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第十章:「外交の春」
・10-18 第164話:「小さな棘:2」
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・10-18 第164話:「小さな棘:2」
自分には、ルーシェがいてもらわなければ困る。
そのことは、はっきりと断言できた。
私生活においては、身の回りの一切を彼女に手伝ってもらっているし、そういった生活が身についてしまっているから、急にいなくなられたらいろいろと手間取るようになってしまうだろう。
好んで飲んでいるコーヒーについても、ルーシェ以上に淹れるのが上手な相手は身近にはいないし、飲めなくなると想像するとゾッとする。
それだけではない。
メイドの存在は、国家元首としてのエドゥアルドにとっても、大きく役立っている。
今回の会談についてもそうだが、貴族ではない視点からの柔軟な発想は、これまでに何度か重要な気づきを与えてくれた。
それがどれほどに価値があることなのか。
言葉でも、金額でも、とても言い表すことができない。
だが、やはり。
所詮(しょせん)は、一介の使用人に過ぎない。
ナッジャールから「欲しい」と申し入れをされた時に、せっかく修復された外交関係を損なう危険を冒(おか)してまで彼女を守ろうとした理由は、何なのか。
ルーシェを、ただの使用人以上の存在にしているものは、何か。
どうにもうまく、言葉に出てこない。
(僕は、なぜ……)
自分はきっと、同じ状況に置かれたとしても、きっと、今回と変わらない決断を下すだろう。
そういう確信がある。
それなのに。
その理由を説明することができない。
先ほど心の中に感じた棘(トゲ)の存在を、より強く感じる。
———おそらくはそれが、エドゥアルドにナッジャールの申し入れを拒否させたものの、正体だ。
だが、それが何なのかが、分からない。
「エドゥアルドさま……? 」
口を開きかけたまま固まってしまっている少年のことを、少女の不安そうな瞳が見上げて来る。
なぜ、黙っているのか。
本当はきちんとした理由などなくて、今回はたまたま、売られずに済んでしまっただけなのか。
次に同じようなことがあったら、自分は、どうなってしまうのか……。
心細そうな表情。
(そんな顔を、して欲しくない)
直感的にそう思うが、やはり、どうしてそんな気持ちになるのかは、明確な答えが導き出せなかった。
なんというのか。
エドゥアルドの中には、確かに、揺らぐことの無い決心がある。
たとえどんな状況になろうと、この少女が自ら望まない限りは、自分の元から手放そうという気持ちにはならない。
ずっとずっと、側にいて欲しいと思う。
これまでそうであったのと同じように。
ただ、そう感じる理由が、言葉にできない。
うまくそれを定義する言葉を、少年はまだ知らなかった。
「うまく、言葉にはできないんだ。ルーシェ」
このままずっと、心細い思いをさせておくのはかわいそうだ。
だからエドゥアルドは、今の正直な気持ちを、あやふやでうまく表現できない、葛藤(かっとう)している内心のそのままを、伝える。
うまく分かってもらえるかどうか。
それでも、言葉にする。
うまく伝わると、彼女なら理解してくれるのではないかと、そう期待しながら。
「ルーシェは、いつも本当に、頑張ってくれている。
僕の身の回りのことも、いてくれなければおぼつかなくなるし、料理もどんどん美味しくなるし、コーヒーを淹れるのも上手だ。
それに、僕が分からないことを、ルーシェは知っているし、気づいてくれる」
「私が、で、ございますか? 」
「そう。
僕は貴族だ。
生まれながらに義務を背負って生きて来たし、そのための英才教育を受けて来た」
「でも、私は、そんな勉強など、したことはございませんよ?
それでも、私が知っていて、エドゥアルドさまが知らないことがあるのですか? 」
「あるよ、ある。
絶対に、ある。
今回の会談だって、そうだったじゃないか。
それに、僕は、僕の統治を受けている人々の心情は、分からない。
飢えや寒さに苦しむ人々の本当の気持ちは、分からない。
だけど、ルーシェ。
ルーシェが、みんな教えてくれる。
だから、側にいて欲しいんだ」
不器用で粗削りではあったが、それだけに真っ直ぐな言葉だった。
だから、うまく伝わったのだろう。
少女の表情からは不安は消え、———代わりに、なぜか、若干不服そうな気配が浮かんでいる。
「それだけ、で、ございますか? 」
「えっと……。それだけ、って、いうのは? 」
「私は、メイドとしてはもちろんですが、ヴィルヘルムさまのようにエドゥアルドさまにお仕えすれば良いのでしょうか。
ただ、お仕えするためだけに、お側にいればよろしいのでしょうか? 」
その問いかけに、少年の頭脳はフル回転を始める。
(なんだ? どういうことなんだ!? )
ルーシェは不安を振り払うことができた様子だったが、何か、物足りないというか、もっと別の言葉を欲しがっているように見える。
だが、いったい何を?
必死に考えてみたが、結局、正解らしきものは皆目、見当もつかなかった。
そして、シンキングタイムはもうお終いです、時間切れです、と言わんばかりのタイミングで、壁掛け時計が夜十一時の鐘を鳴らす。
「えっと、その……。
出過ぎたことを言ってしまって、申し明けありませんでした」
まるでそれを合図としたかのように、ルーシェはすっとエドゥアルドの腕の中から離れ、気恥ずかしさと、物足りなさの入り混じった上目遣いでこちらを見つめる。
「あの。もうお着替えも終わりましたし、他にご用がないようでしたら、これで、下がらせていただきたいのですが」
「あ……、ああ、うん。
だ、大丈夫、だと、思う……、よ?」
ついに、自身の胸の内に突き刺さった棘(トゲ)の正体にも、少女がなにを思っていたのかも分からず、呆然としてしまっていた少年が曖昧(あいまい)にうなずくと、彼女は「失礼いたします」と一礼をして、そそくさと去って行ってしまう。
部屋を出ない間は、メイドとしての態度を守って静かに。
だが部屋を出ると、扉が閉まりきらないうちにぱたぱたと廊下を駆けて行く足音が聞こえた。
よくわからないが、全力疾走せずにはいられなかったらしい。
「……僕は、どうすれば良かったのだろう? 」
ぽつん、と取り残されたエドゥアルドはそう呟いたが、その答えを教えてくれる者は、残念ながらそこにはいなかった。
自分には、ルーシェがいてもらわなければ困る。
そのことは、はっきりと断言できた。
私生活においては、身の回りの一切を彼女に手伝ってもらっているし、そういった生活が身についてしまっているから、急にいなくなられたらいろいろと手間取るようになってしまうだろう。
好んで飲んでいるコーヒーについても、ルーシェ以上に淹れるのが上手な相手は身近にはいないし、飲めなくなると想像するとゾッとする。
それだけではない。
メイドの存在は、国家元首としてのエドゥアルドにとっても、大きく役立っている。
今回の会談についてもそうだが、貴族ではない視点からの柔軟な発想は、これまでに何度か重要な気づきを与えてくれた。
それがどれほどに価値があることなのか。
言葉でも、金額でも、とても言い表すことができない。
だが、やはり。
所詮(しょせん)は、一介の使用人に過ぎない。
ナッジャールから「欲しい」と申し入れをされた時に、せっかく修復された外交関係を損なう危険を冒(おか)してまで彼女を守ろうとした理由は、何なのか。
ルーシェを、ただの使用人以上の存在にしているものは、何か。
どうにもうまく、言葉に出てこない。
(僕は、なぜ……)
自分はきっと、同じ状況に置かれたとしても、きっと、今回と変わらない決断を下すだろう。
そういう確信がある。
それなのに。
その理由を説明することができない。
先ほど心の中に感じた棘(トゲ)の存在を、より強く感じる。
———おそらくはそれが、エドゥアルドにナッジャールの申し入れを拒否させたものの、正体だ。
だが、それが何なのかが、分からない。
「エドゥアルドさま……? 」
口を開きかけたまま固まってしまっている少年のことを、少女の不安そうな瞳が見上げて来る。
なぜ、黙っているのか。
本当はきちんとした理由などなくて、今回はたまたま、売られずに済んでしまっただけなのか。
次に同じようなことがあったら、自分は、どうなってしまうのか……。
心細そうな表情。
(そんな顔を、して欲しくない)
直感的にそう思うが、やはり、どうしてそんな気持ちになるのかは、明確な答えが導き出せなかった。
なんというのか。
エドゥアルドの中には、確かに、揺らぐことの無い決心がある。
たとえどんな状況になろうと、この少女が自ら望まない限りは、自分の元から手放そうという気持ちにはならない。
ずっとずっと、側にいて欲しいと思う。
これまでそうであったのと同じように。
ただ、そう感じる理由が、言葉にできない。
うまくそれを定義する言葉を、少年はまだ知らなかった。
「うまく、言葉にはできないんだ。ルーシェ」
このままずっと、心細い思いをさせておくのはかわいそうだ。
だからエドゥアルドは、今の正直な気持ちを、あやふやでうまく表現できない、葛藤(かっとう)している内心のそのままを、伝える。
うまく分かってもらえるかどうか。
それでも、言葉にする。
うまく伝わると、彼女なら理解してくれるのではないかと、そう期待しながら。
「ルーシェは、いつも本当に、頑張ってくれている。
僕の身の回りのことも、いてくれなければおぼつかなくなるし、料理もどんどん美味しくなるし、コーヒーを淹れるのも上手だ。
それに、僕が分からないことを、ルーシェは知っているし、気づいてくれる」
「私が、で、ございますか? 」
「そう。
僕は貴族だ。
生まれながらに義務を背負って生きて来たし、そのための英才教育を受けて来た」
「でも、私は、そんな勉強など、したことはございませんよ?
それでも、私が知っていて、エドゥアルドさまが知らないことがあるのですか? 」
「あるよ、ある。
絶対に、ある。
今回の会談だって、そうだったじゃないか。
それに、僕は、僕の統治を受けている人々の心情は、分からない。
飢えや寒さに苦しむ人々の本当の気持ちは、分からない。
だけど、ルーシェ。
ルーシェが、みんな教えてくれる。
だから、側にいて欲しいんだ」
不器用で粗削りではあったが、それだけに真っ直ぐな言葉だった。
だから、うまく伝わったのだろう。
少女の表情からは不安は消え、———代わりに、なぜか、若干不服そうな気配が浮かんでいる。
「それだけ、で、ございますか? 」
「えっと……。それだけ、って、いうのは? 」
「私は、メイドとしてはもちろんですが、ヴィルヘルムさまのようにエドゥアルドさまにお仕えすれば良いのでしょうか。
ただ、お仕えするためだけに、お側にいればよろしいのでしょうか? 」
その問いかけに、少年の頭脳はフル回転を始める。
(なんだ? どういうことなんだ!? )
ルーシェは不安を振り払うことができた様子だったが、何か、物足りないというか、もっと別の言葉を欲しがっているように見える。
だが、いったい何を?
必死に考えてみたが、結局、正解らしきものは皆目、見当もつかなかった。
そして、シンキングタイムはもうお終いです、時間切れです、と言わんばかりのタイミングで、壁掛け時計が夜十一時の鐘を鳴らす。
「えっと、その……。
出過ぎたことを言ってしまって、申し明けありませんでした」
まるでそれを合図としたかのように、ルーシェはすっとエドゥアルドの腕の中から離れ、気恥ずかしさと、物足りなさの入り混じった上目遣いでこちらを見つめる。
「あの。もうお着替えも終わりましたし、他にご用がないようでしたら、これで、下がらせていただきたいのですが」
「あ……、ああ、うん。
だ、大丈夫、だと、思う……、よ?」
ついに、自身の胸の内に突き刺さった棘(トゲ)の正体にも、少女がなにを思っていたのかも分からず、呆然としてしまっていた少年が曖昧(あいまい)にうなずくと、彼女は「失礼いたします」と一礼をして、そそくさと去って行ってしまう。
部屋を出ない間は、メイドとしての態度を守って静かに。
だが部屋を出ると、扉が閉まりきらないうちにぱたぱたと廊下を駆けて行く足音が聞こえた。
よくわからないが、全力疾走せずにはいられなかったらしい。
「……僕は、どうすれば良かったのだろう? 」
ぽつん、と取り残されたエドゥアルドはそう呟いたが、その答えを教えてくれる者は、残念ながらそこにはいなかった。
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