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2巻
2-3
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さすが、騎士である婚約者と兄のために作ってきたお弁当。肉が多い。野菜のみのサンドイッチは、イエナさん用かな?
「おお、うまそう!」
「ちょっと待った!」
目を輝かせてバスケットの中に手を伸ばしたガイの手を、私は掴み取った。
「なんだよミラ」
「手を洗ってない」
「つっても、どこで洗うんだ?」
そう言われてみれば、そうだ。日本の公園なら、そこらに飲用可能な水道が設置されているが、ここは上下水道のない異世界である。食堂でならフィンガーボールが用意されているけれど、屋外では水魔法を使うか、諦めるかの二択しかない。
「水の魔石ならありますよ」
ブルムさんがそう言って、幅広の腕輪にはまっている魔石を見せた。これがあれば風属性のブルムさんにも水魔法が使える。私は掴んでいたガイの手を離して、ポンと手を打ち鳴らした。
「ディーネ、来て!」
呼べば、空に四つの光。あれっと思う間もなく、高位精霊二人とおちび精霊二人が現れた。
「……ひょっとしてみんなで待ってたの?」
『お昼には呼んでくれるって、マスターが言ってたもの』
どうかした? とディーネが首を傾げるのを見て、私はなんでもないと返した。何となく、待てを言い渡されていた大型犬と小型犬が、今や遅しと飼い主の号令を待ち構えていたみたいに感じられて、おかしいやら微笑ましいやら。……ごほんごほん。
「ミラさん、ひょっとしてやってみたいんですか? 清浄なる水」
ブルムさんは浄化魔法の練習かと聞いてきた。でも答えは否だ。
「いえ、清浄なる水はまだ使えそうにないです」
実体のない水で浄化するのは難しいんだよね。水を出す事はできるんだけど。
「では湧水? しかしあれをするには器がないと。地面の上でなら、木々の水やりにもなりますが」
「湧水でもないですよ。それだと、全員が洗うのに必要な魔力が多すぎますから」
湧水は、出す水量イコール必要な魔力量だ。私は無駄に魔力値が高いけど、必要ないところでは無駄遣いしない主義だ。
「最終的には植木にあげようと思っていますが、水球を使います」
「攻撃魔法じゃん!」
ブルムさんの疑問に答えたら、ガイが怯えた。そんなガイに、イエナさんが声をかける。
「ガイ君、何かミラちゃんを怒らせるような事したの? 手を洗わないだけで、攻撃魔法を使ったりはしないでしょう?」
私、どんだけ理不尽な少女ですか。やんないですよそんな事。いくら怒ってたって、攻撃魔法を叩き込んだりしませんって。ガイが相手なら、ほっぺたみょーんの刑で十分です。もしくは枕投げ。コントロールとガイの反射神経によっては、空振りに終わるだろうけど。
「火球は打ち出さずに留めておく事ができるので、水球も同じ事が可能だと思うんですよ」
ピンと人差し指を立てて主張すると、ケビンさんが不思議そうな顔をした。
「攻撃魔法を詠唱しておいて、打ち出さないって状況は普通はないんだがな」
「ケビン。彼女は火球を改変するために、初めての火魔法の行使で、停止状態にした子だぞ」
「へー。って事は、あの収束魔法を考えたのってこの子か!」
「気づいてなかったのか!」
「開発者の名前なんぞ見ないからなっ」
ケビンさんとブルムさんの会話がボケとツッコミになりつつあるのを放置して、私は東屋の外に出て水球を作る事にした。
「ディーネ、水球を作製。停止」
使った魔力は最小限。攻撃に使うわけじゃないから、大人の両手に乗るくらいの水量でいい。
空中に差し出した手の平の上に、金青色の魔法陣が描かれる。中央には雫の紋。そのうえに水球が浮かんだ。
「ガイ。おいで、おいで」
ちょいちょいと手招いて、小走りに駆け寄ってきたガイに指示を出す。
「水球に手を突っ込んで洗って」
「……いきなりギュルンッて回転しだしたりしないだろうな?」
「しないしない」
てか、それって洗濯機みたいだね。今度ハンカチでも洗ってみようかな?
ガイのおかげで、新しい魔法のアイディアが浮かんだ。この世界の洗濯は洗濯板でこするか、たらいの中で足で踏んで洗う。魔力が必要になるけど、作業効率が上がればメイドさん達も楽になるよね。
問題はたらいを縦型に置くか、横型のドラム式に置くか。洗剤が少なくても汚れの落ちやすいのはドラム式だったっけ? でも横にしたら蓋は必須。となると縦型しかないか……
私が思考を巡らせている間に、ガイがおそるおそる水球を突いた。右手の人差し指を突っ込んで、クルリとかき回す。何も起こらないのを確認して、右手を全部。続いて左手も入れてこすり合わせた。
洗い終えた手を抜きだしたガイは、ピピッと手を振って水気を飛ばす。
「で、どうすんだ、この水球」
「ん、ちょっと離れようか」
私はガイの腕を引いて、水球から距離を取った。
「でもってこうする。ディーネ、形状維持を解除」
とたん、水球は魔力を纏わないただの水となって地面に落下する。ぱしゃんと跳ね上がった水が、さっきまで私達が立っていた石畳まで跳ねた。けど、退避済みなのでセーフ。
「この跳ね上がりもどうにかしたいよね」
「そこまではいいんじゃないか? 届かない距離にいればいいんだし」
ガイの言い分は確かにそうなんだけど、それはそれ。跳ね上がった泥で石畳を汚してしまったのも、申し訳ない。後で洗い流そう。
「でもやっぱり、最後までピシッと綺麗に決めたいし。地面すれすれまで下ろしてから解除すればいいかな。多少、必要魔力量が多くなるけど誤差の範囲内。むしろ降下で魔力を使い切って自然解除に持っていった方が、無駄がないかも……」
「ミラ、ミラ。今は魔法よりメシ!」
後半は完全な独り言となって思考に沈み始めた私を、ガイが呼び戻す。ぱちくりと目を瞬くと、ガイの向こうにいる大人達が苦笑していた。
「ミラちゃんは魔法を考えるのが好きなのね」
「しかもこだわり派」
「研究者としては良い資質ですが、寝食を忘れるほど夢中になってはいけませんよ?」
イエナさんが微笑ましげに言えば、ケビンさんが茶化すように言い、ブルムさんには諭される。
「気をつけます」
私は殊勝に頷いたが、ガイがそれをぶち壊した。
「大丈夫、そしたらオレが、また声をかけてやるから」
いやいや、自重するから。社会生活不適応者にはならないから。だから甘やかすな、幼馴染み。
「さて、じゃあ食うか」
「「「「大地の恵みに感謝を」」」」
全員が水球で手を洗い、改めて東屋のベンチに座る。そしてケビンさんの音頭でいただきますに該当する言葉を捧げ、私達はサンドイッチに手を伸ばした。
「あ、ディーネ達も食べる?」
無心になってコッコソテーのサンドイッチにがっつくガイの横で、私は卵とハムのサンドイッチを手に、ふと精霊達に声をかけた。
精霊達は人間の食べ物も食べられる。特に甘い物が好きなのか、お茶の時間に現れては、クッキーとかを喜んで食べていた。
ちっちゃい精霊達が身の丈サイズのクッキーを抱え込んで、ちまちま食べる姿は悶絶ものだ。精霊眼を持つ者だけが視られる光景。うふふ。役得役得。
ちなみに高位精霊になったグノーやルフィーもお菓子を食べるけど、何やら不満らしい。
『前は一枚でお腹いっぱいになれたのにっ……』
『こればかりは仕方ないよ。でももう少し成長すれば、ね?』
『そうですね。成長すれば!』
とかなんとか言ってたっけ。成長すれば、どうなるんだろう。高位精霊のさらに上のランクって……霞を食べる仙人のごとく、魔力だけでよくなるとか? いずれにせよ、おちびでも高位精霊でも、甘い物はエネルギーにするためというより、嗜好品みたいなものらしい。
あ、そういえば前世の漫画に甘い物が好物で、ちびバージョンと大人バージョンの姿を持ったキャラがいた気がする。あれは精霊だったかな? それとも封印された魔法使いだったっけ? なんか混ざってしまった。
でもそうだね、成長すれば好きな姿を選べるとかだったらいいな。だっておちび姿の再来が望めるじゃない。その日が来るのがちょっと楽しみになったかも。
私が小さくちぎったサンドイッチを差し出すと、ディーネは首を横に振った。
『ご飯なら、マスターの魔力がいいです』
ふむ。それもそうかと納得した私は、ちぎったサンドイッチを口に放り込んで咀嚼する。
ああ美味しい。パンに塗られた濃厚なバターの旨味。ハムの塩気。卵の甘み。それらを包み込むシャキシャキのレタス!
って、浸ってないで魔力魔力っと。私は空いた右手に魔力を集めた。
「じゃあこのくらい……あれ?」
魔力弾を作る要領で、手の平に魔力を集めようとしたのだけど、なぜか思っていたのより大きなものができた。作ろうとしたのは私のこぶし大のサイズ。なのに、子供の頭ほどの大きさになってしまった。
勢いよく魔力を流しすぎた?
規模とか色々考えなきゃいけない水球なら制御を失敗する事もありえるけど……だけど実際、思っていたサイズと違う魔力玉が目の前にあるんだから、簡単なはずの魔力移動を失敗したって事だ。
『ありがとう、マスター』
蜜色の魔力玉を手にしたまま思考に沈んだ私に、グノーがお礼を言ってそれを取り、東屋を出た。彼の後をルフィーが追う。ディーネとサラはルフィーの肩に乗っていた。
グノーは魔力玉を二つに割って、片方をルフィーに手渡す。サラがグノーの肩に飛び移り、彼らは半分の魔力玉をさらに半分に分け合って、それぞれ口をつけた。
私は精霊達の食事となった魔力と、それを作りだした自分の右手を交互に見やり、グーパーと手を動かして首を傾げる。
「ミーラー、考え事は食べてからにしろよ」
「あ、うん」
ま、いっか。気のせいかもしれないし。
私は割とめんどくさがりだ。だから無意識に、小さな魔力玉を四つ作るのを手間に思って、一度に出した可能性もあるよね。
私は考えるのをやめて、サンドイッチにかじりついた。
第二話
昼食後はディーネとの約束通り、腹ごなしも兼ねて水遊びをする事になった。庭園から練兵場の管理施設裏に戻ってきた私達は、ただ今水玉合戦中。
「風爆イン水球!」
金緑色と金青色の光の輪が重なって、一つの魔法陣が描かれる。出現した水球がケビンさん達の頭上に達した瞬間、私は指をパチリと鳴らした。
「ブレイク!」
水球が破裂し、水が雨のように降り注ぐ。
「うお! 冷てー」
「きゃー、ミラちゃんてば容赦ない!」
「ミラさん、味方まで濡らしてどうするんですかっ」
「ごめんなさーい」
「あはははは、いいぞミラ! もっとやれ!」
対戦カードは私・ガイ・ブルムさんチームとケビンさん・イエナさんチームだ。
ルールは簡単。威力を最大限に弱めた水球を打ち合って、十分間に、より相手をずぶ濡れにした方が勝ち。
私がいるチームの方が圧倒的に有利だから、子供チーム対大人チームでもいいと言ったのだけど、それでは大人達の沽券にかかわる。しかし、イエナさんに攻撃なんてできないと言うケビンさんの主張を受け入れた結果、この組み合わせになった。
火属性のケビンさんは、迂闊に火魔法で水球を迎撃すると熱湯を被ってしまうから、防御は風の魔石。攻撃は水の魔石頼り。
イエナさんは風属性といえど、迎撃した水球の水を完全に吹き飛ばすほどの威力がある風球は作れない。だからケビンさんが迎撃を手伝ったりかばったりする。そして攻撃は水の魔石を使用。
防御力に欠けるチームだ。
一方私達はといえば、ガイは水の魔石を使って攻撃はできないので、走って逃げるだけ。でもとにかく素早い。当たらない。
ブルムさんは風魔法で水球を迎撃することもできるし、水の魔石で攻撃もできる。
私は走って逃げ回る体力はないけれど、膨大な魔力のおかげで水魔法も風魔法も打ち放題。しかもブルムさんの迎撃魔法を見て、二種の魔法を組み合わせる変則魔法を開発。防御も攻撃もばっちりです。おほほのほ。
「ブルム、お前覚悟を決めてずぶ濡れになれ!」
「断る!」
ま、主に攻撃の的になってるのはブルムさんとケビンさんだから、私は呑気に新技なんてものを試せるんだけど。
「てなわけで、次行ってみまーす。水球を……」
掲げた右手の前に、金青色の魔法陣が描かれる。今度は風魔法は仕込まない。その代わり……
「二連!」
「「はあ!?」」
敵であるケビンさんと、味方のブルムさんが異口同音に声を上げた。そこへ一瞬で二つに増えた魔法陣から、二つの水球が打ち出される。
「って、マジで二つかよ!」
「非常識なっ。それと何度も言いますが、私は味方です!」
ぼやきつつも、二人は即座に風球を放って迎撃する。
「すいませーん、細かい指定までしてませんでした。てかブルムさん、非常識と私を結びつけないでください。連続して呪文を唱えるのが面倒なのでやってみたんです。非常識ならケビンさんだけに攻撃指定してます!」
「「呪文の再詠唱を略せる時点で非常識だ!」」
息の合ったツッコミありがとう。でも受け入れ拒否です。
私は魔法陣をコピーして増やせたら楽だなって思っただけだもの。だって、一度にできる攻撃数が増えるでしょ?
魔法は魔法陣を描いた場所で発動する。なら、魔力をさっきの二倍にして、それを二つ描いた魔法陣にそれぞれ分けて送り込めば、同じ威力の水球が一度に二つ打てるんじゃない? なーんて好奇心でやってみたら、大・成・功! クスクス笑う私に、サラの声――概念通信が届いた。
『マスター! しゅーりょー!』
時計花を見ていてくれていたサラが十分経った事を告げる。でもサラの声を聞く事ができる人間は私だけだから、私は即座にサラの言葉を繰り返した。
「終了だそーでーす」
男達は顔を見合わせて息をつき、無言で湿った前髪を掻き上げた。いやー、水もしたたるいい男ですね。
「あー、楽しかった」
イエナさんが笑いながら水の入っている革袋を手に取る。だけど中身はお昼ご飯の時に飲み干していたから、コップに向かって逆さまにしても、一滴の水も出てこなかった。
「そういえば、水は飲みきってしまったんだったわね」
湧水の練習のチャンス到来。
「イエナさん、それ貸してくださいな」
「あら、ミラちゃんが水を出してくれるの?」
「はい」
私は手渡された革袋を下に置いて固定して、注ぎ口に手を翳した。
「湧水」
革袋に水が満たされる。
「ありがとう」
「いえいえ」
ではさっそくと、全員にコップを配って水を注ぐ。注ぐやいなや、ガイはぐいっと一気に水を飲み干した。
「ガイ、顔がずいぶん赤いけど、熱でも出てるんじゃない?」
晴天の下、ガイは人一倍走り回っていた。うちのチームで主に狙われたのはブルムさんだったけど、飛んでくる水球を、ガイは身体能力だけで避けていたから汗だくだ。
私はガイと自分の額に手を当てて比べてみる。熱中症になってたら大変だ。
「大丈夫」
ガイは頭を振って、私の手から逃げた。
「それより、ミラもいっぱい飲んどけよ」
「うん」
「はい、じゃあガイ君とミラちゃんはお代わりね」
空になったガイのコップに、イエナさんは再び水を注ぎ込んだ。続いて私にも注いでくれる。私はこぼさないように移動して、建物の影に座り込んだ。
「ふう。ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな?」
気温が高いから、湿っていた服があっという間に乾いていく。ブルムさんとケビンさんは、それでは追いつかないほど水びたしになっていたから、服を脱いで手で絞り、魔法で乾かし始めた。
乾いた服を着たブルムさんは、時計花を確認してケビンさんに声をかける。
「ケビン、そろそろ昼休憩も終わりだろう。練兵場に戻れ。私はミラさんの飛行魔法の訓練をしなければならないから残る」
「ん、そうだったな」
「私も帰るわ。ケビン、途中まで一緒に行きましょ」
「おう」
イエナさんが荷物を手にして、ケビンさんの隣に立つ。
「じゃあね、ミラちゃん、ガイ君」
「頑張れよ」
ケビンさんは私の頭をくしゃりとなでて、練兵場に向かって歩き出す。
ヒラヒラと手を振ったイエナさんは、ケビンさんと腕を組んで帰っていった。
二人を見送った私は、さっそく訓練を始める。
場所は練兵場施設裏。その裏口の階段の上で、私はごくり、と息を呑んだ。そしてゆっくりと足を踏み出す。
大丈夫、大丈夫。地面はすぐそこなんだし。
「なあミラ」
「ぴっ!」
突然声をかけられて、私は体をびくっと震わせた。あっぶなー。
「驚かさないでよ。落ちたらどうすんのよ」
階段下のガイをキッと睨めば、呆れた眼差しが返ってきた。
「それ、本当に飛ぶ訓練になるのか?」
それ、とは階段の下から五段目にして、手すりにしがみつきつつ片足で宙を探っているこの状態の事かしらん? ――まぁ、ちょっと情けない姿かもしれない。
私は両足を揃えて姿勢を正してから、ガイに言い返した。もちろん、手すりは離さずに。
「わからないけど、魔術師長様の提案だもの。ルフィーと合一して、階段からの飛び降りを繰り返すって。今日は、前回行き詰まった五段目から」
何を今さら。この方法をグリンガム魔術師長から提案された時、ガイも側にいたじゃない。
私の背中には今、真っ白な翼がある。
空を飛んでみたいという姫様の願いを叶えてあげたいけど、彼女だけを風で吹き飛ばすわけにはいかないから、ガイの時みたいに私が抱えて飛ぶしかない。だけど今の私は高所恐怖症。
高所からの急降下。遥か下をビュンビュン流れる地面。思い出すだけでも眩暈がする。気力だけで耐えたあの体験は、しっかりばっちりトラウマと化してしまった。
「飛行魔法の使い手が、高所恐怖症にスピード恐怖症って……」
誰のせいよ誰の。
そう言いたいけど、ガイのせいではないから言えやしない。高所恐怖症はベルーレ男爵家の双子のせいで、スピード恐怖症は前世からの体質。悪化の原因にはなったかもしれないけど。
「えーい、女は度胸!」
ていっと気合を入れた私は、目をつむって階段から飛び降りた。ふわりと感じる風。浮遊する感覚。背筋にぞっと震えが走る。
「あ、バカ!」
「ミラさん!」
風の制御を乱して体が傾く。ガイの焦った声と、少し離れた所で黙って見守ってくれていたブルムさんの声が重なった。
「……おもい」
「失礼な」
口を尖らせて、私はガイの上に乗った体を起こした。
「でもゴメン。助けてくれてありがとう」
ブルムさんが慌てて駆け寄ってくる。
「すいません、助けが間に合いませんでした」
「仕方ないですよ」
たった五段だから、落ちるのはあっという間だ。
ブルムさんは私の魔法が暴走状態に入ったら、私から風の支配権を奪わなければいけない。だからあえて、離れた所にいるのだ。私の近くにいたせいで、吹っ飛ばされて気絶しましたじゃすまないもんね。そこまで気に病む事じゃない。
私は下敷きになってくれたガイに手を貸して、体を引き起こした。すると、ガイの手がそのまま私の頬に伸びてくる。
「ケガしてねえか?」
「それは私の台詞だよ」
私は苦笑して、彼の手に自分の手を添えた。階段下で見学していたガイが、落ちた私をとっさに抱き止めてくれたのだ。支えきれずに潰れたけど。
「足、挫いたりしてない?」
「へーき。オレは頑丈だし」
照れたように笑うガイに、私も笑い返した。
「コホン」
ほのぼの空間に響いた咳払いに、私達は階段を振り仰ぐ。
「姫様と王子様! どうしてここに?」
私とガイは慌てて立ち上がった。ブルムさんは一歩下がり、臣下の礼を取る。そんな彼に王子様は片手を上げて、「楽にして」と言った。
王子様は姫様の手を取り、ゆったりと階段を下りる。うん。絵になる二人だ。
「姫様、空を飛べるのは、まだまだ先になりそうだよ」
ガイの報告に姫様は眉根を寄せて、気遣わしげな視線を私に向ける。
「ミラ、怖いのでしたら、無理をせずともいいんですのよ?」
「いえ。せっかく飛べたんですから、トラウマは克服したいと思います」
私は首を横に振った。必要に迫られた結果とはいえ、一度は飛べたんだから、やっぱりまた飛んでみたい。優雅に空を散歩したいじゃないか。ルフィーも嬉しそうに、訓練につき合ってくれているしね。
「おお、うまそう!」
「ちょっと待った!」
目を輝かせてバスケットの中に手を伸ばしたガイの手を、私は掴み取った。
「なんだよミラ」
「手を洗ってない」
「つっても、どこで洗うんだ?」
そう言われてみれば、そうだ。日本の公園なら、そこらに飲用可能な水道が設置されているが、ここは上下水道のない異世界である。食堂でならフィンガーボールが用意されているけれど、屋外では水魔法を使うか、諦めるかの二択しかない。
「水の魔石ならありますよ」
ブルムさんがそう言って、幅広の腕輪にはまっている魔石を見せた。これがあれば風属性のブルムさんにも水魔法が使える。私は掴んでいたガイの手を離して、ポンと手を打ち鳴らした。
「ディーネ、来て!」
呼べば、空に四つの光。あれっと思う間もなく、高位精霊二人とおちび精霊二人が現れた。
「……ひょっとしてみんなで待ってたの?」
『お昼には呼んでくれるって、マスターが言ってたもの』
どうかした? とディーネが首を傾げるのを見て、私はなんでもないと返した。何となく、待てを言い渡されていた大型犬と小型犬が、今や遅しと飼い主の号令を待ち構えていたみたいに感じられて、おかしいやら微笑ましいやら。……ごほんごほん。
「ミラさん、ひょっとしてやってみたいんですか? 清浄なる水」
ブルムさんは浄化魔法の練習かと聞いてきた。でも答えは否だ。
「いえ、清浄なる水はまだ使えそうにないです」
実体のない水で浄化するのは難しいんだよね。水を出す事はできるんだけど。
「では湧水? しかしあれをするには器がないと。地面の上でなら、木々の水やりにもなりますが」
「湧水でもないですよ。それだと、全員が洗うのに必要な魔力が多すぎますから」
湧水は、出す水量イコール必要な魔力量だ。私は無駄に魔力値が高いけど、必要ないところでは無駄遣いしない主義だ。
「最終的には植木にあげようと思っていますが、水球を使います」
「攻撃魔法じゃん!」
ブルムさんの疑問に答えたら、ガイが怯えた。そんなガイに、イエナさんが声をかける。
「ガイ君、何かミラちゃんを怒らせるような事したの? 手を洗わないだけで、攻撃魔法を使ったりはしないでしょう?」
私、どんだけ理不尽な少女ですか。やんないですよそんな事。いくら怒ってたって、攻撃魔法を叩き込んだりしませんって。ガイが相手なら、ほっぺたみょーんの刑で十分です。もしくは枕投げ。コントロールとガイの反射神経によっては、空振りに終わるだろうけど。
「火球は打ち出さずに留めておく事ができるので、水球も同じ事が可能だと思うんですよ」
ピンと人差し指を立てて主張すると、ケビンさんが不思議そうな顔をした。
「攻撃魔法を詠唱しておいて、打ち出さないって状況は普通はないんだがな」
「ケビン。彼女は火球を改変するために、初めての火魔法の行使で、停止状態にした子だぞ」
「へー。って事は、あの収束魔法を考えたのってこの子か!」
「気づいてなかったのか!」
「開発者の名前なんぞ見ないからなっ」
ケビンさんとブルムさんの会話がボケとツッコミになりつつあるのを放置して、私は東屋の外に出て水球を作る事にした。
「ディーネ、水球を作製。停止」
使った魔力は最小限。攻撃に使うわけじゃないから、大人の両手に乗るくらいの水量でいい。
空中に差し出した手の平の上に、金青色の魔法陣が描かれる。中央には雫の紋。そのうえに水球が浮かんだ。
「ガイ。おいで、おいで」
ちょいちょいと手招いて、小走りに駆け寄ってきたガイに指示を出す。
「水球に手を突っ込んで洗って」
「……いきなりギュルンッて回転しだしたりしないだろうな?」
「しないしない」
てか、それって洗濯機みたいだね。今度ハンカチでも洗ってみようかな?
ガイのおかげで、新しい魔法のアイディアが浮かんだ。この世界の洗濯は洗濯板でこするか、たらいの中で足で踏んで洗う。魔力が必要になるけど、作業効率が上がればメイドさん達も楽になるよね。
問題はたらいを縦型に置くか、横型のドラム式に置くか。洗剤が少なくても汚れの落ちやすいのはドラム式だったっけ? でも横にしたら蓋は必須。となると縦型しかないか……
私が思考を巡らせている間に、ガイがおそるおそる水球を突いた。右手の人差し指を突っ込んで、クルリとかき回す。何も起こらないのを確認して、右手を全部。続いて左手も入れてこすり合わせた。
洗い終えた手を抜きだしたガイは、ピピッと手を振って水気を飛ばす。
「で、どうすんだ、この水球」
「ん、ちょっと離れようか」
私はガイの腕を引いて、水球から距離を取った。
「でもってこうする。ディーネ、形状維持を解除」
とたん、水球は魔力を纏わないただの水となって地面に落下する。ぱしゃんと跳ね上がった水が、さっきまで私達が立っていた石畳まで跳ねた。けど、退避済みなのでセーフ。
「この跳ね上がりもどうにかしたいよね」
「そこまではいいんじゃないか? 届かない距離にいればいいんだし」
ガイの言い分は確かにそうなんだけど、それはそれ。跳ね上がった泥で石畳を汚してしまったのも、申し訳ない。後で洗い流そう。
「でもやっぱり、最後までピシッと綺麗に決めたいし。地面すれすれまで下ろしてから解除すればいいかな。多少、必要魔力量が多くなるけど誤差の範囲内。むしろ降下で魔力を使い切って自然解除に持っていった方が、無駄がないかも……」
「ミラ、ミラ。今は魔法よりメシ!」
後半は完全な独り言となって思考に沈み始めた私を、ガイが呼び戻す。ぱちくりと目を瞬くと、ガイの向こうにいる大人達が苦笑していた。
「ミラちゃんは魔法を考えるのが好きなのね」
「しかもこだわり派」
「研究者としては良い資質ですが、寝食を忘れるほど夢中になってはいけませんよ?」
イエナさんが微笑ましげに言えば、ケビンさんが茶化すように言い、ブルムさんには諭される。
「気をつけます」
私は殊勝に頷いたが、ガイがそれをぶち壊した。
「大丈夫、そしたらオレが、また声をかけてやるから」
いやいや、自重するから。社会生活不適応者にはならないから。だから甘やかすな、幼馴染み。
「さて、じゃあ食うか」
「「「「大地の恵みに感謝を」」」」
全員が水球で手を洗い、改めて東屋のベンチに座る。そしてケビンさんの音頭でいただきますに該当する言葉を捧げ、私達はサンドイッチに手を伸ばした。
「あ、ディーネ達も食べる?」
無心になってコッコソテーのサンドイッチにがっつくガイの横で、私は卵とハムのサンドイッチを手に、ふと精霊達に声をかけた。
精霊達は人間の食べ物も食べられる。特に甘い物が好きなのか、お茶の時間に現れては、クッキーとかを喜んで食べていた。
ちっちゃい精霊達が身の丈サイズのクッキーを抱え込んで、ちまちま食べる姿は悶絶ものだ。精霊眼を持つ者だけが視られる光景。うふふ。役得役得。
ちなみに高位精霊になったグノーやルフィーもお菓子を食べるけど、何やら不満らしい。
『前は一枚でお腹いっぱいになれたのにっ……』
『こればかりは仕方ないよ。でももう少し成長すれば、ね?』
『そうですね。成長すれば!』
とかなんとか言ってたっけ。成長すれば、どうなるんだろう。高位精霊のさらに上のランクって……霞を食べる仙人のごとく、魔力だけでよくなるとか? いずれにせよ、おちびでも高位精霊でも、甘い物はエネルギーにするためというより、嗜好品みたいなものらしい。
あ、そういえば前世の漫画に甘い物が好物で、ちびバージョンと大人バージョンの姿を持ったキャラがいた気がする。あれは精霊だったかな? それとも封印された魔法使いだったっけ? なんか混ざってしまった。
でもそうだね、成長すれば好きな姿を選べるとかだったらいいな。だっておちび姿の再来が望めるじゃない。その日が来るのがちょっと楽しみになったかも。
私が小さくちぎったサンドイッチを差し出すと、ディーネは首を横に振った。
『ご飯なら、マスターの魔力がいいです』
ふむ。それもそうかと納得した私は、ちぎったサンドイッチを口に放り込んで咀嚼する。
ああ美味しい。パンに塗られた濃厚なバターの旨味。ハムの塩気。卵の甘み。それらを包み込むシャキシャキのレタス!
って、浸ってないで魔力魔力っと。私は空いた右手に魔力を集めた。
「じゃあこのくらい……あれ?」
魔力弾を作る要領で、手の平に魔力を集めようとしたのだけど、なぜか思っていたのより大きなものができた。作ろうとしたのは私のこぶし大のサイズ。なのに、子供の頭ほどの大きさになってしまった。
勢いよく魔力を流しすぎた?
規模とか色々考えなきゃいけない水球なら制御を失敗する事もありえるけど……だけど実際、思っていたサイズと違う魔力玉が目の前にあるんだから、簡単なはずの魔力移動を失敗したって事だ。
『ありがとう、マスター』
蜜色の魔力玉を手にしたまま思考に沈んだ私に、グノーがお礼を言ってそれを取り、東屋を出た。彼の後をルフィーが追う。ディーネとサラはルフィーの肩に乗っていた。
グノーは魔力玉を二つに割って、片方をルフィーに手渡す。サラがグノーの肩に飛び移り、彼らは半分の魔力玉をさらに半分に分け合って、それぞれ口をつけた。
私は精霊達の食事となった魔力と、それを作りだした自分の右手を交互に見やり、グーパーと手を動かして首を傾げる。
「ミーラー、考え事は食べてからにしろよ」
「あ、うん」
ま、いっか。気のせいかもしれないし。
私は割とめんどくさがりだ。だから無意識に、小さな魔力玉を四つ作るのを手間に思って、一度に出した可能性もあるよね。
私は考えるのをやめて、サンドイッチにかじりついた。
第二話
昼食後はディーネとの約束通り、腹ごなしも兼ねて水遊びをする事になった。庭園から練兵場の管理施設裏に戻ってきた私達は、ただ今水玉合戦中。
「風爆イン水球!」
金緑色と金青色の光の輪が重なって、一つの魔法陣が描かれる。出現した水球がケビンさん達の頭上に達した瞬間、私は指をパチリと鳴らした。
「ブレイク!」
水球が破裂し、水が雨のように降り注ぐ。
「うお! 冷てー」
「きゃー、ミラちゃんてば容赦ない!」
「ミラさん、味方まで濡らしてどうするんですかっ」
「ごめんなさーい」
「あはははは、いいぞミラ! もっとやれ!」
対戦カードは私・ガイ・ブルムさんチームとケビンさん・イエナさんチームだ。
ルールは簡単。威力を最大限に弱めた水球を打ち合って、十分間に、より相手をずぶ濡れにした方が勝ち。
私がいるチームの方が圧倒的に有利だから、子供チーム対大人チームでもいいと言ったのだけど、それでは大人達の沽券にかかわる。しかし、イエナさんに攻撃なんてできないと言うケビンさんの主張を受け入れた結果、この組み合わせになった。
火属性のケビンさんは、迂闊に火魔法で水球を迎撃すると熱湯を被ってしまうから、防御は風の魔石。攻撃は水の魔石頼り。
イエナさんは風属性といえど、迎撃した水球の水を完全に吹き飛ばすほどの威力がある風球は作れない。だからケビンさんが迎撃を手伝ったりかばったりする。そして攻撃は水の魔石を使用。
防御力に欠けるチームだ。
一方私達はといえば、ガイは水の魔石を使って攻撃はできないので、走って逃げるだけ。でもとにかく素早い。当たらない。
ブルムさんは風魔法で水球を迎撃することもできるし、水の魔石で攻撃もできる。
私は走って逃げ回る体力はないけれど、膨大な魔力のおかげで水魔法も風魔法も打ち放題。しかもブルムさんの迎撃魔法を見て、二種の魔法を組み合わせる変則魔法を開発。防御も攻撃もばっちりです。おほほのほ。
「ブルム、お前覚悟を決めてずぶ濡れになれ!」
「断る!」
ま、主に攻撃の的になってるのはブルムさんとケビンさんだから、私は呑気に新技なんてものを試せるんだけど。
「てなわけで、次行ってみまーす。水球を……」
掲げた右手の前に、金青色の魔法陣が描かれる。今度は風魔法は仕込まない。その代わり……
「二連!」
「「はあ!?」」
敵であるケビンさんと、味方のブルムさんが異口同音に声を上げた。そこへ一瞬で二つに増えた魔法陣から、二つの水球が打ち出される。
「って、マジで二つかよ!」
「非常識なっ。それと何度も言いますが、私は味方です!」
ぼやきつつも、二人は即座に風球を放って迎撃する。
「すいませーん、細かい指定までしてませんでした。てかブルムさん、非常識と私を結びつけないでください。連続して呪文を唱えるのが面倒なのでやってみたんです。非常識ならケビンさんだけに攻撃指定してます!」
「「呪文の再詠唱を略せる時点で非常識だ!」」
息の合ったツッコミありがとう。でも受け入れ拒否です。
私は魔法陣をコピーして増やせたら楽だなって思っただけだもの。だって、一度にできる攻撃数が増えるでしょ?
魔法は魔法陣を描いた場所で発動する。なら、魔力をさっきの二倍にして、それを二つ描いた魔法陣にそれぞれ分けて送り込めば、同じ威力の水球が一度に二つ打てるんじゃない? なーんて好奇心でやってみたら、大・成・功! クスクス笑う私に、サラの声――概念通信が届いた。
『マスター! しゅーりょー!』
時計花を見ていてくれていたサラが十分経った事を告げる。でもサラの声を聞く事ができる人間は私だけだから、私は即座にサラの言葉を繰り返した。
「終了だそーでーす」
男達は顔を見合わせて息をつき、無言で湿った前髪を掻き上げた。いやー、水もしたたるいい男ですね。
「あー、楽しかった」
イエナさんが笑いながら水の入っている革袋を手に取る。だけど中身はお昼ご飯の時に飲み干していたから、コップに向かって逆さまにしても、一滴の水も出てこなかった。
「そういえば、水は飲みきってしまったんだったわね」
湧水の練習のチャンス到来。
「イエナさん、それ貸してくださいな」
「あら、ミラちゃんが水を出してくれるの?」
「はい」
私は手渡された革袋を下に置いて固定して、注ぎ口に手を翳した。
「湧水」
革袋に水が満たされる。
「ありがとう」
「いえいえ」
ではさっそくと、全員にコップを配って水を注ぐ。注ぐやいなや、ガイはぐいっと一気に水を飲み干した。
「ガイ、顔がずいぶん赤いけど、熱でも出てるんじゃない?」
晴天の下、ガイは人一倍走り回っていた。うちのチームで主に狙われたのはブルムさんだったけど、飛んでくる水球を、ガイは身体能力だけで避けていたから汗だくだ。
私はガイと自分の額に手を当てて比べてみる。熱中症になってたら大変だ。
「大丈夫」
ガイは頭を振って、私の手から逃げた。
「それより、ミラもいっぱい飲んどけよ」
「うん」
「はい、じゃあガイ君とミラちゃんはお代わりね」
空になったガイのコップに、イエナさんは再び水を注ぎ込んだ。続いて私にも注いでくれる。私はこぼさないように移動して、建物の影に座り込んだ。
「ふう。ちょっとはしゃぎすぎちゃったかな?」
気温が高いから、湿っていた服があっという間に乾いていく。ブルムさんとケビンさんは、それでは追いつかないほど水びたしになっていたから、服を脱いで手で絞り、魔法で乾かし始めた。
乾いた服を着たブルムさんは、時計花を確認してケビンさんに声をかける。
「ケビン、そろそろ昼休憩も終わりだろう。練兵場に戻れ。私はミラさんの飛行魔法の訓練をしなければならないから残る」
「ん、そうだったな」
「私も帰るわ。ケビン、途中まで一緒に行きましょ」
「おう」
イエナさんが荷物を手にして、ケビンさんの隣に立つ。
「じゃあね、ミラちゃん、ガイ君」
「頑張れよ」
ケビンさんは私の頭をくしゃりとなでて、練兵場に向かって歩き出す。
ヒラヒラと手を振ったイエナさんは、ケビンさんと腕を組んで帰っていった。
二人を見送った私は、さっそく訓練を始める。
場所は練兵場施設裏。その裏口の階段の上で、私はごくり、と息を呑んだ。そしてゆっくりと足を踏み出す。
大丈夫、大丈夫。地面はすぐそこなんだし。
「なあミラ」
「ぴっ!」
突然声をかけられて、私は体をびくっと震わせた。あっぶなー。
「驚かさないでよ。落ちたらどうすんのよ」
階段下のガイをキッと睨めば、呆れた眼差しが返ってきた。
「それ、本当に飛ぶ訓練になるのか?」
それ、とは階段の下から五段目にして、手すりにしがみつきつつ片足で宙を探っているこの状態の事かしらん? ――まぁ、ちょっと情けない姿かもしれない。
私は両足を揃えて姿勢を正してから、ガイに言い返した。もちろん、手すりは離さずに。
「わからないけど、魔術師長様の提案だもの。ルフィーと合一して、階段からの飛び降りを繰り返すって。今日は、前回行き詰まった五段目から」
何を今さら。この方法をグリンガム魔術師長から提案された時、ガイも側にいたじゃない。
私の背中には今、真っ白な翼がある。
空を飛んでみたいという姫様の願いを叶えてあげたいけど、彼女だけを風で吹き飛ばすわけにはいかないから、ガイの時みたいに私が抱えて飛ぶしかない。だけど今の私は高所恐怖症。
高所からの急降下。遥か下をビュンビュン流れる地面。思い出すだけでも眩暈がする。気力だけで耐えたあの体験は、しっかりばっちりトラウマと化してしまった。
「飛行魔法の使い手が、高所恐怖症にスピード恐怖症って……」
誰のせいよ誰の。
そう言いたいけど、ガイのせいではないから言えやしない。高所恐怖症はベルーレ男爵家の双子のせいで、スピード恐怖症は前世からの体質。悪化の原因にはなったかもしれないけど。
「えーい、女は度胸!」
ていっと気合を入れた私は、目をつむって階段から飛び降りた。ふわりと感じる風。浮遊する感覚。背筋にぞっと震えが走る。
「あ、バカ!」
「ミラさん!」
風の制御を乱して体が傾く。ガイの焦った声と、少し離れた所で黙って見守ってくれていたブルムさんの声が重なった。
「……おもい」
「失礼な」
口を尖らせて、私はガイの上に乗った体を起こした。
「でもゴメン。助けてくれてありがとう」
ブルムさんが慌てて駆け寄ってくる。
「すいません、助けが間に合いませんでした」
「仕方ないですよ」
たった五段だから、落ちるのはあっという間だ。
ブルムさんは私の魔法が暴走状態に入ったら、私から風の支配権を奪わなければいけない。だからあえて、離れた所にいるのだ。私の近くにいたせいで、吹っ飛ばされて気絶しましたじゃすまないもんね。そこまで気に病む事じゃない。
私は下敷きになってくれたガイに手を貸して、体を引き起こした。すると、ガイの手がそのまま私の頬に伸びてくる。
「ケガしてねえか?」
「それは私の台詞だよ」
私は苦笑して、彼の手に自分の手を添えた。階段下で見学していたガイが、落ちた私をとっさに抱き止めてくれたのだ。支えきれずに潰れたけど。
「足、挫いたりしてない?」
「へーき。オレは頑丈だし」
照れたように笑うガイに、私も笑い返した。
「コホン」
ほのぼの空間に響いた咳払いに、私達は階段を振り仰ぐ。
「姫様と王子様! どうしてここに?」
私とガイは慌てて立ち上がった。ブルムさんは一歩下がり、臣下の礼を取る。そんな彼に王子様は片手を上げて、「楽にして」と言った。
王子様は姫様の手を取り、ゆったりと階段を下りる。うん。絵になる二人だ。
「姫様、空を飛べるのは、まだまだ先になりそうだよ」
ガイの報告に姫様は眉根を寄せて、気遣わしげな視線を私に向ける。
「ミラ、怖いのでしたら、無理をせずともいいんですのよ?」
「いえ。せっかく飛べたんですから、トラウマは克服したいと思います」
私は首を横に振った。必要に迫られた結果とはいえ、一度は飛べたんだから、やっぱりまた飛んでみたい。優雅に空を散歩したいじゃないか。ルフィーも嬉しそうに、訓練につき合ってくれているしね。
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