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ニ、かわいそうじゃない側妃
しおりを挟む帝国に入った時の記憶はあやふやだ。
ものすごい歓声を馬車のなかで聞いた記憶はあるが、驚きのあまり震えてしまったユリーシアは気を失ってしまった。
ユリーシアにとって大きな声と音は、怒りを向けられる合図だ。
恐怖に苛まれても仕方ないことだろう。
はっきりと覚えているのは、目を開けたら立派な部屋で寝ていたところからだった。
ふかふかした柔らかいベッドに、まわりには可愛い調度品と愛らしいぬいぐるみたち。
お姫さまの部屋に迷い込んでしまった。
ユリーシアはそう思った。
自身も血筋正しい姫君だというのに。
燭台もない、暗く狭い部屋しか知らないユリーシアにとって、夢のような部屋だ。
こんな綺麗な部屋に、自分なんかが居ていいわけがない。
怒られる前に出なくては。
震えながらベッドから降りると同時に、部屋の扉が開かれた。
入って来たのは綺麗なお仕着せ姿の女の人たち。
先頭に居る女性と目が合ってしまい、ユリーシアの震えは止まらなくなる。
「まあ、ユリーシアさま。起きてらしたのですね」
優しい声には聞き覚えがあったが、今までの生活で身に染み付いた恐れがユリーシアを突き動かす。
「ご、ごめん、なさい……」
「ユリーシアさま……?」
困惑する声に、ユリーシアは必死に言葉を紡ぐ。
「ベッドには、寝てしまったけど、ほ、他には、触ってません。わた、私は、何もしてません、だ、だから……」
その後に、頭を庇うように手を当て縮こまるユリーシアの姿に、女の人たちは息を呑む。
『叩かないで』と、ユリーシアは口にはしなかった。
口にはできないのだ。
誰かを虐げられるような人物に、そのようなことを言えば逆上されるのをユリーシアは知っているのだろう。
先頭に立っていた女の人――ディアは、ぐっと口を引き結び目を瞑り溢れそうな激情に堪えた。
そして、柔らかく綻ぶような表情を浮かべると、囁くような声を出す。
「ユリーシアさま。私です。ディア、でございますよ」
「ディ、ア、さん?」
ドレスからお仕着せに変わっていたが、女の人が帝国への旅路で常にそばに居たディアなのだとわかったユリーシアは、ゆっくりと体から力を抜いていく。
まだ十二歳なのに、表情が乏しいとは思っていた。
休憩時に、そばを通る騎士が近くの者を呼ぶ為に手を上げた時に、びくりと体を震わしたのに気づいていたというのに。
ディアは、自分を責めた。
この方は、けしてひとりにしてはならない方なのだと、厳しく自身に戒める。
「ユリーシアさま、ここは貴女の部屋でございます」
「わた、しの?」
目を丸くするユリーシアに、ディアは深く頷き返す。
笑みは絶やさない。
『あの子には、優しくしてほしい。愛情を注ぎ続けてもらいたい』
ディアの主君である皇帝ヴィザンドリーが何度も繰り返した言葉が、深く心を刺す。
ディアや後ろに控える侍女たちは、ユリーシアを愛することを最優先として選ばれた者たちである。
皆、家族を深く愛し、愛された者たちであり、同時に穏やかで他者を思いやれる人柄を重視されていた。
「さ、ユリーシアさま。今はお昼を少し過ぎたばかりです。体調はどうでしょうか?」
「えっと、あの、大丈夫、です」
ユリーシアの答えにディアは後ろに控える侍女たちに視線を送る。
心得ている彼女たちは、ユリーシアを驚かさないように静かに前に出た。
瞬いて視線を向けたユリーシアに、ディアはにこりと笑いかける。
「ご紹介しますね。彼女たちは、貴女のお世話をします侍女です」
すっとお辞儀をしたのは、ふわふわとした金色の髪が印象的な女の人だ。
「初めまして、ユリーシアさま。本日よりお仕えします、リズでございます」
「リズ、さん。私と同じ、色ね」
ユリーシアは恥ずかしそうに、もごもごと口を動かした。
リズはおっとりとはにかむ。
「ユリーシアさまと、お揃いですね。ふわふわとして可愛い髪、お気に入りなのです」
「うん、可愛い……」
「嬉しいですわ」
好意的な返しに、やはりユリーシアはびっくりしてしまう。
それから、もうひとりが進み出る。
赤茶の髪に、そばかすが魅力的な女の人だ。
「ユリーシアさま。私はシュゼです。よろしくお願いしますね」
リズよりも快活な雰囲気だ。
でも、琥珀色の目がとても綺麗で温かい。
「きらきら……」
思わず呟いてしまい、ユリーシアは慌てて口を閉じた。
ユイジット王国では自分が何か言う度に、皆に嘲笑われ、怒鳴られた。
だから、ユリーシアは自分の意見を言うのが苦手だ。
だけど、シュゼはきょとんと目を瞬かせただけだった。
不思議そうにしてはいるが、怒りや蔑みは感じられない。
「シュゼ。ユリーシアさまは、貴女の目がきらきらとして美しいと仰ったのですよ」
正確に意味を読み取ったディアがシュゼに告げると、彼女はたちまち顔を赤くした。
人は怒る時に、顔が赤くなる。
ユリーシアは一瞬体を強張らせたが、シュゼがふわあっと表情を和らげるのを見て驚いた。
「う、嬉しい、です。て、照れてしまいますね。ありがとうございます……!」
「シュゼは凄く喜んでいるのですよ」
「そ、そうなの?」
聞き返せばシュゼはにこやかに肯定をしてくれた。
「ユリーシアさまからの褒め言葉ですから、私たちには何よりもの宝物ですわ」
「う、うん」
「では、ユリーシアさま。体調がよろしいのであれば、湯殿に行きましょう。旅の疲れと埃を清められますよ」
「ゆどの?」
ユリーシアは不思議そうに呟いた。
ぼんやりとした表情を浮かべた意味を、ディアたちは直ぐに知ることになる。
脱衣所では素直に服を脱いだユリーシアだったが、湯殿への戸を開けた途端にディアに引っ付いた。
「ディア、さん。なに? あれ、なに?」
湯殿はあらかじめお湯を張り、温まっていた。
もわもわと湯気が立つ湯殿を、ユリーシアは怯えた目で見ていた。
「ユリーシアさま……」
ディアを始め、リズもシュゼも教育が行き届いた帝国貴族だ。
言葉の機微、場の雰囲気を読む力に長けている。
だから、気づいた。
ユリーシアが、温かな湯を知らない、と。
言葉に詰まるリズに代わり、シュゼがユリーシアに話しかける。
「ユリーシアさま、この白いものは湯気です。ここが温かいので出ているのです。ユリーシアさまも、温かいと感じますでしょう?」
「うん、ほかほかします」
「体を洗いましたら、お湯に浸かりましょう。とても気持ちいいですよ」
動揺から落ち着いたリズも、穏やかに続けた。
ユリーシアは二人を見てから、ディアが頷いたことにより安心したように息を吐いた。
湯殿に置かれた椅子にユリーシアは促され座った。
「お湯をお掛けしますね」
リズはゆっくりとユリーシアの体に湯を流した。
ユリーシアの白い体には、黒くなった痣がいくつもあったが言及しない。
ただただ、丁寧に洗うことに集中した。
温かい湯が気持ちいいのか、ユリーシアが小さく息をつく。
「体を洗うのに、温かい。水じゃないんだ……」
「……帝国では、体を清めるには湯を使いますわ」
「そうなんだ」
泡立てた石鹸で、リズとシュゼはユリーシアを清めていく。
あかぎれだらけの小さな手を見て、シュゼは悲しそうに目を伏せた後、ユリーシアの手を握る。
「部屋に戻りましたら、軟膏を用意しますね」
「手、綺麗になるかな」
「ええ。ユリーシアさまは指先まで形が良いですもの。美しい手になりますよ」
「そっか……」
ユリーシアは微かに笑みを浮かべた。
あかぎれのある手を気にしていたのかもしれない。
石鹸の泡を綺麗に流した後、ユリーシアは初めて湯に浸かった。
ゆっくりと足から入り、そっと体を沈める。
湯は熱くなく、冷たくもない。ちょうど良い温度だ。
体が温かくなり、ユリーシアは「はわあ」と思わず声が出てしまう。
「湯加減はいかがですか?」
「ゆかげ、きもち、いい」
「わかりました。私たちはそばにいますので、のぼせませんように気をつけますね」
「うんん」
体が解けてしまうような気持ちよさにユリーシアは、はわわあと意味のない声を上げてしまう。
未知の世界だ。
ずっと体を洗うのは水を使ってきた。
体を拭く布も、石鹸も、一生懸命侍女にお願いしないと手に入らなかった。
そして、ひとりで井戸から水を汲み、それで体を拭いてきた。
寒くて、辛かったけど。他にやり方を知らなかった。
でも、今は気持ちいい。
ユイジットの王宮では側妃になれば、もっと辛くなる、かわいそうと言われたが。
それは嘘だった。
ここは気持ちいいのだ。
「側妃、素晴らしい……」
しみじみと言うユリーシアに、皆は微笑む。
「ユリーシアさまは、帝国において幸せになるべき方。湯浴みが終わりましたら、お食事にしましょう」
「皇帝陛下は、貴女を大切に思っていますよ」
ユリーシアは目を瞬かせた。
そうか。こんなに気持ちいい思いができたのは、皇帝陛下のおかげなのだ。
「皇帝陛下に、お会いできる?」
ユリーシアの問いかけに、ディアが答える。
「明日、お会いできます。今日は旅の疲れを癒やすことに専念してほしいと」
「わかり、ました」
素直なユリーシアに、三人は優しい眼差しを向けた。
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