47 / 49
冬
10
しおりを挟む
私が作った水炊きと刺身が並ぶ。いつも使っていたダイニングテーブルでは人数分のいすがなくて、結局ローテーブルを出してそこにみんなで座った。
「刺身も新鮮だね。」
「あぁ。都会に出たらこんなに新鮮なのは食べられないかもしれないな。」
田宮さんがここに残るのは、食べ物のこともあったのかもしれない。ここが出来た当初からいるという田宮さんは、食べ物を通して近所の人間関係も良好に築いてきたのだ。
それらを捨てて一からまた始めるのは、田宮さんの歳では大変なのかもしれない。
対して江口君と阿川さんは今からの人だ。
特に阿川さんは人付き合いを苦手としている。きっと新しい土地では新しい出会いが待っているだろう。
「律。野菜も食べて。」
隣にいた光が律に野菜を取り分けた。まるで光の方が彼女のようだ。でも律はあまり食べていなくて、お酒ばかり飲んでいる。
「飲み過ぎじゃないの?」
向かいに座っている私がそう聞くと、律はご機嫌に「大丈夫」と一言。そしてまたコップに口を付けた。
そのとき私の携帯電話が激しく鳴った。その相手を見て、私は携帯電話を手にとって二階に上がる。
「ちょっと失礼。」
二階の部屋に入ると、私はその電話の通話ボタンを押した。
「もしもし…。えぇ。わかります。」
しばらく話をして、私は通話を消した。ふっとため息をついて、ドアの方に振り返った。
「驚いた。」
そこには楓の姿があった。
「寒くなかったのか。こんなに冷えたところで。」
「…みんなの前で話すことではないから。」
そう言って楓の傍を通り過ぎて戻ろうとしたときだった。
「周。もしかして今日は…。」
「何?」
「いいや。君のことだ。詮索すると嫌がるだろう。」
「でも詮索しないと私は何も言わないわ。」
「…。」
「嵐さんのように強引に聞く方法もあるのでしょうけど、それでは意固地になる。」
「…。」
「でもそれほど気にならないのであれば、聞かなくてもいいでしょう?」
「聞きたいね。」
「…言いたくないわ。」
「だったらここから出さない。」
後ろ手で扉を閉めて、そこに寄りかかる。
「…動かれないのも困るわね。」
「…。」
「今日の十二時。母を殺した犯人の時効が成立するわ。その手続きに父が警察署へ行った。」
これで母を殺した犯人は永遠にわからなくなる。殺した犯人は、母を殺したことを無かったことにされたのだから。
「悔しくはないのか。」
「…母が殺されたとき、私はまだ幼かった。母の思い出なんてわずかだし、思い出すこともない。年々、忘れているわ。」
「悲しいことだ。」
「そうね。そうかもしれないわね。」
普通ならそうだろう。普通なら自分が母になったとき、我が子から忘れられているなど想像もされたくはないだろう。
「僕の母は遠くの国にいる。今でも忘れずに何かしら国際便で送ってくるし、電話をしてくることもある。」
「いい母親ね。羨ましい。」
すると楓がドアから離れた。そして私に近づいてくる。
「周。」
「何?」
「うちの会社に来ないか。」
その言葉は私がフリーターをしていたとき、楓から言われた言葉だった。
「ここじゃない。地方都市へ行くことになっているけれど。」
「ではないんだ。…僕の勤める会社へ。」
「…。」
「妻として同行してくれないか。」
両方の二の腕を捕まれ、私を正面に見る。その目はどんなときよりも真剣な楓の表情だった。
「ダメ。」
「何で。」
「それは出来ないの。」
腕を捕まれたその手がゆるむ。私は左手の指先を彼に見せた。
「律について行くわ。」
地方都市への転勤は無かったことにしてくれと、明日連絡をする予定だった。
「律に?」
「寂しい思いもしたくないし、傍にいたいと思うの。それに…。」
「それに?」
「お金にならなくてもいい。絵が描きたいわ。」
ずっと心に響いていた。
自分に恥じない、自信のある作品というモノに。もしかしたら、私は勘違いをしていたのかもしれない。
今まで焼いてきた作品の中にも、自分に誇れる作品があったかもしれないのに、私はそれを焼いてしまった。
「絵か…。」
楓は頭を抱え、ため息をついた。
「それを出されると弱い。」
「ごめんなさい。答えれなくて。」
「いいや。」
楓は手を伸ばし、私の頭に手を乗せた。まるで小さな子供にするようにぽんぽんと頭を軽く叩く。
「周。僕は、君がいつか絵を取ると思っていたんだ。」
「…楓…。」
「小さな雑誌社の編集者なんかで収まるわけがないとね。だけど、やっぱり嫉妬はするな。」
「…どっちに?」
「どっちにも。」
彼は笑い、そして私の頬にキスをした。
「唇にはしたら悪いか?」
「…そうね。悪いでしょうね。」
すると彼の手が離れた。
「でも正直に言うわ。あなたと何度かキスをしたけれど、本気でイヤだったことはないわ。」
不安定だったあのとき。律のことがわからなくなったあの日。その心の透き間にすっと入り込んできた楓。
彼の優しさが嬉しかった。
「一回くらい寝ておけば良かったよ。」
「それはいくら何でもダメだわ。」
「そうだね。」
彼が部屋の扉を開ける。
「先に帰っていてくれる?僕ももう少ししたら帰るから。」
「わかったわ。」
部屋を出て、扉を閉める。私はその扉に体を寄せた。
ごめんなさい。楓。あなたの気持ちに答えられなくて。ごめんなさい。
「刺身も新鮮だね。」
「あぁ。都会に出たらこんなに新鮮なのは食べられないかもしれないな。」
田宮さんがここに残るのは、食べ物のこともあったのかもしれない。ここが出来た当初からいるという田宮さんは、食べ物を通して近所の人間関係も良好に築いてきたのだ。
それらを捨てて一からまた始めるのは、田宮さんの歳では大変なのかもしれない。
対して江口君と阿川さんは今からの人だ。
特に阿川さんは人付き合いを苦手としている。きっと新しい土地では新しい出会いが待っているだろう。
「律。野菜も食べて。」
隣にいた光が律に野菜を取り分けた。まるで光の方が彼女のようだ。でも律はあまり食べていなくて、お酒ばかり飲んでいる。
「飲み過ぎじゃないの?」
向かいに座っている私がそう聞くと、律はご機嫌に「大丈夫」と一言。そしてまたコップに口を付けた。
そのとき私の携帯電話が激しく鳴った。その相手を見て、私は携帯電話を手にとって二階に上がる。
「ちょっと失礼。」
二階の部屋に入ると、私はその電話の通話ボタンを押した。
「もしもし…。えぇ。わかります。」
しばらく話をして、私は通話を消した。ふっとため息をついて、ドアの方に振り返った。
「驚いた。」
そこには楓の姿があった。
「寒くなかったのか。こんなに冷えたところで。」
「…みんなの前で話すことではないから。」
そう言って楓の傍を通り過ぎて戻ろうとしたときだった。
「周。もしかして今日は…。」
「何?」
「いいや。君のことだ。詮索すると嫌がるだろう。」
「でも詮索しないと私は何も言わないわ。」
「…。」
「嵐さんのように強引に聞く方法もあるのでしょうけど、それでは意固地になる。」
「…。」
「でもそれほど気にならないのであれば、聞かなくてもいいでしょう?」
「聞きたいね。」
「…言いたくないわ。」
「だったらここから出さない。」
後ろ手で扉を閉めて、そこに寄りかかる。
「…動かれないのも困るわね。」
「…。」
「今日の十二時。母を殺した犯人の時効が成立するわ。その手続きに父が警察署へ行った。」
これで母を殺した犯人は永遠にわからなくなる。殺した犯人は、母を殺したことを無かったことにされたのだから。
「悔しくはないのか。」
「…母が殺されたとき、私はまだ幼かった。母の思い出なんてわずかだし、思い出すこともない。年々、忘れているわ。」
「悲しいことだ。」
「そうね。そうかもしれないわね。」
普通ならそうだろう。普通なら自分が母になったとき、我が子から忘れられているなど想像もされたくはないだろう。
「僕の母は遠くの国にいる。今でも忘れずに何かしら国際便で送ってくるし、電話をしてくることもある。」
「いい母親ね。羨ましい。」
すると楓がドアから離れた。そして私に近づいてくる。
「周。」
「何?」
「うちの会社に来ないか。」
その言葉は私がフリーターをしていたとき、楓から言われた言葉だった。
「ここじゃない。地方都市へ行くことになっているけれど。」
「ではないんだ。…僕の勤める会社へ。」
「…。」
「妻として同行してくれないか。」
両方の二の腕を捕まれ、私を正面に見る。その目はどんなときよりも真剣な楓の表情だった。
「ダメ。」
「何で。」
「それは出来ないの。」
腕を捕まれたその手がゆるむ。私は左手の指先を彼に見せた。
「律について行くわ。」
地方都市への転勤は無かったことにしてくれと、明日連絡をする予定だった。
「律に?」
「寂しい思いもしたくないし、傍にいたいと思うの。それに…。」
「それに?」
「お金にならなくてもいい。絵が描きたいわ。」
ずっと心に響いていた。
自分に恥じない、自信のある作品というモノに。もしかしたら、私は勘違いをしていたのかもしれない。
今まで焼いてきた作品の中にも、自分に誇れる作品があったかもしれないのに、私はそれを焼いてしまった。
「絵か…。」
楓は頭を抱え、ため息をついた。
「それを出されると弱い。」
「ごめんなさい。答えれなくて。」
「いいや。」
楓は手を伸ばし、私の頭に手を乗せた。まるで小さな子供にするようにぽんぽんと頭を軽く叩く。
「周。僕は、君がいつか絵を取ると思っていたんだ。」
「…楓…。」
「小さな雑誌社の編集者なんかで収まるわけがないとね。だけど、やっぱり嫉妬はするな。」
「…どっちに?」
「どっちにも。」
彼は笑い、そして私の頬にキスをした。
「唇にはしたら悪いか?」
「…そうね。悪いでしょうね。」
すると彼の手が離れた。
「でも正直に言うわ。あなたと何度かキスをしたけれど、本気でイヤだったことはないわ。」
不安定だったあのとき。律のことがわからなくなったあの日。その心の透き間にすっと入り込んできた楓。
彼の優しさが嬉しかった。
「一回くらい寝ておけば良かったよ。」
「それはいくら何でもダメだわ。」
「そうだね。」
彼が部屋の扉を開ける。
「先に帰っていてくれる?僕ももう少ししたら帰るから。」
「わかったわ。」
部屋を出て、扉を閉める。私はその扉に体を寄せた。
ごめんなさい。楓。あなたの気持ちに答えられなくて。ごめんなさい。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
会社の後輩が諦めてくれません
碧井夢夏
恋愛
満員電車で助けた就活生が会社まで追いかけてきた。
彼女、赤堀結は恩返しをするために入社した鶴だと言った。
亀じゃなくて良かったな・・
と思ったのは、松味食品の営業部エース、茶谷吾郎。
結は吾郎が何度振っても諦めない。
むしろ、変に条件を出してくる。
誰に対しても失礼な男と、彼のことが大好きな彼女のラブコメディ。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
警察官は今日も宴会ではっちゃける
饕餮
恋愛
居酒屋に勤める私に降りかかった災難。普段はとても真面目なのに、酔うと変態になる警察官に絡まれることだった。
そんな彼に告白されて――。
居酒屋の店員と捜査一課の警察官の、とある日常を切り取った恋になるかも知れない(?)お話。
★下品な言葉が出てきます。苦手な方はご注意ください。
★この物語はフィクションです。実在の団体及び登場人物とは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる