104 / 232
第七章:「海」
・7-1 第103話:「奇妙な追撃戦」
しおりを挟む
・7-1 第103話:「奇妙な追撃戦」
アイゼンブルグの包囲を解いた共和国軍が、南へ向かった。
建国歴千百三十六年の六月二十五日になってもたらされたその知らせは、エドゥアルドたちにとって信じがたい報告であった。
なぜなら、そこには戦略的に重要な目標がなにも存在していないだけではなく、海に突き当たってしまって、完全に陸路での補給線を寸断されてしまう形になるからだ。
つまり、敵は自ら袋の中に飛び込んだネズミ、ということになってしまう。
———なんらかの欺瞞(ぎまん)なのではないか。
そう疑い、さらに偵察を増やしてより詳細な敵情を把握しようと努めてみるが、やはり共和国軍は南に向かっている、ということで間違いないらしい。
「敵軍は、どういうつもりなのだ? 」
代皇帝は相手の考えがまるで理解できず、思わずそう呟く形で周囲に問いかけていたが、それらしい答えを述べることができる者は誰一人としていなかった。
だが、なにはともあれ、するべきことをしなければならない。
まずは包囲を解かれたアイゼンブルグのヴェストヘルゼン公国軍と合流して同国の防衛態勢を立て直し、次いで、南へ向かった共和国軍を追撃しなければならない。
ヴェルナー公爵に率いられた公国軍は当初、三万を数えたが、現在は一万程度にまで減少してしまっていた。
時が経つにつれ、離散して連絡が取れなくなっていた部隊などが合流し、その数は一万五千程度にまで回復したが、今後の防衛を考えた時にはやはり不十分だ。
そこでエドゥアルドは、アントンが送り込んでくれた増援の部隊と合流するのを待たず、彼らにはそのままヴェルナー公爵の指揮下に入ってヴェストヘルゼン公国軍の防衛に当たるように命令を発して、共和国軍に対する追撃戦を開始した。
両軍の距離は、標準的な一日の行軍速度を十キロメートルとして計算して、三日分。
三十キロメートルほど離れている。
追撃戦、と言えば、普通は戦闘で勝利した側がより戦果を拡張するために行うものだった。
敗走で統制の乱れた敵を攻撃すれば各個撃破が行いやすいし、そうして徹底的に撃滅しておけば後々こちらに有利な状況を作ることができる。
しかし、エドゥアルドたちは積極的に攻撃を仕掛けることをしなかった。
できなかった、という方が正しい。
なぜなら、アイゼンブルグの戦いにおける勝者は、彼らの側ではなかったからだ。
運よく壊滅こそ免れることができたものの、もう一歩で惨敗をしているところだった。
そういった意識が、行動を制約している。
終始、戦場でこちらを手玉に取り続けた敵将の能力についても、警戒せざるを得ない。
しかも兵力では敵の方がやや多いくらいなのだ。
偵察の結果、敵は未だに四万以上の兵力を有しており、アイゼンブルグの戦いで与えた被害の大きさから逆算して四万五千程度を保っていると見積もられている。
これに対し、帝国軍側はあれから落伍兵がさらに合流してきたとはいえ、戦闘の損耗が大きく、四万程度にとどまってしまう。
兵力差はわずかと言える。
しかし敵の方が多い以上は、積極的な攻勢に転じるのは難しいことだった。
敵将が示した高い戦術能力をも勘案すれば、下手に手を出せば逆襲を受け、こちらが窮地(きゅうち)に陥りかねない。
それに共和国軍が向かっている先にあるのは帝国領の奥深くなどではなく、海だ。
ヘルデン大陸に存在するタウゼント帝国は、北はフリーレン海に面し、南はズュート海に接している。
ズュート海は、見方を変えれば巨大な湖と呼べるような存在だ。
海から見て北方にはヘルデン大陸があり、その南側には巨大な砂漠が広がるヴュステ大陸がある。
東側は陸地がつながっているため完全に塞がれていて行き止まりだったが、西側でフルゴル王国の南端にある海峡で大洋と繋がっており、一部が解放されていること、その巨大さ、そして塩水であることから、海、として扱われている。
古来より海上貿易の拠点として栄えてきた海だ。
三方を陸に囲まれていることから比較的波が静かで、造船技術・航海技術が未熟であった時代から沿岸航法を利用した船舶による海運が容易で、海に面して勃興した国家はその恩恵にあずかって来た。
タウゼント帝国も、その一つだ。
北のノルトハーフェンの港が主要な港湾として栄えてきたが、ズィンゲンガルテン公国のさらに南に存在するいくつかの領邦には港町が数多くあり、今でも交易が行われている。
南へ向かっている共和国軍は、そうした港湾に向かっているのではないか。
そうした言説が従軍している将校たちから提唱されたが、それならば進む方角は東南となるはずで、南へ真っ直ぐ向かうのは違うのではないか、との反論も出され、敵の意図はやはり判然としないままだ。
つまり彼らは、帝国にとって価値のある場所は目指していない。
真っ直ぐ南に向かうと本当にただ海があるだけで、重要な港湾もなにもなく、小さな漁村が点在しているだけなのだ。
そうした理由からこちら側としてはとりあえずのところは様子見をしよう、という具合になって、敢えて危険を冒すような積極的な攻勢を仕掛けることを控えている。
逆襲を受けるリスクを冒してまで攻めるメリットがないからだ。
エドゥアルドたちから見て数百キロメートルも向こうとなった北方に形成された主戦線で大規模な軍事行動を起こすために、代皇帝を南へ誘引しようとしているのではないか。
そういった懸念も示されたが、絶えず行き来させている連絡の将校の言葉によれば、今のところ敵には動く気配がないらしく、遠大な構想を持って二つの戦線を連動させるような作戦を行っているわけではない、と考えざるを得ない。
(本当に、敵は、なにを考えているのだ……? )
エドゥアルドは疑問を抱きながらも、答えを見出すことができず、この、戦闘の発生しない奇妙な追撃戦を遂行していく。
そうしてほどなくして、両軍はついに、ズュート海の水面が見える海岸線にまで到達していた。
アイゼンブルグの包囲を解いた共和国軍が、南へ向かった。
建国歴千百三十六年の六月二十五日になってもたらされたその知らせは、エドゥアルドたちにとって信じがたい報告であった。
なぜなら、そこには戦略的に重要な目標がなにも存在していないだけではなく、海に突き当たってしまって、完全に陸路での補給線を寸断されてしまう形になるからだ。
つまり、敵は自ら袋の中に飛び込んだネズミ、ということになってしまう。
———なんらかの欺瞞(ぎまん)なのではないか。
そう疑い、さらに偵察を増やしてより詳細な敵情を把握しようと努めてみるが、やはり共和国軍は南に向かっている、ということで間違いないらしい。
「敵軍は、どういうつもりなのだ? 」
代皇帝は相手の考えがまるで理解できず、思わずそう呟く形で周囲に問いかけていたが、それらしい答えを述べることができる者は誰一人としていなかった。
だが、なにはともあれ、するべきことをしなければならない。
まずは包囲を解かれたアイゼンブルグのヴェストヘルゼン公国軍と合流して同国の防衛態勢を立て直し、次いで、南へ向かった共和国軍を追撃しなければならない。
ヴェルナー公爵に率いられた公国軍は当初、三万を数えたが、現在は一万程度にまで減少してしまっていた。
時が経つにつれ、離散して連絡が取れなくなっていた部隊などが合流し、その数は一万五千程度にまで回復したが、今後の防衛を考えた時にはやはり不十分だ。
そこでエドゥアルドは、アントンが送り込んでくれた増援の部隊と合流するのを待たず、彼らにはそのままヴェルナー公爵の指揮下に入ってヴェストヘルゼン公国軍の防衛に当たるように命令を発して、共和国軍に対する追撃戦を開始した。
両軍の距離は、標準的な一日の行軍速度を十キロメートルとして計算して、三日分。
三十キロメートルほど離れている。
追撃戦、と言えば、普通は戦闘で勝利した側がより戦果を拡張するために行うものだった。
敗走で統制の乱れた敵を攻撃すれば各個撃破が行いやすいし、そうして徹底的に撃滅しておけば後々こちらに有利な状況を作ることができる。
しかし、エドゥアルドたちは積極的に攻撃を仕掛けることをしなかった。
できなかった、という方が正しい。
なぜなら、アイゼンブルグの戦いにおける勝者は、彼らの側ではなかったからだ。
運よく壊滅こそ免れることができたものの、もう一歩で惨敗をしているところだった。
そういった意識が、行動を制約している。
終始、戦場でこちらを手玉に取り続けた敵将の能力についても、警戒せざるを得ない。
しかも兵力では敵の方がやや多いくらいなのだ。
偵察の結果、敵は未だに四万以上の兵力を有しており、アイゼンブルグの戦いで与えた被害の大きさから逆算して四万五千程度を保っていると見積もられている。
これに対し、帝国軍側はあれから落伍兵がさらに合流してきたとはいえ、戦闘の損耗が大きく、四万程度にとどまってしまう。
兵力差はわずかと言える。
しかし敵の方が多い以上は、積極的な攻勢に転じるのは難しいことだった。
敵将が示した高い戦術能力をも勘案すれば、下手に手を出せば逆襲を受け、こちらが窮地(きゅうち)に陥りかねない。
それに共和国軍が向かっている先にあるのは帝国領の奥深くなどではなく、海だ。
ヘルデン大陸に存在するタウゼント帝国は、北はフリーレン海に面し、南はズュート海に接している。
ズュート海は、見方を変えれば巨大な湖と呼べるような存在だ。
海から見て北方にはヘルデン大陸があり、その南側には巨大な砂漠が広がるヴュステ大陸がある。
東側は陸地がつながっているため完全に塞がれていて行き止まりだったが、西側でフルゴル王国の南端にある海峡で大洋と繋がっており、一部が解放されていること、その巨大さ、そして塩水であることから、海、として扱われている。
古来より海上貿易の拠点として栄えてきた海だ。
三方を陸に囲まれていることから比較的波が静かで、造船技術・航海技術が未熟であった時代から沿岸航法を利用した船舶による海運が容易で、海に面して勃興した国家はその恩恵にあずかって来た。
タウゼント帝国も、その一つだ。
北のノルトハーフェンの港が主要な港湾として栄えてきたが、ズィンゲンガルテン公国のさらに南に存在するいくつかの領邦には港町が数多くあり、今でも交易が行われている。
南へ向かっている共和国軍は、そうした港湾に向かっているのではないか。
そうした言説が従軍している将校たちから提唱されたが、それならば進む方角は東南となるはずで、南へ真っ直ぐ向かうのは違うのではないか、との反論も出され、敵の意図はやはり判然としないままだ。
つまり彼らは、帝国にとって価値のある場所は目指していない。
真っ直ぐ南に向かうと本当にただ海があるだけで、重要な港湾もなにもなく、小さな漁村が点在しているだけなのだ。
そうした理由からこちら側としてはとりあえずのところは様子見をしよう、という具合になって、敢えて危険を冒すような積極的な攻勢を仕掛けることを控えている。
逆襲を受けるリスクを冒してまで攻めるメリットがないからだ。
エドゥアルドたちから見て数百キロメートルも向こうとなった北方に形成された主戦線で大規模な軍事行動を起こすために、代皇帝を南へ誘引しようとしているのではないか。
そういった懸念も示されたが、絶えず行き来させている連絡の将校の言葉によれば、今のところ敵には動く気配がないらしく、遠大な構想を持って二つの戦線を連動させるような作戦を行っているわけではない、と考えざるを得ない。
(本当に、敵は、なにを考えているのだ……? )
エドゥアルドは疑問を抱きながらも、答えを見出すことができず、この、戦闘の発生しない奇妙な追撃戦を遂行していく。
そうしてほどなくして、両軍はついに、ズュート海の水面が見える海岸線にまで到達していた。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【一話完結】断罪が予定されている卒業パーティーに欠席したら、みんな死んでしまいました
ツカノ
ファンタジー
とある国の王太子が、卒業パーティーの日に最愛のスワロー・アーチェリー男爵令嬢を虐げた婚約者のロビン・クック公爵令嬢を断罪し婚約破棄をしようとしたが、何故か公爵令嬢は現れない。これでは断罪どころか婚約破棄ができないと王太子が焦り始めた時、招かれざる客が現れる。そして、招かれざる客の登場により、彼らの運命は転がる石のように急転直下し、恐怖が始まったのだった。さて彼らの運命は、如何。
月が導く異世界道中
あずみ 圭
ファンタジー
月読尊とある女神の手によって癖のある異世界に送られた高校生、深澄真。
真は商売をしながら少しずつ世界を見聞していく。
彼の他に召喚された二人の勇者、竜や亜人、そしてヒューマンと魔族の戦争、次々に真は事件に関わっていく。
これはそんな真と、彼を慕う(基本人外の)者達の異世界道中物語。
漫遊編始めました。
外伝的何かとして「月が導く異世界道中extra」も投稿しています。

日本は異世界で平和に過ごしたいようです。
Koutan
ファンタジー
2020年、日本各地で震度5強の揺れを観測した。
これにより、日本は海外との一切の通信が取れなくなった。
その後、自衛隊機や、民間機の報告により、地球とは全く異なる世界に日本が転移したことが判明する。
そこで日本は資源の枯渇などを回避するために諸外国との交流を図ろうとするが...
この作品では自衛隊が主に活躍します。流血要素を含むため、苦手な方は、ブラウザバックをして他の方々の良い作品を見に行くんだ!
ちなみにご意見ご感想等でご指摘いただければ修正させていただく思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
"小説家になろう"にも掲載中。
"小説家になろう"に掲載している本文をそのまま掲載しております。

月が導く異世界道中extra
あずみ 圭
ファンタジー
月読尊とある女神の手によって癖のある異世界に送られた高校生、深澄真。
真は商売をしながら少しずつ世界を見聞していく。
彼の他に召喚された二人の勇者、竜や亜人、そしてヒューマンと魔族の戦争、次々に真は事件に関わっていく。
これはそんな真と、彼を慕う(基本人外の)者達の異世界道中物語。
こちらは月が導く異世界道中番外編になります。

日本帝国陸海軍 混成異世界根拠地隊
北鴨梨
ファンタジー
太平洋戦争も終盤に近付いた1944(昭和19)年末、日本海軍が特攻作戦のため終結させた南方の小規模な空母機動部隊、北方の輸送兼対潜掃討部隊、小笠原増援輸送部隊が突如として消失し、異世界へ転移した。米軍相手には苦戦続きの彼らが、航空戦力と火力、機動力を生かして他を圧倒し、図らずも異世界最強の軍隊となってしまい、その情勢に大きく関わって引っ掻き回すことになる。

巻き込まれた薬師の日常
白髭
ファンタジー
商人見習いの少年に憑依した薬師の研究・開発日誌です。自分の居場所を見つけたい、認められたい。その心が原動力となり、工夫を凝らしながら商品開発をしていきます。巻き込まれた薬師は、いつの間にか周りを巻き込み、人脈と産業の輪を広げていく。現在3章継続中です。【カクヨムでも掲載しています】レイティングは念の為です。

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる