【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。

文月ゆうり

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四、旦那さまはお仕事頑張る

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 カリカリと、無心に羽根ペンを書類の上で動かす龍王。
 執務室にある豪奢な机には、山のような書類。
 近くの机にも龍王自慢の有能なる側近たちが、書類の山に向き合っていた。
 龍王の横に立つ、龍王と同じ年である若き宰相が素早く記入された書類に目を通している。
 右目に掛けたモノクルをくいっと持ち上げ、銀髪を後ろに流している宰相は、横目で龍王を見た。
 カチコチというゼンマイ仕掛けの時計の音が響くなか、宰相は口を開く。

「陛下」
「嫌だ」

 宰相の落ち着きつつも鋭い声に、龍王は即座に反応した。
 宰相はため息をついた。

「陛下、この決済書の数字が違います。経理に再処理をさせますね」
「嫌だって言っただろっ!? 俺、サインしたから、修正時間掛かるじゃん!?」

 端正な顔が半泣きになり、情けない表情で龍王は抗議した。
 宰相は意に介さず、他に数枚の書類を取り出す。

「これらにも不備があります。再提出を各部署に要請してください」
「やだあっ、やだあっ」
「二十九歳の駄々は見苦しいですよ、陛下」
「うるせぇっ」

 喚く龍王に、側近たちが盛大に息を吐いた。

「ちょっと陛下ぁ。また、流し読みしたでしょ!」
「めっ! ですよ!」
「新婚だからって、気抜きすぎー!」

 やいのやいのと、野次が飛ぶ。

「うるさいですう! ちょっと失敗しただけですう!」
「そのちょっとで、関係各所の残業が決まりましたね」
「やだあ、うちの宰相の言葉が刃なんだけどっ!」
「いいぞ、宰相さま! もっと言ってやってください!」
「陛下なんか、粉砕したれっ!」
「え、俺の味方いないの?」

 呆然とする顔すら美しい龍王に、側近のひとりが舌打ちをした。
 敬う態度がない側近たちに、龍王がさめざめと泣き始める。

「酷いわ! 即位した頃はあんなにも優しかったのに!」
「そりゃ、六年もそばにいれば、こうなりますって」
「優しくされたいのなら、仕事手抜きしないでくださいよ」
「陛下はやれば出来る子なんですから」

 やれやれと肩を揺らした後、側近たちは再び書類と向き合った。
 しょんぼりと肩を落とした龍王は、羽根ペンを動かし始める。
 そんな様子を見ていた宰相は、不敬過ぎる側近たちの態度を咎めようともしない。
 むしろ感心すらしていた。
 龍王は生まれが特殊であり、成人するまで過ごした環境も独特であった為に、自由な気質も相まってじっとしていられないのである。
 書類作業との相性は最悪だ。
 なので、適度に息抜きが必要になる。
 宰相に噛みつき始めるのは、気分が落ちてきたという合図であった。
 側近たちは、それを見逃しはしない。
 気安い態度で鞭となる言葉を降らし、龍王自身が気づかずにいた緊張状態を緩和するのだ。
 ならば、飴は自分の役目だろう。

「陛下、護衛の騎士を何人か連れて行ってもよろしいですか?」
「なんで?」

 俯いたままの龍王に、宰相は淡々と話す。

「城下に評判のドーナッツ屋があるという情報を入手いたしました」
「そ、それは、誠か……?」

 甘味に弱い龍王が、すぐさま顔を上げた。
 ごくりと、喉を鳴らす。

「チョ、チョコレートは、あるのか?」
「チョコレートも、イチゴチョコレートも、バナナチョコレートあります」
「え、本当に?」

 目を輝かせる龍王に、宰相は重々しく頷いた。
 そして、懐に忍ばせていたドーナッツ屋のチラシを龍王の前に置く。
 なんで、懐に入れてんの? という突っ込みは誰もしない。

「うわー、うわー、美味そう!」
「民だけでなく、貴族の間でも評判とのこと」
「いいなー、これ、食べたいなあ」

 子供のようにはしゃぐ龍王に、宰相は真面目な表情を崩さずに口を開いた。

「これから、城下に視察に行きたいと」
「うんうん、行って来い! 護衛は四名連れて行けよ! 荷物持ちにもなるしさ!」
「かしこまりました」

 いそいそと何かの紙を机の引き出しから取り出した龍王は、素早く羽根ペンを動かす。
 そして、チラシにも何やら文字を書き込んだ後に、紙と一緒に宰相に渡した。

「それ、俺の私財庫の使用許可ね! たっくさん買って来いよ!」
「ありがとうございます」

 深々と礼をして、宰相は執務室の扉に向かう。
 そして部屋から出る前に、龍王や側近たちに声を掛けた。

「良い子で仕事してくださいね」
「はーい!」

 成人男性たちの元気な返事を聞き、宰相は出て行った。
 口もとに微かな笑みを浮かべて。
 龍王のチラシへの書き込みには、側近たちの分も買うようにとあり、そして可愛らしい動物の形をしたドーナッツの絵には花丸が描かれている。

「至宝さまの分ですね」

 龍王の至宝。
 神国の宰相として、彼女と謁見したのは一度きり。
 東国からの賓客として訪れた姫は、美姫と名高い母親に似たのか、可憐な女性だった。
 ああ、美しい姫だな、とは思いはした。
 だが、それだけだ。
 宰相には既に愛すべき妻子がいる。家族以外に心揺れることはない。
 しかし、龍王は違った。
 玉座から立ち上がり、体を震わせて、ただただ姫を、レティシアナ姫を見つめていた。
 あれは、恋に落ちた目だ。
 薄暗い感情は一切ない、輝くような純粋な好意。
 それがすぐさま、変化した様を宰相は見たのだ。
 純粋な恋から、眩いほどの愛情のこもった眼差しへと。
 龍王は見つけたのだ。
 唯一の至宝を。

「彼女を、春の宮へ」

 震える声は、突然芽ばえた強い感情への戸惑いだったのか。
 それは宰相にはわからない。
 龍王が告げた、春の宮。
 至宝を守る為に作られた場所。
 レティシアナ姫はすぐさまそこへと移られ、そして今も春の宮で暮らしている。
 龍治大陸に住む誰もが龍王の愛情には、その強さには及ばない。
 彼の愛は、枯れず、変わらず、純粋で、そして深い。
 不変の愛でもって、至宝を守る。
 宰相でさえ、妻が他の男と話す場面を見ると嫉妬することがある。
 だが、龍王にはそれがない。
 代々の龍王もそうだったのかは、わからない。
 先代龍王は至宝を見出だせなかった。比較できる対象も唯一無二の存在である龍王だからこそいないのだ。
 他に知らないからか、あんなに真っ直ぐにひとを愛する龍王を宰相は守りたいと思う。
 龍王は至宝を守るだろう。
 自身よりも優先して。
 だから、宰相は、側近たちは、龍王の代わりに龍王を守るのだ。
 龍王のお使い宰相と、周りから言われても。
 彼が幸せなら、良いのだ。
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