アヤカシガラミ

サバミソ

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其ノ参、異

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「…ふゆはさん、大丈夫ですか?」
「!」
伊丹の声に、ふゆははハッと我に返った。

ナギと過ごした翌日、ふゆははいつものように万華鏡神社にて伊丹の手伝いを行っていた。

「あ、ええ、ごめんなさい…、ちょっと…上の空だった…。」
書かなければならない御朱印の山を目の前に、ふゆはは溜息が漏れる。

「今日も昼過ぎより結界の鍛錬を予定していますが…、やはり、まだ疲れが…?」
いつもより調子の悪そうなふゆはに、向かい側で墨を磨っていた伊丹は心配そうに声をかけた。
「ううん、大丈夫…。むしろその件で考えていたから。」
「…そうでしたか。」
大丈夫、とは言うものの、相変わらず心ここに在らずなふゆはに、伊丹は益々心配になりながらも苦笑いをした。

やはり、彼女が真の一人前になるにはまだまだ時間がかかりそうだ…。

「…ねぇ、伊丹…。」
清々しいほど晴れた外を眺めながら、ぽつり、とふゆはは呟いた。
そよそよと、緩やかな風が書斎を通り抜ける。
「私も、いつか伊丹のような凄い術者になれるのかしら…。」
ふゆはの独り言のような問いが、風と共に流れて伊丹の元に届く。

「フフ、凄い術者だなんて…照れてしまいますね。」
伊丹はその緩やかな風に、擽ったそうに笑う。

磨っていた墨を、そっと硯に横たえた。

「…きっと、きっとなれますよ。勿論、この先も学んでいただくことは多々ありますが。」
それは決して、楽なことではない。
伊丹は、これまで自分が学んできた過程を振り返りながら伝えた。
ふゆははふっと溜息をつく。
「…そう…、覚悟はしているけれど、道のりは長そうね…。」
わかりきっていたものの、改めて自分の師から伝えられると、ふゆははどうしても先の見えない不安に駆られた。

「この道のりに終着点はありません。どんな近道しても、終わりが見える事はありませんから。」
ふゆはと同じように、伊丹も外の景色を見つめていた。

広々と広がる屋敷の庭園。
一本の、立派に育った桜の木。
その下に作られた小洒落た池の水面が、静かに波紋を描いていた。

「それでも、どの道にも通過点というものはあります。まずはそれを目指して、ゆっくり着実に進んでいきましょう。」
吹き抜ける風のように優しく、伊丹は先の見えない道の進み方を伝えた。
「…ええ、ありがとう、伊丹…。」
ふゆはは振り返り、少し安心したような表情で礼を言った。

大丈夫、ふゆはさんは僕のようになることはない。
だから、安心してその道を進んでもらえばいい。

儚い笑みを浮かべながら、伊丹は再び墨を磨り始めた。

………

昨日と同じ時間、同じ場所で、同じ鍛錬が始まろうとしていた。

「昨日と同じく、結界生成後、外部の襲撃から三十秒間耐えてもらいます。耐えられれば、今日の件は終了となります。」
「ええ、わかったわ。」 
伊丹の顔つきが、師としてのものに変わった。
途端に、彼の隣には昨日の、あの禍々しい姿の怪異が姿を現わす。

ただ、昨日と違うのは、その身体中にまで触手のようなものが這っていたこと、
また、昨日以上に殺気が溢れていたのは一目瞭然だった。

「っ…!」
その形容し難い姿を目の前に、ふゆはは怯んだ。

邪狂霊は、もとより自分と同じく、この世界を生きていた者。
その者が、この世に対する怒り、悲しみ等を抱えながら死を迎えることにより、己自身のしがらみに魂を囚われ、成仏することなく邪に狂った霊として延々と彷徨うことになる。
また、邪狂霊の怨念が強すぎる場合、生前の姿を維持できなくなり、正に”バケモノ”の如く異形へと姿が変わってしまう。

伊丹が言うには、この異形状態になった邪狂霊は、退治をしても成仏できずに消滅するため、どの道をたどっても救われる事がない、と聞いていたが…。

フッと、空気が揺れ動いた。

「!!」
しまった、と思ったときには既に遅かった。
邪狂霊を目の前に、一瞬ながらも気を緩めていた自分をふゆはは呪った。

「ぐ、あっ…!」
あの虫唾の走る忌々しい腕に、ふゆはは脇腹を殴られ、そのまま庭園の先に投げ出された。
「っ…!」
急ぎ体制を立て直す為に起き上がろうとするふゆは。
同時に、邪狂霊は容赦ない速さでふゆはに追撃しようと仕掛けて来る。

「ぐ…!!」
ふゆはは咄嗟に結界を張り、邪狂霊からの追撃に身を守った。
足が震えるものの、このまま三十秒間耐えれば、今日も鍛錬が終わるのだ。
だが、それだけでは許せない。

今日の私は、昨日までの私と違うのだから。

「負け、る、ものかっ…!!」
ふゆはの背後から突然、光り輝く、真っ白で大きな龍が現れる。

「…!?」
これに驚いたのは伊丹だった。

まさか…この状況で十二支の術…!?

十二支の術は、伊丹がふゆはに教えた、一番最初の術だ。
一番最初に教えた術とはいえ、一番簡単な術というわけではない。
この術を繰り出すにも、呼び出す十二支の内の一匹に意識を集中させ、自らの意志と繋がらなくてはならない。
そんなことが、崩れかけた結界を維持する中、この術の発動に機転が利くとは、伊丹は予想だにしなかった。

昨日より、ふゆはの気迫が違うのは一目瞭然だった。

ふゆはの繰り出した龍が、迫り来る邪狂霊に牙を剥きながら反撃を仕掛けた。
触手が生えた邪狂霊の身体に、龍の鋭い牙が深く突き刺さる。
邪狂霊は耳を貫くような叫び声を上げながら、自らを喰らう龍を振り払おうと、激しくのたうち回った。
「はっ…、は…。」
この間、ふゆはには十分すぎる時間と余裕が生まれた。

この鍛錬は、邪狂霊の攻撃から三十秒間、結界を張った状態で耐えなければならない。
故に、邪狂霊そのものを倒すことが目的ではないのだ。

ふゆははゆっくりと息を整え、再び怪異に立ち向かうために、しっかりとした意識で結界を張った。
頃合いと見て、ふゆはは十二支の術を解く。
同時に、ぱりん、と硝子が割れる様に龍は姿を消した。

龍から開放された邪狂霊は、激しく体力を消耗したことにより、蹌踉めきながらも立ち上がろうとしていた。
そして、ふゆはが視界に入った途端、今まで以上の叫び声を上げながら突撃してきた。

「っ…!!」
ガッ!と結界越しに衝突した邪狂霊と立ち向かう。
怒りにより、その触手のようなものが生えた身体は、凄まじく巻き上がっていた。
「っ…!負けて、たまるか!!」

これは自分自身を守るためではない。
今、自分の後ろには、伊丹が、ナギが、みんながいるのだ。
仲間を守るために、眼の前の邪狂霊と立ち向かわなければならないのだ。

そう思いながら、ふゆはは邪狂霊から一切目をそらすことはなかった。

ふゆはの急成長に、伊丹は傍らで黙って見ていた。

ふわっと、邪狂霊が煙のように姿を消した。
今日も、伊丹の言う時間どおり耐えきったのだ。
「はっ…、は…」
夢中で応戦していたふゆはは、そのまま糸が切れたかのように地に膝をついた。
それでも、昨日のように心まで疲弊することはなかった。

「お疲れ様です。よく頑張りましたね。」
昨日と同じ様に、伊丹は優しい笑顔を向けた。

「…、まさか一日でこれほどまで成長するとは…。」
あの状況で十二支の術を繰り出すという判断に、伊丹は素直に驚いてた。
「ん…、ありが、と…。」
荒れる息を整えながら、ふゆはは礼を言った。

「…ナギに、教えてもらったの…。」
「ナギ、ですか?」
「仲間を守る気で立ち向かえ、って…。だから私、みんなを守ろうと、その一心で戦ったのだけれど…。」

仲間を守る気で…。
確かに、その心境で敵に立ち向かうのも一つの答えだ。
ただその一言で、彼女がこれほどまで変わるとは。

「…あのナギが、ふゆはさんに…。」
「?」
「いえ…、昔から、彼は一匹狼的なところがあるので…、まさかふゆはさんにそんな助言をするだなんて、思いもしなかったんですよ。」
おそらく彼女と恋仲であるからこそ、といったところなのだろう。

…本当に、今日は驚くことが沢山ありすぎだ。
二度あることは三度ある、なんてことにならなければいいけれども…。

伊丹は独り心の中で失笑していた。

「ともかく、今日の鍛錬は花丸をつけたいくらいですよ。本当に、よく頑張りました。」
伊丹は、ふゆはの汚れた巫女服の裾を手ではたき落とした。
「明日から暫く、神社の仕事で術の鍛錬をする時間が取れませんが、今日の感覚をよく覚えておくように。」
「わかったわ。いつもありがとう。」

昨日と同じ様に、師弟は屋敷へ戻る為に足を運んだ。
ただ、その心境は昨日とは異なっていた。

遠くの山で、今日一日この村を照らし続けていた陽が、真っ赤に燃えながらその姿を消そうとしていた。

………

日付が変わる頃、伊丹は屋敷から出てすぐ裏手にある、小高い丘にいた。
「…。」
今夜は満月だ。
神々しく輝く黄金の月を見上げながら、今日一日の事を思い出していた。

『私も、いつか伊丹のような凄い術者になれるのかしら…。』

彼女には、これからも様々な術を身につけてもらいたい。
否、今日の鍛錬の成果を見れば、彼女はもう大丈夫なのかもしれない。

たとえ、僕がいなくても、

「何をしている。」
「!」
突然、背後から声をかけられた伊丹は思わず息を呑んだ。
振り返ると、そこには紺色の長髪を一つに結び上げ、右目が前髪で覆い隠された、背の高い男の姿があった。

「幻洛さん…?」
迂闊だった。
まさか物思いにふけて、この者の存在に気付かなかったとは…。
伊丹は自分の失態に、心の中で舌打ちをした。

幻洛は身体の半分に覚の血が流れている者。
故に、彼は他者の思考を読み取ることができる。
下手に動揺した状態で目が合えば、考え事や悩み事が余すことなく彼に知られるのは言うまでもない。

彼の能力を否定するわけではない。
しかし、伊丹にとっては唯一関わりたくない相手だった。

二度あることは三度ある…、よりにもよって、これがその三度目か…。

「…幻洛さんこそ、こんな時間にどうしました?」
そんな気持ちとは裏腹に、伊丹はいつもの笑顔で幻洛に問いかけた。

「まあ、ただの気晴らしだ。」
先に問いかけていたのは俺の方なのだがな、
そう幻洛は鼻で笑いながら、誰宛にでもなく呟いた。
「そうですか、奇遇ですね。僕も少し気晴らしに出ていまして。…ほら、今夜の満月はとても綺麗でしょう?」

まるで全てを見透かすように輝く黄金の月。

伊丹は再び夜空を見上げながら、他愛の無い世間話を続けた。
そんな伊丹を、幻洛は黙って横から見ていた。



「ふゆはを差し置いてどうするつもりだ。」



不意に出されたその言葉に、伊丹は思わず幻洛の方を向いてしまった。

満月と同じ色で輝く彼の黄金の左目。
青く沈んだ己の深海色の左目。

両者の目が、合ってしまった。

それは本当に一瞬だったが、一瞬ではなかった。

「…お前、」
「さて、僕はそろそろ屋敷に戻りますね。いい気晴らしができました。」
咄嗟に顔を逸らし、何かを言おうとした幻洛に良からぬ予感がした伊丹は、無理矢理話を割り込ませた。

いい気晴らしなど、出来た筈がない。

一番関わりたくない相手と、一対一でいるこの状況。
剰え、一瞬ながら目が合ってしまった伊丹は、非常に居心地が悪かった。

「…幻洛さんも、あまり夜更かしせぬよう…。」
それは決して心配しているのではなく、この場から脱する為の捨て台詞だった。
伊丹はいつも通り、優しい口調でそう言い残し、幻洛の方は一切見ようとせず、足早に屋敷へ戻っていった。

そんな伊丹を、幻洛は追求せずにそのまま黙って見送った。

その金眼には、今後の動きを警戒する思いが込められていた。
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