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第一部

第6話

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  火曜日の朝、目が覚めると熱はすっかり引いていた。どうやらやっと薬が効いてきたようだ。やっと出社できる体調に戻って安堵のため息をついてしまった。
 朝御飯を食べながら昨夜のことを思い出す。熱に浮かされてほとんど覚えていないが、何だかうなされていたような気もするし、逆にとても幸せだったような気もしてくる。しかし全く記憶が残っていない。まぁ、覚えていないということは大したことではないだろうと結論付けて、シャワーを浴びることにした。



 「あぁ、山口さん!もう大丈夫なんですか!?」

 デスクで作業をしていた自分の姿を見て、出社してきた三目君が必死の形相で駆け寄ってきた。

「もう大丈夫だよ。迷惑かけて悪かったね。」
「そんなことないです!むしろ僕の方が山口さんに迷惑かけっぱなしで!」

 三目君がまたも金曜日のことを謝ろうとしてきたので、それはもういいと首を横にふった。

「あれはどうしようもないことだったんだから、三目君が気にすることじゃないって何度も言ったでしょ?それよりも溜まった仕事を片付けないと!」

 月曜日に休んでしまったために、週の始めにまとめて他部署からきた仕事がだいぶ残っている。資料のデータベース化も仕事だが、様々な部署から依頼されるデータを揃えてメールで送ったり、手渡ししたりする作業も行っている。ファイルの中のデータはきちんと整理されていないものも多く、欲しい情報を探しだすのでさえも時間がかかることもある。
 今日出社してみると、週末までにとお願いされたデータが5件もあった。実は月曜日の時点で7件もあったらしいが、三目君の必死の働きで一日で2つも終わらせてくれていた。でも、そのせいでかなり残業をさせてしまったようなので、今日は早めに帰ってもらいたい。

 「今日のうちに最低でも2件、いければ3件終わらせよう!」

 スーツの上着を脱いで椅子にかける。元気よく返事をしてくれた三目君とともに早速データまとめにとりかかったのだった。


「…三目君、どう?」
「…ダメです、まだ解読に時間がかかります。」

  時間は午後6時を回った。定時を一時間も過ぎてしまったが、まだ仕事を続けている。なぜなら、少なくとも2件の仕事を終わらせるはずだったのに、まだ2件目に取り組み始めたばかりだからだ。データ自体はすぐに見つかったのだが、かなり昔の資料だったため、全て手書きで書かれていた。しかもかなりの悪筆で、解読するのに時間がかかる。10ページ分をまとめればいいのだが、解読が終わっているのはたったの2ページだ。

「三目君はもう帰って…」
「嫌ですよ。むしろ山口さんの方が先に帰ってください。病み上がりなんですから。また熱が出てきたらどうするんですか!」
「大丈夫だよ。体調はすごくいいし、しっかり休ませてもらったから。」

 昨日も夜の9時過ぎまで仕事をしてくれていたと聞いた。本当に早めに帰ってほしいが、頑として首を縦にはふってくれないので、それならばできるだけ早く仕事を終わらせるしかないだろう。 
 ミミズが這ったような文字との格闘を再開しようとした時、ぐうっと可愛らしい音が聞こえてきた。
 音の聞こえてきた方向を見ると、三目君が顔を真っ赤にしてお腹を抱えている。

「すっ、すいません!お昼を食べ損ねてしまったので!」

 確かに仕事に夢中で自分自身もお昼ご飯を食べていない。自覚するとお腹が一気にへってきて、三目君よりも大きな腹の音が鳴った。

「何か買ってくるよ。」
「じゃあ僕が!」

  三目君の方が自分よりも文字の解読が早いため、そっちをお願いした方が効率がよいことを伝えて、財布を手に部屋を出た。

 会社を出て徒歩五分程度の場所にコンビニエンスストアがある。パンとコーヒーでも買って帰ろう。二人で軽食を食べて一息つけば、リフレッシュもできて、作業効率も上がるはずだ。二人分の食事を買って急いで店を出る。小走りで会社まで戻ろうとした時。

「あっ!」

 見慣れた集団を見つけ、慌てて建物の陰に隠れた。少しだけ顔を出して伺うと、数十メートル向こうから見知った集団がこちらに向かって歩いてきていた。

「飲み会か何かかな…。」

 その集団は自分がかつて所属していた営業の部署の人たちだった。知らない人も何人かいるが、ほとんどは見知った人たち。会社の顔とも言える部署だけあって、相変わらずみんな見目麗しい。部署の要である営業部長は、イギリス人とのハーフで体躯が大きく、まるでライオンのような威圧感だ。部長秘書の女性は美しい身体をオーダーメイドのスーツに包んで、ハイヒールで闊歩している。ほかの人たちも部長たちに遜色ないほどの美しさだ。絶対王者であるαの集団。道行く人々は誰もが彼らに見とれていた。

「あっ…。」

 そして、部長の隣にいる彼、瀬尾君も注目を集める大きな要因になっている。いつもキリッと引き締められたりりしい眉だが、今日は少しだけ緩められている。表情も穏やかで良いことでもあったのだろうかとなぜか自分も嬉しい気持ちになった。しかし、彼らは自分の方向へと近づいてくる。このままでは彼らと鉢合わせしてしまう。

「っここでいいや!」

  隠れられる所はないかと周りを見回すと、地下に降りていく階段があった。下まで降りてみると、地下室へと続く扉は鍵がかかっているようで、中に入ることはできない。しかし、一番下にいれば、道路を歩く瀬尾君たちにはバレないだろう。その場にしゃがみこんで、彼らが通りすぎるのを待つことにした。


 「瀬尾、そういえば最近調子がいいじゃないか。何か良いことでもあったのか?」

 部長が瀬尾君に尋ねる声が聞こえてくる。それは先ほど自分が思ったことでもある。

「…えぇ、そうですね。良いことがありました。」
「ほぉ、そんな顔をするなんて珍しいじゃないか。本当にどうしたんだ?」

 そんな会話が聞こえてきてソワソワしてしまう。瀬尾君のそんな顔とはどんな顔なのか見てみたい。いったいどんな表情なのか。



「やっと運命のつがいを見つけました。」



 瀬尾君の言葉を聞いて息が出来なくなった。

身体に力が入らなくなり、その場に尻餅をついてしまう。

「ほぉ!そうか、やっと見つかったのか!良かったなぁ!」

 部長をはじめ、ほかの人たちからの祝福の言葉が聞こえてくる。


「運命の…つがい…?」


 一番恐れていた言葉だ。彼の言葉を信じたくない。嘘だと言って欲しい。しかし、それを否定してくれる人はこの場にはいない。

「瀬尾…君…。」


 涙がこぼれ落ちそうになる。この場を動きたくない。ずっとここで泣いていたい。しかし、まだ仕事が残っているし三目君を一人にするわけにはいかない。

 もう大人だ。こんなことで傷ついていたら生きていけない。スーツで、顔にべったりとついた汚い涙と鼻水をぬぐい、よろよろとその場から立ち上がる。


 大丈夫だ。きっと忘れられる。いい思い出になる。でもしばらくは泣くことを許してほしい。一方通行のワガママな恋だけれども、少しずつ諦める方法を探すから。

 よろよろとふらつきながら、ゆっくりと会社へ戻った。

 
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