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第一部
第10話
しおりを挟む「んっ・・・ふぅ!」
瀬尾君を押し戻そうとするが、鍛えられた身体はびくともしない。せめてもの抵抗に唇をぎゅっと引き締めていると、中に入れろとでも言うように熱い舌でノックされた。首を横に振ることで拒絶の意思を示してはみたが、瀬尾君は全く意に介さず、唇の縁を舌でゆっくりとなぞった。
どうして瀬尾君からキスをされているのかが分からない。彼が先ほど独り言のようにつぶやいていた言葉も意味不明だ。いったいどういうことなのかを瀬尾君に問い詰めたいが、いっこうに彼が離れてくれる気配はない。
「っ、はな・・・せっ!」
しかし自分も男だ。彼がたとえαだとしても同じ男である以上負けるわけにはいかない。渾身の力を振り絞って彼の首を両手でつかみ、なんとか引きはがすことに成功した。
「・・・やっぱりまだ不安定ですね。」
「不安定って・・・何がだよ!」
ソファの上でゆっくりと後ずさりして彼との距離を取る。また自分には理解できないセリフを話し出した瀬尾君に訳を尋ねてみるが、彼は口角を少し上げただけだった。
「あなたが知る必要のないことですよ。全て終わった後に教えてあげますから。それまでは黙ってここにいてくれればいいんです。」
「ここにいるって・・・。」
「もし逃げようとすれば無理矢理しますから。俺は同じ間違いは二度と繰り返しませんよ。」
ソファから立ち上がった瀬尾君は「お風呂沸かしてるんで先にどうぞ」と言ってリビングから出て行った。彼の姿が見えなくなって、ほっと息を吐く。彼のことは好きだけれど、突然襲われたことに驚きと恐怖心があった。それに、彼は自分を愛してなんかいない。それなのに、逃がさないなど逃げたら無理矢理するなどと言ってくる理由が全く分からないのだ。
「瀬尾君、いったいどうしちゃんたんだよ。」
頭の中は混乱と不安でぐちゃぐちゃなのに、先ほどの甘いキスと獣のような熱い視線を思い出すと身体が疼き出す。彼が好きなのは自分ではないのに、彼には運命のつがいがいるのに。こんなことをされても瀬尾君にどうしようもなく惹かれてしまう自分がたまらなく嫌だった。
瀬尾君の姿が見えなくなったので、この隙に帰ってしまおうかとも思った。しかし、時間は午後9時を回っているし、ここがどこかも分からない。外の深い森のことを考えると、とても逃げだそうという気にはならなかった。
お風呂を沸かしてくれたと言っていたので、せっかくだから入らせてもらおうかと立ち上がる。しかし、お風呂場がどこにあるのか分からない。人の家をうろうろするのも気が引けるので、瀬尾君自身に聞いた方がいいだろう。
「瀬尾君、お風呂は・・・っ!」
彼が出て行った扉を開けて問いかけてみる。すると、そこは広いベッドルームでキングサイズと思われるベッドに瀬尾君が腰を下ろしていた。
「あぁ、すいません。お風呂ならリビングを出て廊下をちょっと行った右側です。タオルも下着も好きに使ってください。」
「あ、うん。ありがとう。」
ベッドルームにいる瀬尾君を見ていると、また動悸が激しくなりそうなので急いで部屋を出る。早足でリビングを通り過ぎ、バスルームに入った。
「すごい・・・。」
驚いたことに湯船は檜で造られていた。桶や椅子も檜製で、高い位置にある窓からは涼しい風が入ってきた。
「すごい、いいなぁ。うらやましい。」
温泉が大好きな自分としては、理想のバスルームだ。しかし、瀬尾君のイメージには合わないような気がする。彼が温泉好きという話も、旅行で温泉地に行ったという話も聞いたことがない。瀬尾君にはどちらかというとガラス張りのオシャレなシャワールームが合っている。
「まぁいいか。こんなお風呂に入れるなんてありがたいし。」
就職してから忙しく、学生時代のように温泉に出かけることはほとんどなくなってしまったため、久しぶりの温泉気分だ。脱衣所に戻って服を脱ぎ、洗い場で急いで身体を洗った。
「それでは失敬して。」
足先からゆっくりと入り、広い湯船に身体全体を浸す。
「あぁ・・・。」
おじさんのような声が出てしまったがもう35歳なのでおじさんだろう。それに素晴らしい湯加減なので仕方がない。自分は人よりも熱めの湯が好きなのだが、今がちょうどベストだ。ジムで汗は流したが、お湯につかってはいないので、運動で凝り固まった筋肉がほぐされていく。疲れがお湯に溶けていくようだ。
「気持ちいぃ・・・。」
思わず首元までお湯につかってしまう。身体がぽかぽかと温まってきて、幸せな気分になってきた。先ほど飲んだお酒が回ってきたのか、だんだんと眠くなってくる。少しだけと自分に言い訳をしてゆっくりとまぶたを閉じた。
なんだか身体が揺れているような気がする。一定の速度で振動が伝わってくるし、なんだか温かいものに包まれている感じもある。自分がどこにいたのかを思い出して慌てて目を開けた。
「あぁ、やっと起きたんですか。」
「せっ瀬尾君!?」
悲鳴のように叫んでしまったのは、自分が瀬尾君にお姫様だっこをされていたからだ。
「ちょ、あの瀬尾君、下ろして!」
「暴れると落としちゃうんで大人しくしてもらってもいいですか?」
緩みきった自分の身体を、瀬尾君は易々と持ち上げて歩いている。
「重いから!重いから下ろして!」
「別に重くないですよ。」
「嘘つき!!」
カップルのようなやりとりになってしまっているのも恥ずかしいし、何より自分のだらしない身体を瀬尾君に触られていることが何より耐えがたい。
「お願いだから離して!」
「はい、離します。」
瀬尾君がいきなり腕を離してしまう。地面に落ちるかと思ってぎゅっと目を閉じるが、その衝撃はいつまでたってもやってこない。
「何食べますか?」
「へ?」
瀬尾君はリビングのソファの上に下ろしてくれたようで、自分からさっさと離れてキッチンの方へと向かっていた。何を食べると言っても、冷蔵庫に何が入っているかも分からないし、何より人の家であれこれリクエストなどできない。
「いや、お腹空いてないから・・・。」
「運動した後ならお腹空いてるんじゃないですか?簡単なものですが作りました。食べられるようならどうぞ。いらなければそこら辺に置いといてください。」
瀬尾君は自分の返事を聞く前に「お風呂に入ってきます」と言って部屋を出て行ってしまった。
「瀬尾君が料理・・・?」
料理なんてするとは思っていなかったので、目を丸くしながらキッチンに入った。そこに並べられたたくさんの料理に目を見張ってしまう。厚めに切られた鴨肉のローストには肉汁と調味料を煮詰めて作ったであろうソースがたっぷりとかかっている。レタスやベビーリーフ、ミニトマトにカリカリになったベーコンが混ぜられたシーザーサラダには、アクセントに砕いたナッツ類が振りかけてあった。キノコやエビがたっぷりと入ったアヒージョには、香りだけで食欲を誘うガーリックトーストが添えられている。瀬尾君にはお腹は空いていないと伝えたが、実はさっきからずっとお腹が空腹を訴えていた。
「これ、食べていいんだろうか・・・。」
どこが簡単な料理だ。こんな料理、いつの間に作ったんだろ。自分がお風呂に入っていた時間は眠っていたのも含めて1時間弱。そんな短時間でこんなに作れるものだろうか。勉強も仕事も頑張ってきたが、唯一料理だけはどれだけ頑張ってもうまくならなかったし、何より好きになれなかった。美味しいものを食べたいなら外食すればいい。そんな考えで35年間生きてきた。
「うわ、これ美味しい・・・。」
行儀が悪いかと思ったが、我慢できずに鴨肉のローストを一枚口に運んだ。噛むと肉汁があふれてくるし、少し胡椒がきいた味付けは自分好みだ。ソースも味が濃すぎず、肉のうまみを引き出している。一枚食べてしまうと、もう食欲が止まらなくなってしまう。急いで料理を全てリビングのテーブルの上へと運ぶ。瀬尾君が用意してくれていた取り皿やコップも運んだ。ワイングラスも用意されていたので、冷蔵庫の隣にあるワインセラーの前にしゃがみ混んで物色させてもらう。
「うーん、鴨肉に合うのってやっぱり赤ワイン?でもあんまり飲んだことがないからわかんないんだよね。適当に選んでもいいのかな、これ。」
甘いお酒ばかり飲むので、ワインに関しての知識は皆無に等しい。適当に選んですごく高いワインだったらどうしようと不安になる。しかし、それでもせっかくこんなにオシャレで美味しい料理を作ってもらったんだから、飲み物だってこだわりたい。
「んー?これか?いやぁ、これ?」
「鴨肉ならミディアムボディの赤ワインがいいと思いますよ。その一番右端のです。」
「うひゃあ!」
耳元で突然低い声で囁かれ、びくんと身体が跳ねた。慌てて隣を見ると、頭にタオルを乗せ、上半身は裸でスエットパンツだけを身につけた瀬尾君が自分と同じようにしゃがみ混んで一本のワインを指差している。瀬尾君から自分と同じシャンプーの匂いがしてくるのをいやらしく感じてしまい、慌てて視線をワインに戻した。
「こ、これのこと?」
「そうです。フルーティーなので、山口さんでも飲みやすいと思います。」
瀬尾君の指示通りにワインを取り出す。瀬尾君は自分の手からワインを受け取り、キッチンのカウンターに置いてあったグラス2本を片手で持ってソファへと向かった。
「あぁ、料理運んでくれたんですね。ありがとうございます。簡単なものでしたけど、大丈夫ですか?」
「いや、簡単じゃないし、すごく美味しそうだよ!鴨肉のローストをちょっとつまみ食いしちゃったけど、本当においしくて!」
「そうですか、なら良かったです。俺も腹減ったんで食べましょう。」
食欲を抑えることができず、先ほど襲われかけたソファにのこのこと座ってしまう。瀬尾君が注いでくれたワインを飲んでみると、ワイン初心者の自分でも飲みやすい。それに瀬尾君が作ってくれた料理と合って、「ほぉ」と感嘆の吐息が漏れてしまった。そんな自分を見て、瀬尾君はクスッと笑っていたが、料理に気を取られていた自分が気付くことはなかった。
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