は全部で四名。彼らはドマニスのものではない孔雀青の軍服を着ていた。先遣隊ということもあり軽装備でその他の荷物もほとんどもっていなかった。
「なるほど、私の部下たちを眠らせたのはきみの仕業か?」
「いったい、どんな魔法を?」
「さあ、どうなんでしょうね」
卓人はとぼけてみせた。
「ソフィアはしくじったのか?」
卓人が助けたあの女のことだろう。敵兵は明らかに動揺していた。
「いいじゃないか、拠点はできているのは確かなのだ。ドマニスの準備ができてしまう前にこちらが準備をしてしまえばいい。予定を少しだけ早めればいい」
四〇代くらいのスキンヘッドの男の言葉であっさりと平静を取り戻してしまった。豪奢な袈裟のようなマントや落ち着いた態度からして、この部隊のリーダーのようだ。わずかな灯りしかない暗がりでもわかるぎょろりとした目つきが皓々と光っている。
「なんだね、坊や。きみ独りかね」
「……そうですね」
何かブラフを仕掛けようと思ったが、その貫録を前に通じる気がしなかった。
「われわれの作戦を見破ったことは誉めてやるぞ。バルツ兵の無益な時間稼ぎがこういうふうにつながっていたとは、そうそうは思わないだろうからな」
「あなた方の仲間がやったことが教えてくれました」
「孤立した集落だと聞いていたが」
「ええ、僕が偶然通りかからなかったら、わからなかったでしょう」
「なるほど。だが、きみはたった独りだ。仲間は誰も信じてくれなかったのかね?」
「いいえ、軍はすでに動いていますよ。僕は偶然ここにきただけです」
卓人はあえて偶然を強調した。
「そうかね。では、何をしにきた?」
「時間稼ぎに」
卓人はよどみなく答えた。ビビッている場合ではないのだ。
「さすがに我々を殲滅しにきたとは言わんか。ということは魔法には自信があるようだ。しかし、この数を相手に大丈夫かね?」
「……いいえ、魔法は使えません」
「ははははは! いい度胸だ。だが、それではバルツ軍ほどにも役に立たんぞ」
確かにその通りだ。
「それはどうですかね?」
それでも敢えて卓人は、挑発気味の返事をした。
「こいつ!」
敵兵の一人が火の魔法を構えた。
卓人はこの展開を待っていた。
その兵に向かって紙球を投げつけた。
指先に灯った炎が紙球に引火すると小さな爆発を生じ、敵兵は勢いですっころんだ。
量的に命を奪うほどの威力はない。だが、心理的にはかなりの効果があったようだ。
「何だったんだ、今のは?」
明らかに動揺している。ほとんど無手にもかかわらず自信ありげに振る舞ったことも敵の想像力を掻き立て混乱させた。卓人が次々に火薬や小麦粉の入った紙球を投げつけると敵兵は慌ててよけたりはじいたりした。いずれも爆発などしなかったが、敵兵は精神を削られる攻撃を嫌った。
「調子乗ってるんじゃねえぞ!」
別の敵兵がまた火の魔法を放とうとした。卓人は確認するやきた道へ逃げ込んだ。
次の瞬間、今度は空気に引火し爆発を引き起こした。
原因は空気中に舞った小麦粉の粉塵爆発である。
さらに残っていた亜酸化窒素も助燃性の化合物である。空気中に分散した小麦粉のことごとくは一瞬にして完全燃焼し、その空間を炎の海にした。
さらに散らばった火薬に引火爆発すると、熱を伴って空気は急速に膨張した。
筒状構造の坑道は圧力がそのまま通路のある方向にだけかかるため、逃げた卓人もその威力で吹き飛ばされて転がった。直後、陰圧になった坑道は多量の空気を吸い込んで、坑道内は嵐のようになった。
それが穏やかになって分岐点に戻ると、敵兵がもっていた松明は全て消え、卓人がもって入った風防付きのランプだけが転がりながらもなんとか燃えていた。何とか人影が認識できる程度の明るさしかなかったが、目に見える敵兵はすべて倒れていた。
爆圧あるいは爆発による瞬間的な酸素不足によって意識を失ったのだろう。
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