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その10

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 こうなってはもう、いよいよ一般人に手出しできることはないようだった。
 あーちゃんの授けた策のとおりに、シルシュは〈蛇口〉を持って人のいない場所へ向かう。どこで待ち構えるかはさておき、とにかく空を飛んでしまえば生身の人間はおいそれとは近づけない。〈蛇口〉を奪われたことを感知する魔法が施されている可能性があるので、なるべく急いだほうが賢明だろうということになった。人が近くにいる状況では、それらに紛れてどんなふうに取り返しにくるかわからない。
 ただ、逆に何の仕掛けもなかった場合、魔女だってシルシュを探し出せないのではないか。少なくとも発信機のような仕掛けがされてなければいけない。大事なものを手放すのに一切の保険もなしとは考えにくいが、確証はない。以前のように分解して確かめようにも、〈蛇口〉が壊れてしまっては元も子もない。
「そうだ、〈コンパス〉を置いてってもらおう」
 と、あーちゃん。一番大きな魔力量を指し示す〈コンパス〉は、〈蛇口〉を持つシルシュを指すようになるはず。もし魔女が困るようなことがあれば、きっと俺たちに近づいてくるだろうから、〈コンパス〉を使うように仕向けよう、という寸法。なんなんですかね、この冴えわたる機転は。冴えすぎてて腹立ってきた。ムキー。
「失くさないでくださいよ? これからはきちんと片づけてください」
 お小言とともに、シルシュはどこからともなく〈コンパス〉を取り出す。球形の虫かごの中で、スライム状の物体がふよふよ漂い、やがて俺に向かってへばりつく。思えばこれが始まりだったわけで、感慨深い気持ちにならなくもない。
 あらたまって背筋を伸ばしたシルシュが、深々とお辞儀をする。
「アーチャンさん、本当にありがとうございました。アーチャンさんがいなかったら、私、もう本当にどうしたらいいかわからなかったと思います」
 真正面から感謝されて、あーちゃんは照れくさそうにしながらごにょごにょと応じる。
「ニシヤマさんも」
 と、今度は俺に向き直る。かく言う俺も、こういうのは肌に合わない。俺への分は全部あーちゃんによろしく。
 適当にあしらっていると、シルシュは不満げに頬をふくらませた。
「一応、ニシヤマさんにも感謝してるんですよ?」
「一応だろ? おべんちゃらはやめとくれ」
「まあそうですけど。でもニシヤマさんがいてくれてよかったなぁって思ってますから」
「…………」
 ……なんか、そんな素直にされると調子狂っちゃいますよね。
 シルシュは、ゆっくりとうつむいて視線を外し、ほ、と小さく息をつく。少しだけそのままでいて、それからぱっと顔を上げた。
「それじゃ、おうちのみなさんにもお礼を……」
「おう……あっ、待った! ちょっと待った!」
 部屋を出ていきかけたところを呼び止める。律儀でけっこうだが、お世話になりましたさようなら、で済む話か?
 ウチの大人たちには、シルシュの事情は魔法とか異世界とかも含め、おおまかには説明してある。おおまかにしかしていないのは、話半分にしか聞いていなさそうだったからだ。どこまでを真実として受け入れているかはたかが知れているように思う。
 シルシュを居候させる当初から、ずっとそうだった。おそらくは、単に未成年を保護しているだけのつもりでいる。というより、どんな事情があるかはさておき、現実的な問題として適切とされる対処を外さないようにしておけば、どう転んでも大事にならないだろう、というスタンス。魔法とか異世界とか、そんなあやふやで確かめようのないことは、そもそも関係がないのだ。
 だから、突然帰ると言い出したところで、簡単には送り出してくれないんじゃなかろうか。当てができたからそこへ行きます今までお世話になりました、なんて話に、それは良かった元気でね、ってわけにはいかないんじゃなかろうか。
「西山の言うとおりだな」
 あーちゃんが同意してくれる。それを受けて、シルシュは順番に俺たちを見る。
「そういうものですか……。それじゃあどうしたらいいでしょう? すごく良くしてもらったのに、何も言わずに行くなんてできません」
「う~ん、気持ちはわかるが、保護者が迎えに来たとしても玄関先で済まされるような状況じゃねーからなぁ……」
 さすがのあーちゃんも妙案は浮かばないようだ。大人の世界はむずかしい。
「ま、しょうがないだろ。あとは俺からうまく言っておくから」
 請け負ってみせると、あからさまにうろんなものを見る目が向けられた。
「すごくこころもとないです」
「お前、正直すぎだろ……」
「でも、お願いします」
 シルシュは俺の腕を掴んで、強く引いて、頭を下げた。
 こうして、魔女っ子シルシュは夕空に去った。例によってラクロスのラケットみたいなのにまたがって、何度も振り返りながら。
 あーちゃんも家に帰る。別れ際、家族にどう話すのかと聞かれた。無論、プランなどない。出たとこ勝負である。
 とはいえ、大人たちを納得させられる文言が都合よく湧き出てくるはずもない。ただもう率直に、元いた場所に帰った、とだけ伝えた。
「帰った、って……さっきまであんたの部屋で一緒にわちゃわちゃしてたじゃないの。それが急に、どうしてそんなことになったの? 帰ったってどこへよ?」
 母が顔色を変えてまくしたてる。まあ、こうなるだろうな、という感じ。
「異世界。ここじゃない別の世界、らしい。そういう話してたろ?」
「してたけど、だからってあんた、そんな……」
「信じられない? あいつが魔法使ってるの見たじゃん。いやまあ俺だって、いまだにちゃんと信じてるのかどうなのか微妙だけどさ」
「あんたねぇ、それなのにあの子が言うままに行かせたの?」
「そう言われればそうなんだけど、べつにデタラメを真に受けたっていうわけじゃ……」
「デタラメでもなんでも、あんな子を一人で行かせるなんて――」
 母はなおも問い詰める。祖母は口を挟まなかったが、無関心でないことはあきらかだった。それどころか台風のように渦を巻く大きな気配が感じられて、俺は少し怖かった。
 騒ぎを聞きつけてか、紗莉が姿を見せる。シルシュのことを聞いても、眉ひとつ動かさない。いつもどおりの感情表現ひかえめな顔で、母と俺とのやりとりを見やる。
「お母さん」
 と、やがてぽつりと口を開く。
「孝平は、あの子を無責任に放り出したりなんてしないよ」
「…………」
 母は口をつぐんで、そして祖母は黙ったまま、とりあえずは決着となった。とりあえずは。いずれはありのままをきちんと順序立てて説明したほうがいいのだろうと思う。俺だけで話すにはあまりに荷が重いから、あーちゃんにも手伝ってもらって。
 ただその前に、父が帰ってきたらまた一悶着ありそう。



 火が消えたみたいな静かな食卓をそそくさと退出し、自室に戻った。意識せず、長い息がついて出る。
 ベッドに倒れ込んで、しばらく身じろぎもせずうつ伏せる。頭の中がぐるぐるしている。そのうちに倦んだものが浮き上がってきたので、追い散らそうと寝返りを打つ。仰向け、またうつ伏せ。何度か繰り返す。
 その拍子に、指先に固いものが当たる。リモコン。エアコンのリモコン。これは本物。偽物はシルシュが持って行った。部屋は快適な温度で、エアコンは高いところから余裕ぶって涼しい風を吐いている。いつスイッチを入れたのか思い出せなかったし、ベッドに置いたおぼえもない。こんなことだから、すぐにどこへいったかわからなくなるんだ。まして部屋の外に持ち出すなんてどういうつもりだったのか。
 …………
 本当に、どういうつもりだったんだろう、当時の俺は。リモコンなんて後生大事に持って学校に行っていたら、相手がいじめっ子じゃなくったっておかしな目で見られる。モツの里がからんでくるのも当然といえる。
 でも、このエアコンって確か、いつだったか新しく取り付けたんじゃなかったか。昔は、古めかしいクーラーが窓に付いていたような。あれ、いつだったっけ? おぼえてないけど、取り付け工事の様子をずっと見ていたのは記憶にある。新しいエアコンがうれしくてたまらなかったんだと思う。それで、うれしさあまってリモコンを肌身離さず学校にまで持って行っていたのかな。俺は馬鹿な子供だったのかな。
 いや待て待て。そうじゃないだろ。魔女から渡されて、何もわからず大事にさせられていたんじゃないのか。しかし、魔女と遭遇したのは十年前で、エアコンが新しくなった時期とは全然違うし、そもそも、その頃にはまだこの部屋をあてがわれていない。二回魔女に会ってるってこと? で、そのときの記憶もまた消した。わざわざ俺に〈蛇口〉を渡すために? いちいち魔力を補充するのが面倒だったから? でもべつに囮役は俺じゃなくったっていいわけで。
 ……わかんねえな。まあ、もう終わったことだし。
 それにしても、魔女だとか魔法だとか、まったくおかしなことに巻き込まれたものだ。けれどもそんな非常識なものに直面したわりには、のほほんとして過ごしたように思う。冒険らしいこともしてないし、普通に学校にも通っていたし、外国人が一月ばかりホームステイに来ただけのような感覚。
 一応、まだ俺の身体には魔力とかいう謎エネルギーが充填されているらしいが、それもそのうちに抜け出て、まっさらに戻る。とはいえ、おそらくは十年も前からその状態だったわけで。
 だから、何が変わるわけでもない。
 …………
 そういえば、明日は終業式なんだった。夏休みが始まる。シルシュをダシに藤野を誘うつもりだったが、当てが外れてしまったな。こうなったら一か八か、玉砕覚悟の特攻しかない。志津木が邪魔してきたら、そのときは力のかぎり戦おう。
 誘うとしたら、やっぱり夏祭りか。イベントとしては申し分ないけど、現状からすると一足飛びな感じがしないでもない。けど、みんなで行くという体裁ならちょうど良いのかも。ああでも、そのためには夏目=志津木ラインが失われたことがあまりに大きな痛手。だからシルシュを口実にしようって画策してたんだろうに。
 …………
 違うな、そうじゃない。べつにシルシュがいなくとも、口実なんてどうとでもでっち上げればいいのだ。以前ならそうしていたはずだ。まあ、藤野が受けてくれるかどうかは別問題だけれど。
 なんだか、何かにつけ、シルシュをからめて考えようとしているきらいがある。
 もやもやする。どうにも胸がつかえている。
 原因は明らか。
 いやはやまさか、シルシュの奴、あんなにウチに愛着を持っていたとはね。あ、ごめん嘘。それは知ってた。だってけっこう人見知りしそうなのに、両親にも祖母にも懐いてたし。
 それに、以前の暮らしでは、たぶん唯一の家族であろう魔女と、微妙な空気感みたいだった。ほとんど一人で暮らしているようなもので、さびしい生活だったんじゃないかって気がする。本人にそういう自覚はなかったのかもしれないけど。
 でも普通の子供と違ってわきまえているから、まさか『帰る場所』に真っ先にウチを思い浮かべるなんて思わなかった。
 ただ、そんなのはちょっとした気の緩みみたいなもので、どうあれリゼリヤお姉さまに事の顛末を伝える必要はあるだろうし、シルシュだってすぐに気づいて答え直していたはず。きっと。
 だからそれは、シルシュが自分で気づけばよかったことだった。俺が言うべきはもっと別のことだった。そう思うのだ。
 馬鹿みたいな。能天気で浅はかな、そういういつもみたいなこと。
 でないと、なんか追っ払ったみたいじゃん?



 だいぶ遅くになってから、紗莉の部屋をノックした。空耳みたいな返事があって、ドアを開ける。
 紗莉は机に向かっていた。椅子をくるりと回して振り返る。
「どうしたの孝平。まだお風呂入ってなかったんだ」
「ああ、うん……ちょっと考えごとしてた」
「ふぅん?」
 不思議そうに鼻を鳴らす。そういう紗莉も、風呂はこれからのようだった。遅くまで受験勉強してから入るのが近頃の習慣だが、机の上を見るかぎり勉強がはかどっていたようには見受けられない。
「あのさ、頼みがあるんだけど」
「なに?」
 聞いてくる紗莉は、いつもと変わらない、昔からずっと見てきた姉である。いつからか別人だったとは、考えたくない。
 ――考えたくない、が。
「あ、いや……えっと、その前にさ、お前が、魔女、なんだよな?」
 紗莉はほんのわずか、目を見開いたようだった。おどろいて、俺を見返してくる。
「…………」
「あれ? やっぱり違った?」
 紗莉は片手で髪の毛先をつかむようにしてから、小さくうなずいた。
「……うん、そう。私は魔女だよ」
「そっか……」
 間違ってなくてほっとした。そのことは取りも直さず、それどころではない重大な事実が明白となったことを意味するはずなのだが、どうしてか心が動かなかった。
「頼みごとって?」
 紗莉の声音は、普段どおりぽそぽそとしている。
「シルシュのところに行くだろ? ああ、そう、まずはちゃんと行ってやってほしいんだ。なるべく早く。そんで、おとなしく元の世界に帰ってほしい。なんか事情はあるんだろうけど、とりあえずはあいつのためにさ。他の奴のことは知らないけど、あいつには意地悪しようとは思ってないんだろ? だったらさ――」
「待って孝平」
 語気は弱いのに、不思議と、するすると耳に滑り込む。俺は勢い余って口をぱくぱくさせた。
 紗莉は顔を伏せる。
「ねえ、頼みごとってそれ?」
「……いや、違くて。ただ、その、シルシュのところに行くときには、俺も一緒に連れてってほしいんだ。あいつ、普通には行けないようなところでお前を待ってるはずなんだよ。だから」
「…………」
 うつむいたまま。
「……やっぱり、行くつもりない?」
「行くよ」
 と、紗莉は立ち上がる。俺を見つめる目は決然としていて、しかし、ためらうように揺れている。
「行かないわけないよ。できるなら、すぐにも行かなきゃと思ってた」
「それじゃあ――」
「『あれ』を取り返さないと。『あれ』はね、孝平が持ってなくちゃいけないものなんだよ」
「へ……? それってどういう」
「孝平を連れていくのもかまわない。あの子とちゃんとお別れしたいんでしょ? だからいいよ。けど、帰るのは嫌。元の世界なんて、私知らない。そんなところになんて行きたくない」
 紗莉は詰め寄ってきて、俺の胸元を握る。
「あの子のことなんて、私には関係ない。私は孝平のお姉ちゃんなんだよ? どうしてそんなところへ帰らなくちゃいけないの? この家にいちゃいけないの?」
「ちょ、ちょっと待て。お前、魔女なんだよな?」
「そう、そうだよ、私、魔女なんだって。でも元の世界なんて知らない。あの子のことも知らない」
「えー……?」
 俺は混乱した。さっぱりわけがわからない。どうなってる? 知らないってなんだ? 魔女も記憶を失くしてるってこと?
「……せっかく忘れられると思ったのに、魔女なんて……それなのにあの子が来て、連れ帰るとか、そんなの……」
 紗莉の言葉が途切れがちになる。額をぐいぐい押しつけるようにしてきて、ひょっとして泣いてるんじゃないかと俺がぎくりとしたそのとき――
 突然、天井が崩れた。
「のわ―――――!!!!」
 地震のように足元が揺れる。しかし被害は局所的なものだったらしい。天井には夜空を望める穴が開いたが、それほど大きいものではない。せいぜい子供一人が通れるくらい。
 そして、その穴の下。ぱらぱらと瓦礫が降り落ちるそこには、まさに子供らしき人影。
「……サリさん、あなただったんですね」
 青い髪の魔法少女が立っていた。
「どこで待ち構えようかと考えてましたけど、途中で気がついて良かったです」
 さわやかな青い瞳はどこへやら。紗莉をにらみつける目は液体金属的にぎらつきぬめり、すでに凶暴化していることは明らか。案の定、説得なんてこれっぽっちも考えてなさそうに、例のラケットっぽい杖を突きつける。
「はなれてくださいニシヤマさん。私たちが探していたのは、その人だったんです」
「…………」
 紗莉は唇を強く引き結んでシルシュをにらみ返しながら、俺を壁のほうへ押しやった。
「ちょっ……どうするつもりだ……?」
 と、俺が聞くよりも先に、紗莉が跳躍した。軽くジャンプしたくらいの動作にもかかわらず、あっさりと俺の身長を越える。そのまま、天井の穴を少し広げて部屋を飛び出していった。どう考えても人間業じゃない。本当に魔女だったんだなと実感する。
「っ! 逃がしません!」
 シルシュも即座に後を追う。しがみついた杖に振り回されるようにして飛び上がり、天井をさらに破壊しながら視界から消える。
「…………」
 一人残された俺は、しばし呆然とする。
 すぐに、廊下がどたどたと騒がしくなった。
「紗莉ー! 無事かー!!!」
 父が大声を上げながらドアを開ける。愛する娘を案じていち早く駆けつけたのだろうが、さすがに隕石でも落ちたのかという部屋の惨状に面食らった様子。
「なっ、なにごと!? 天井が! 家がー!!! ――はっ、紗莉は!? 紗莉がいない!!!」
 一転、おろおろと娘の姿を探し始める父を見るうちに、俺はようやく落ち着いてきた。
 まずやるべきは、このあわてふためく父をごまかしてやり過ごすことだ。でないと、娘がUFOに連れ去られただとか言い出しかねない。
「紗莉! どこだ! 紗ァァァア莉ィィィイィィー!」
「大声出すなよ。近所迷惑でしょうが」
「なんだ孝平、いたのか。おい、これはいったいどういうことだ? 紗莉は? なにがあったんだ? いや待てそれより紗莉はどこだ!」
「落ち着け。心配ないから、ちょっと外に出かけてるだけだから」
「出かけただと? 部屋がこんなになってるっていうのに、どこへ行ったっていうんだ」
「コンビニだよコンビニ。アイスでも食べたくなったんじゃない? そしたら部屋がこんなんなったんだ。巻き込まれなくてよかった。運がいい。日頃の行いかな?」
「コンビニ……? こんな遅くにか?」
「そう、そうだよな、危ないよな。だから俺、ちょっと行って、連れて帰ってくるから」
「……孝平、お前なんか隠してないか? 何か知ってるんだろう。ひょっとして、シルシュちゃんのことと関係あるんじゃないか?」
「ないないないないない。そんじゃ俺、ちょっと行ってくるから。あ、それと天井のことは放っておいていいから。戻ったら直させるから」
「直すったってお前……紗莉に直させるっていうのか?」
 まあ、きっと直せるだろう。なんせ魔女なんだし、シルシュよりはうまくできるはず。でもそんなことまで説明している余裕はないので、大丈夫大丈夫と強引に押し切って家を出た。二人を追う。



 俺もシルシュも気づいたのだから、あーちゃんだって当然気づいていたはず。そのうえで、何も言わずに帰った。何も言えなかったのだろう。しょうがない、俺だってまだ半信半疑だし。本人が認めたのにね。
 要するに、紗莉がしばしば俺のベッドでくつろいでいるのは、べつに弟への愛着とかではなかったということだ。
 俺に間断なく魔力を充填するのに最適と考えたのが毎日寝るベッドだった。だからそこに〈蛇口〉を仕掛けた。で、自分が魔力を補給するため、ときどき俺のベッドで寝そべっていた。それだけのこと。
 リモコンに偽装したのは、万が一見つかったとしても捨てなさそうだからではなかろうか。常日頃から部屋の中で見失いがちなのだから、同じものがふたつあると気づかなくてもおかしくない。そうして放置されるだろうから、折を見てまたベッドに仕込めばいい。
 たぶん、遠足でモツの里と揉めたときに紛失したのは、俺の勘違いではないと思う。昔、紗莉が家から急にいなくなったことがあった。それは、俺が失くした〈蛇口〉を回収に出かけていたのではないか。
 その後、それまでは大事に持たせていたのだが、こういうこともありうると考え直し、自室に仕込むことにしたのではないか。そう考えれば、魔女との遭遇以後にエアコンが取り付けられたであろうこととも矛盾しない。その都度別のものに偽装してもいいわけで、今回はたまたまエアコンのリモコンにしただけかもしれない。
 とはいえ、これだけでは紗莉を魔女と断定するには不足しているのではないかと思う。まあ、家族の誰にも似てないとか、疑うべき要素はあるにしても。
 あーちゃんに相談しようかとも思った。けど、結局やめた。どうしてかは、うまく説明できない。あーちゃんに、紗莉がいなくなる後押しをさせてしまうみたいで気が引けたのかもしれない。ただそれも、単にあーちゃんの心情を慮っただけで、俺の動機かというとまた違うように思う。
 最終的には、なるようになれと結論した。考え疲れてやけくそになったわけではない、つもり。
 シルシュは魔女を連れ帰るために来たのだ。魔女が正当な理由もなく行方をくらませたのがそもそもの発端。紗莉が魔女だというのなら、おとなしく帰るのが筋なんだろう。なにかしらの事情はあるんだろうが、そこに口を挟む筋合いにはない。
 ただ、俺の心残りについてだけ、なんとかできないものか。
 ――と、そんなふうなことを考えて紗莉の部屋に乗り込んだのだったが、それどころではなくなってしまった。ある意味、母の心配は的を射ていた。あんな危なっかしい子を一人で行かせるのは道義的によろしくない。かといってどうすれば良かったかなんて見当もつかないけど、目の前であんなことになったらほっとけないし、追いかけないわけにいかない。家も直させにゃならんし。
 しかし、そうはいってもどこへ行ったのやら。とりあえずあてずっぽうに走り始めると、ややあって低い空に不規則に動く光跡を見つけた。シルシュじゃないかと思い当たる。ジャコスンで猫耳秘書に殴りかかったときみたいに、杖がなにやら強そうな力を帯びて発光する、その光ではないのか。
 他に当てもなし、ひとまずその光のほうへ向かうことにする。
 追いかけながら光跡を見上げているうちに、どうやら間違いではなさそうだと思えてきた。空にあった光は、頻繁に屋根の上くらいまで下りてくる。動きは直線的で、時折強く明滅した。建物の上を進む紗莉を、シルシュが追いかけながら攻撃を仕掛けている様子が頭に浮かぶ。その先々では、やはり屋根が破壊されているのだろうか。心配だ。
 不意に、光跡が視界から消える。地面に降りたらしい。たぶん、浜辺のほう。紗莉が、他人様の迷惑にならないよう気を利かせたのかもしれない。……しかし、紗莉がそうするのなら納得できるが、魔女が、と考えると、らしからぬ配慮に思える。
 浜辺にたどり着いたときには、息も絶え絶え、汗だくだくだった。これが体育の授業ならうずくまって号令があるまで微動だにしないところだが、状況が変われば限界も変わるものらしい。早く二人のところへ行かねばとそればかりで頭がいっぱいで、疲れを意識する余裕もない。
 真っ暗な砂浜に、ぼうっと青紫色の光源があった。そのあやしい光に照らされて、ふたつ、人影を見つけた。一方はその光源である杖を構えている。間違いない。で、その杖を振りかぶってもう一方に飛びかかっている。もう完全に一致。
「おーい! 二人ともやめろー!」
 呼びかけるも、遠すぎて耳に届かないのかそもそも聞く気がないのか、動きを止める気配がない。近づいて呼びかけても同じだったので、後者の線が濃厚。
 シルシュが攻撃するたび、大量の砂が巻き上がった。相当の威力をうかがわせる。紗莉は飛びのいて避け、時に受け止める。目には見えないが、盾のようなものを構えているらしい。腕に当たる寸前のところで激しく火花が散り、ほんの一瞬、苦しげに歪む表情が見えた。
 はて。ジャコスンのときには、ひらりひらりと危なげなくあしらっていたような……。魔女本人ではなかったけれど、それならなおのこと。
 紗莉に反撃の素振りはない。する余裕がないように見える。シルシュが〈蛇口〉を持っているから? 主従をひっくり返すほど変わるものなのか?
「このっ、このっ、このぉおお!」
 相変わらず、シルシュは力任せにぶんぶん杖を振り回している。この機会に積年の鬱憤を晴らそうという以上の妄念を感じる。弟子たちのうらみつらみは、シルシュの中でぐるぐるしているうちにひどい感じに発酵しちゃったんじゃなかろうか。
 止めねば。魔女であろうと紗莉は紗莉だし、見過ごせない。
 とはいうものの、間に割って入る勇気はさすがにない。後ろからタックルすればどうにか引き倒すことができるだろうか。俺一人ではどうにもできなくても、その隙に紗莉がなんとかしてくれるのでは。
 そう考えて、そろりそろりとシルシュの背後に回り込む。夢中になっているおかげでこちらの動きに気づく様子もない。
 紗莉と目が合った。よぅし、仕掛けるタイミングをアイコンタクトで計ろう。そんな高度な意思疎通の経験はないが、長年一緒に暮らしてきた姉弟であるからして、その程度のこと造作もないと思ったのだが、そう都合よくはいかなかった。
「孝平、だめっ!」
 紗莉が声を上げる。当然シルシュにもバレる。肩越しに視線が衝突する。ねばつくような暗い輝きをたたえた目。
 振り向きざまに杖が振られる。俺の脇腹を抉る軌道。いや、ひょっとしたら両断されるかもしれない。とっさに肘をたたんで防御を試みるが、たぶんあんまり意味ない。腕ごとか、そうでないかの違いだけ。
 目をつぶって、衝撃を待つ。
「……!」
 重い痛みが腕で爆ぜる。そのまま横様にぶっ飛ばされそうな衝撃が走るが、しかしそれだけ。腕ごとまっぷたつどころか、足は砂を踏んだまま、杖は俺の腕に当たって止まっている。受け止めている。腕がじんじんとしびれたが、動かせるということはポッキリいってるってこともなさそう。
「ニシヤマさん!? どうしてここに……?」
 シルシュの顔に困惑が浮かぶ。紗莉に執心するあまり、俺に気づいてもいなかったらしい。できれば殴りつける前に気づいてほしかったが、しかしこれはチャンス。杖を払いのけて組み付く。
「やぁっ、な、なにするんですか! はなしてください!」
「孝平! 危ないから離れて!」
「邪魔しないでください! このぉっ、ニシヤマさんのくせに!」
「くせにとはなんだ! くせにとは!」
 両腕を掴まれ、シルシュはじたばたともがく。
「あ、あれ!? え、えぇ、なんでっ……!?」
 おそらく、魔法的な手段も含めて全力で抵抗しているのだろうが、俺を振りほどけずに動揺する。特別何かしているつもりはなくて、どうにか組み伏せようと必死なだけなんだけど、でも不思議。なんでだろう。
 確かに、俺の身体には魔力がたっぷり詰まってるから頑丈、っていう話はあった。おかげで初対面時の理不尽な拷問に耐えられたのだと。今の一撃を耐えたのも、そのおかげってことで間違いなさそう。しかしそれ以上の効能があるなんて話は…………あった。そういえば、そんな話もした、したよ、したじゃん。
 魔力で頑丈になるなら、似た要領で身体能力を強化できるんじゃないか、って尋ねたことがあった。結局それは魔法だから無理ってことだったけど、でも、これってまさに強化されてるってことなんじゃないのか? 俺、魔法使えちゃってるってことなんじゃないの?
 むむむむ、なんか、俄然テンション上がってきた! 俺、覚醒。土壇場で真の力に目覚めるとか超ステキ。たまらん。
 ふふふ。さーて、そんじゃ目覚めたての真の力で、この小娘をどうしてくれようか。ちょっと頭を冷やしてもらわないとねぇ、へっへっへ……!
「くっ、ちょ、お前……! いいかげんおとなしくっ……!」
「ニシヤマ、さんこそっ……! やめっ、やめてくださっ……!」
 などと脳内では存分にはしゃいでみたものの、なにがどうしてこうなってるのかわからないのに、それ以上のことができるわけもない。何のひねりもなく力を込めるだけ。シルシュもシルシュで打つ手を見出せないらしく、状況は膠着。お互いに、ただただ腕を押したり引いたりし合う、世界一つまらない柔道と相撲の異種格闘技戦みたいな様相。
「こ、孝平っ……!」
 そばで、紗莉がはらはらおろおろとしている。心配なのはわかるけど、見てないで手伝ってもらえないものか。ああ、ひょっとして魔力切れそう? だったらしょうがないけど。
 仮に二人がかりで抑え込んだとして、それでおとなしくなってくれるか疑問でもある。猛犬だって、首輪をつければ吠えなくなるというものでもない。
「なんで殴る気まんまんなんだよ? ついさっき、説得するって言ってただろうが」
「そんなの、知りません」
「お前ね、さんっざん俺の記憶力を笑っといて、そりゃないんじゃない?」
「うるっさいですね、ニシヤマさんには関係ありませんっ」
「はぁ~? この恩知らずめ、これまでどんだけ手伝ってやったと――」
「手伝ってくれたのはアーチャンさんですっ」
「むぅ……それは否定できない――てゆうか、さっきもそんな話したような」
「アーチャンさんだって迷惑な人を殴ったって話だったじゃないですか。モツナントカって人を殴って、自分がどう思われてるかわからせたんですよね?」
「ええ? いやでも、それはあくまで一例であって、いつでも暴力で物事を解決できるとは……」
「……勝手なんです、お母さまは……! なんにも考えてくれません。私たちのことなんて、なんにも……!」
 シルシュが、食いしばった歯の奥でうなる。
「だからっ、思い知らせてやるんですよっ……! ニシヤマさんにはわからないんです、私たちがどんなに、ずっと、どんな気持ちで……」
「……そりゃわからんけど」
「ニシヤマさんだって騙されていたんですよ! わかってます? 家族でもなんでもないのに西山さんのおうちに入り込んでいたんです! 突然転がり込んだ私にも、とっても良くしてくれて、あんなやさしい人たちを、自分勝手な都合で騙してたんですよ! 許せないと思わないんですか!?」
「そう言われても、あんまりぴんと来ないんだよなぁ……」
「だったら――」
 見開いた目は、やはりぎらぎらとしていて、深い穴のような暗さが青い虹彩を覆い隠している。
 ちらりと紗莉を見る。不安げな表情。俺を案じている。
 魔女への恨みってのは相当なもののようだ。長い間、何人もの腹の底に積もり積もったものらしいし、今さら水に流そうっていうのも難しいんだろう。いっそ晴らさせてやるほうが道理に適ってるんじゃないかとさえ思う。
 どうしても魔女を叩きのめしたいってんなら、止めるべきじゃないのかもしれない。たとえその相手が紗莉だとしても。
 だから、もしもシルシュ本人がそうしたいのなら。
 目をつぶって見ないふりでもするのが、俺にできるせめてものことなのかもしれない。
 でもそうじゃないし。
 シルシュがしたいんじゃないし。
「これ以上邪魔するなら、ニシヤマさん、私、本気出しますよ! はなしてください、でないと――」
「でぇぇぇりゃぁああいっっっ!!!」
「え」
 とにかく、力いっぱいやってやろうと思った。
 古今東西、頭を冷やすには、やっぱり水をぶっかけるのが一番。幸いここは砂浜、海辺。水はざぶざぶとあふれんばかりにある。
 それに、海をこわがっている様子だった。より深い反省が見込めそう。昼間遊んで、多少は慣れたかもしれないが、ちょっとパチャパチャした程度のこと。顔を水面につけてすらいないんだし。
 強引に、頭から海につっこんでやろうと思った。ただ、浜辺ではあっても、波打ち際までは離れていて、かなり難儀しそうである。気合を入れて、力任せに腕を振り回した、その結果が――
「え、わ、うわわっ……!」
 空中で、シルシュが手足をばたばたさせている。
 いや~、飛んだなぁ。飛んだ。まさかあんなに軽々と飛んでいくとは。瞬間的に身体強化の度合いが増したんですかね、知らんけど。
 まず波打ち際に、光ったままの杖がぽちょりと落ちた。いきなり投げ飛ばされて動揺したのか、自力で飛ぶことはできなかったようだ。光源を手放して、シルシュの身体は夜闇にまぎれてしまったが、ワンテンポ遅れて水音が立って、だいたいどのへんに落ちたか当たりがついた。波打ち際から二十~三十メートルといったところだろうか。深くなってくる辺りだから海底にぶつかったりはしてないと思うけど、子供の背丈では足が届かないはず。
「孝平、あの子溺れてる!」
 すぐに、バシャバシャと慌ただしく海面を叩く音が響き始めた。泳げないのは想像していたとおりだが、魔法でどうにかすることもできないらしい。
 よし、では颯爽と助けに行きますか。運動全般苦手だが、まがりなりにも海辺の町で育ったのだから、泳ぐくらいはできる。ただ、とんでもなく遅いだけで。
 しかぁし、今は違う。俺は新たな力に目覚めたニュー西山なのだ。少女一人助けて戻るくらいお茶の子さいさい。秒で済みますよ、秒で。
 というわけで余裕しゃくしゃくで海に飛び込んだのだったが、どうにもおかしい。トビウオのようにぎゅんぎゅん泳げるものと思いきや、いつもの水牛並の速度。いや、それは水牛に失礼か。鈍牛。着衣であることを差し引いても、鈍として進まない。俺の真の力、もう売り切れッスかね。
 結局、後ろにいたはずの紗莉からだいぶ遅れてシルシュのところへたどり着いた。パニックを起こして暴れるせいで四苦八苦していた紗莉を補助する格好で、どうにかこうにか浜まで泳ぎ着く。イメージしていたスマートな救助シーンと全然違うし、めちゃくちゃしんどかったし。
 精根尽き果てて、半ば波に打たれながら、仰向けに転がって乱暴に呼吸する。紗莉も、まあだいたい似たような状態。その紗莉にしがみついて、シルシュが苦しげに固く目を閉じ、激しく咳き込んでいる。
 しばらくの間、荒い息遣いと波の音だけがあった。
 シルシュは、紗莉から離れようとしなかった。胸に顔を押しつけて、細い肩を震わせる。
 紗莉が、濡れた頭を撫でる。
「平気だよ、もうこわくないよ」
 震えが止むまで、繰り返し繰り返し、撫でる。
 俺は思った。この絵面、額縁に入れてあーちゃんの部屋に飾ったらいい。



 紗莉は、自分がどうしてこの場所にいるのかわからないのだという。
 わからないまま、ずっと過ごしてきた。自分の来歴について、何ひとつとして知ることができなかった。そのことで不自由も不都合もなかったが、いつも漠然とした不安が渦を巻いていて、心が晴れるということがなかった。
 弟の面倒を見ていると安心できた。自分に求められたことだからだろう。『お姉ちゃん』であることが、たったひとつの寄る辺だった。
 弟が大きくなって、何にでも手助けするわけにもいかなくなると、不安を紛らわせる手段がなくなってしまった。しかたがないので、勉強に打ち込んだ。良い『お姉ちゃん』であることは、弟に良い影響があるはずだと自分に言い聞かせて。本心では、そんな間接的なやり方はもの足りなかった。
 ただ、勉強は勉強で、決して悪いものではなかった。この世界のことを知るのは楽しかった。自分がその中に含まれていることを確認できる気がした。
 いや、もしかしたら、むしろ逆のことを感じていたのかもしれない。自分も、自分以外の誰も、世界に含まれてなんていないのではないか。
 ただ人間の身体が世界の一部だというだけで、世界は個々の人格や人生にまったく関心がない。何が起ころうと知らんぷりして口笛を吹いているような態度が、世界というやつの立ち位置なのだ。
 そんな考えにも思い至って、ふと、足元が気にならなくなった。最初から、誰の足元にも確かな地面なんてない。みんなおそるおそる地面を踏みならして、手探りで歩いている。自分だけが特別な不安に苛まれているわけではないのだ。
 だったら、少しくらい試してみたほうがいいのではないか。『お姉ちゃん』であることに頼るだけが、自分なのではないことを。
「ちょっ、ちょっと待ってください。それは何の……誰の話ですか?」
「私の話」
「…………」
 こともなげに答える紗莉に、シルシュは困惑するばかり。
 風が海に向かって吹いている。ほどよく冷めた砂の上で、三角形に向かい合って座り込んでいた。なかなか大変な目に遭ったが、服も乾かしてもうすっかり落ち着いている。家では大人たちが気を揉んでいるだろうが、釈然としないまま帰るわけにもいかない。
 人が来たら面倒なので、明かりはない。月も、今は見当たらなかった。暗がりの中で、紗莉の口が動くのをじっと見守る。
 紗莉の記憶は、この世界のものしかないという。
 シルシュが言うような異世界のことについて、何も思い当たるところがない。自分の出自が判然としないことから漠然と空想することはあっても、現実感のあるものとして考えたことは一度もなかったらしい。
「どういうことでしょう……記憶喪失?」
「そうじゃなくて、魔女ってのが違うんじゃねえの?」
「でも孝平、私、魔女なんだと思う」
「思う、って……なんで? 自分のことわからないんだろ?」
「それはねぇ、私が孝平の『お姉ちゃん』だから」
「お願い、わかるように話して」
 ぜひ、とシルシュからもリクエストがあり、紗莉は話し始める。妙にうれしそうなのはなんで?
 紗莉の記憶は、俺との出会いから始まるらしい。それ以前の状況は一切わからないが、とにかく目の前に俺がいた。まだ子供の俺だ。
 そして、その子供の姉になるよう言われた。
「え、誰に?」
「さあ?」
「えぇ……」
「ぼうっとしてたから、こまかいことは気にならなかったの」
 紗莉は、言われるままに受け入れた。特に疑問に思うこともなかった。当たり前のことだとしか感じなかった。
 重ねて、こう言われた。魔女は人の願いを叶えるものだから、そうしないといけないのだ、と。
 そんなことは言われるまでもないと感じたが、よくよく考えればなぜそう感じるのかわからない。だから、一応そういう理由があるのだと納得する助けにはなった。
 言われたとおり、紗莉は西山家の長女に収まった。周囲の人々の記憶を操作して、初めからそうだったかのようにふるまった。どうすればいいかはあらかじめ知っていた。願いを叶えなくてはいけなくて、そのための方法を知っている自分は魔女なのだと思った。
 偽って家族のフリをしているのだから、当然、自分の正体は明かせない。あとになって、魔女なんてものがフィクションでしか存在しないことを知った。そのことは自分の胸の内に閉じ込めておくことにした。
 そうして何食わぬ顔で暮らし、自分でも半ば忘れかけていた今頃になって、シルシュが現れた。子供の頃の自分そっくりの顔で、魔女を連れ戻しに来たのだという。無関係とは到底思えなかったが、名乗り出るなんてできなかった。そんなもの、受け入れられるはずがなかった。
「……それってさ、単に自分のことを魔女って思い込んでるだけなのでは?」
 ズバッっと指摘してやった。そのまま人差し指をシルシュへ。どうだ、と挑戦的に顎をしゃくってみせると、シルシュはうっとうしそうに顔をしかめた。
「そうなんでしょうね。どうりで、なんだかおかしいなあと」
「嘘つけ。完全に見境なくなってたぞ」
「う。だって、頭の中ごちゃごちゃで、なんにも考えられなかったんですもん」
 三角座りした膝に額を押しつけ、バツが悪そうにごにょごにょと言い訳する。
「そうなのかもだけど、じゃあなんで私、魔法なんてできるの?」
「えっ、さあ?」
 紗莉の疑問には素早くお手上げポーズ。わからんもんはわからん。
 ところが、シルシュには心当たりがあるらしかった。ためらいがちに紗莉を見つめる。
「それは……きっとサリさんがホムンクルスだからじゃないでしょうか。私と同じように、お師匠につくられたんだと思います」
「ホムン……なに?」
「ナマモノの人型ロボのことらしい。あーちゃんが言ってた」
「へえ……ナマモノ……」
 紗莉は無感情に繰り返す。あんまりショックを受けたふうではないが、内心が見えづらいので、突然泣き出したり大声出したりしないかと、つい反応をうかがってしまう。
「あらかじめいろんなことを教えられているんです。私も、何も教わらなくても魔法が使えました。それから、生活するうえで必要な知識とかも」
 そのとおりだとするなら、紗莉とシルシュは姉妹ってことになるのか。横着して同じようにつくられているらしいし、年の離れた双子と表現するのがより正確なのかもしれない。魔女がらみらしく現実離れした話だが、二人が似ていることの何にも勝る説明になる。少なくとも、紗莉と俺が血を分けた姉弟だという事実よりは信憑性があろう。
「サリさんに、ニシヤマさんのお姉ちゃんになるよう言ったのが、お師匠だと思うんです。いえ、そうに違いないでしょうね。ただ、どういうつもりでそんなことを言いつけたのかさっぱりですけど……」
「魔女だから、人の願いを叶えなくちゃいけないんだろ?」
 それにしたって、右も左もおぼつかないホムンクルスに押しつけるなんて無茶ぶりが過ぎる。しかも何の説明も、アフターフォローもなし。紗莉もまた、非道な魔女の被害者といえるだろう。
「ニシヤマさん、お姉ちゃんがほしい、ってお師匠にお願いしたんですか?」
「……いや、わからんけど。おぼえてないし。ってゆうか俺は、魔女に会ったときの記憶を消されてるんだよ」
「そのときの記憶は消されたんだとしても、前々からそういう願望があったってことじゃないんですか?」
「それは、そうかもしれないけど……おぼえてない」
 ほらぁ、とシルシュが勝ち誇って顎を上げる。お前、俺の記憶力がポンコツだとなんでそんなにうれしいの?
「あのね」
 と、無益にいがみ合う俺たちに、紗莉が割って入る。
「孝平は、身体が丈夫になりたいってお願いしたんだと思う。『あれ』を持たされてたから」
「『あれ』って……ひょっとして〈蛇口〉?」
「蛇口っていうの? なんか力が湧いてくる不思議なやつ。大事に持ってるように言われてたみたい。あとになって、あれのおかげで魔法が使えるんだってわかったけど」
「ってことは、俺が虚弱体質じゃなくなったのは魔女の魔法のおかげだったのか。どうりで、今となっては風邪だってめったに引かないのはそういうわけだったか」
 合点がいって、ぽんと打った俺の膝を、シルシュが出し抜けにばちんと叩く。痛い。なんだよ、蚊でもいた?
「何言ってるんですかニシヤマさん! そんなことより、そうだとするとニシヤマさんを囮にしてたっていう一連の話が、全部見当違いだったってことになりますよっ」
「そんなこと……」
 軽く落ち込むが、今、俺の健康情報の重要度が低いのは確か。でも、囮だなんだって話も、今となってはそんなに問題じゃなくない? 〈蛇口〉さえ押さえてしまえばすべて解決、ってあーちゃんも言ってたし。実際、誘い出し作戦はそのまま継続できる……けど、ああ、そうか。シルシュが〈蛇口〉を持って行ってしまうと、俺の健康が損なわれるのか。だから紗莉は取り返そうとしてたわけで。
 えっと、じゃあ、どうすればいいんだろ。どうなればいいんだっけ? えっと、えっとぉ……魔女を〈蛇口〉で誘い出せるのは変わらないんだから、俺もシルシュと一緒に魔女を待ち伏せすればいいのか。でも、どれくらい待つことになるかわからないんだよな。最悪、いつまで待っても現れない可能性もある。そういうときには、シルシュには元の世界に帰れって言ってあったけど、〈蛇口〉は持っていってしまうのかな。できれば置いていってほしいけど、なければ帰れないっていうことになると無理強いはできないし……うぅ~ん、悩ましい。
「よし決めた! 今日はもう寝よう!」
 決然と宣言すると、シルシュの目蓋がうろんげに半分閉じた。
「どうしてそういう結論になったんですか?」
「俺には難しすぎる。あーちゃんに相談だ。あーちゃんならきっと的確な指示をくれる!」
「賛成ですけど……情けないとか、そういうこと思わないんですか、ニシヤマさんって」
 思わないね。思ったとしても、そんなのはあーちゃんに対する絶大な信頼の前では蜃気楼のようにかすむのさ。
「それでね」
 ぽそりと、紗莉が言葉を置く。
「もう一人、いたんだよ、あのとき。私が『お姉ちゃん』になったのは、その子のお願いなのかも」
「あっ」
 俺は思わず声を上げた。
 そう、そうだった。魔女と遭遇したとき、俺は一人じゃなかったはずなのだ。
 その夜、俺は不意に家から姿を消し、明け方近くになってひょっこり戻ってきたのだという。近所に住んでいて、ときどき遊びにきていた女の子と一緒に。
 当時の俺は身体が弱く、ほとんど外を出歩けなかった。状況的に、おそらく俺はその女の子に家から連れ出されたのだろう。
 藤野凛花に。
 俺たちは、二人で魔女に会った。
 そして藤野が、魔女に俺の姉を願い、それは叶えられた。
 そういうことだったのか――
 …………
 どうゆうこと? わけわからん。助けてあーちゃん!
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