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一室
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いつも私服なのだが、今日はスーツを着ていてサラリーマンと変わらない自分が、電車の窓に映っていた。二十八歳のサラリーマン。普通にどこにでも居ると思う。いや、もしかしたらこの肌が自黒なのと地毛が茶色いし、少し髪が伸びたのもあってホストに見えないこともないか。そう思いながらため息をつく。
大学の同期にホストのバイトをしている人は多かった。画材は結構お金がかかるし、昼間は学校で動けないから必然的に夜の仕事で割が言い仕事となるとホストが効率がいい。そのままホストに就職した人もいるがこの歳になって肝臓をやられて、今は田舎でバーテンダーをしているらしい。
酒は好きだがそこまでして飲む必要性も感じなかった。だが真矢は違う。きっと酒と本が一番の娯楽なのだろう。自分でもそう言っていた。
「こうして抱きしめられてもどこか空虚だった。いずれこの人も他の人の所に行く。私の代わりは沢山居るのだから。」
代わりなどいない。倫子の代わりも泉の代わりもどこにもいないのだ。もちろん自分の代わりもいない。そう思いながら駅に着いた伊織は、電車をでて改札口をくぐる。そしてもう暗くなってしまった夜道をドラッグストアの方へ歩いていった。
もう何度か通った道で、すでに真矢は帰っているはずだ。食事を用意しているらしい。そう思いながらドラッグストアの脇にある道を行く。そしてアパートにたどり着くと、階段を上がる。
チャイムを鳴らすと、すぐに真矢が出てきた。
「いらっしゃい。」
カレーの匂いがする。美味しそうな匂いだった。
「お邪魔します。」
「カレーを食べるかしら。私の好みに合わせているから、少し辛いかもしれないけれど。」
「食べるよ。辛いのは本当は好きでね。」
倫子が作るカレーは美味しかった。学校給食につとめている母から教わったというカレーは、辛いモノが苦手だという泉に合わせていつも甘口で誰の舌にも合うと思う。
ネクタイをゆるめて、ジャケットを脱ぐ。すると真矢は少し笑った。
「そのネクタイとてもセンス良いわね。誰かからの贈り物?」
台所でご飯をよそっている真矢がそう聞くと、伊織は首を横に振った。
「確かにもらったものだけど、今は言いたくないな。」
「どうして?気にしなくてもいいのに。」
「それは俺たちに何もないから?」
その言葉に真矢の動きが少し止まる。そして口元だけで笑った。
「そうね。何もない。はっきりした関係ではないわね。」
カレーをついで、テーブルに載せる。もうテーブルにはサラダやスープがあった。帰ってきて作ったのだろうか。それにしては手際が良すぎる。
「芦刈さん。嫌なら俺、これを食べたら帰りますよ。」
「ご飯は食べるんだ。」
「せっかく用意してもらったし。」
「そうね。」
そう言って真矢はスプーンを用意した。そして向かい合ってカレーを食べる。
「辛いね。でも美味しい。」
「良かったわ。舌にあって。カレーは好きなんだけれど、なかなか作る機会もなくて。一人だとそんなモノかしらね。」
「俺は一人で暮らしたことはないかな。」
「あら、一人暮らしはないの?」
「高校は祖母さんと暮らして、大学は寮だったし、就職したら祖母さんの体が少し不自由になったのもあって、自宅勤務をずっとしてたから。」
その祖母が亡くなったのは去年の話だった。祖母が入院したときに一人であの広い家に住んでいたのだ。そのときが唯一、一人暮らしをしたときかもしれない。
「それから小泉先生の所に?」
「春樹さんが紹介してくれて。倫子も誰か住んでくれる人がいないだろうかって春樹さんに相談していたみたいだ。」
「そう……。」
お互いのことをこうして話すことはそんなに無かった。飲みに来たときも本のことが中心だったし、その他のことはあまり話をしなかった。情が移ると思ったからだ。
もう我慢しなくていいのだろうか。しかし明確に恋人というわけではない。このカレーを食べたら伊織は帰ってしまうのだろうか。
辛いはずのカレーが味気がない感じがする。
食器を洗っている間、伊織は棚にある本を見ていた。そしてその一つを手にすると床に座ったままそれを読み出した。その様子に真矢は少しため息をつく。このまま居るのだろうか。朝まで一緒にいるのだろうか。疑問が湧いて止まらない。そして食器をしまった真矢は、覚悟を決めてタンスから下着を取り出す。
「私、シャワーを浴びてくるわ。このまま居てもかまわない。」
「……。」
「朝まで居ないのだったら私が出る前に帰って。本は貸してあげるから。」
それだけを言って眼鏡を外した真矢はそのままバスルームへ向かう。そして服を脱ぐと、シャワーの蛇口をひねる。そしてぬるいシャワーを浴びた。
きっと伊織は帰るはずだ。今までの男もそうだった。またはセックスをしてそのまま出て行く。朝まではいない。シャワーとともになぜか涙がこぼれる。
シャワーから上がると、まだ伊織は床に座ったまま本を読んでいた。どうやら画集を見ている。それを見て少しひきつった。
「それは……。」
「田島のモノだね。一冊目よりも二冊目の方が気合いが入ってるな。書き下ろしたのも多いし、でもどことなく人間がマネキンみたいに見える。」
「……えぇ、そうね。綺麗なだけ。でもこの間の漫画は良かった。評判が良かったのもうなづけるわ。」
心がないのは、人間にそんなに思い入れがなかったから。読んでいる人にもそれが伝わるのだろう。だからあまり評価は上がらなかった。
伊織もそうだった。だからデザインの採用はほとんどなかったようなのに、倫子の本に出会って変わった。日が沈まなければいい。夜は心まで黒く染めるようだから。そう伝わってきた。
今の立場になったのも倫子のおかげだったのかもしれない。だから倫子を手に入れたかった。だが倫子は伊織を見ることはない。倫子はずっと春樹しか見ていなかったのだ。体を抱いても伊織を見ることはない。
本を閉じて真矢を見上げる。湯上がりで頬を染めていた。この女性だって春樹しか見ていないのだ。今からしようとすることは空しいことではないのだろうか。ただ互いの心を埋め合っていくだけで何も満たされないだろう。
わかってる。だけど本心から真矢と今夜は一緒にいたいと思ったのだ。だからここにいる。
立ち上がると、真矢の肩に手を伸ばした。すると真矢はビクッと体を震わせる。こんな事は今までもあったはずなのに、どうしても反応してしまった。その力が強くなる。引き寄せたいと思っているのだろう。
「……シャワー。浴びない?その後でも遅くないから。」
「うん……。」
すると肩から手を離されて、ネクタイをとる。脱衣所へ行くと、棚からタオルを手にした。そしてふと脱がれている衣類が入ったかごが目に留まる。そこには真矢がさっきまで身につけていた服があった。
他人と一緒に住んでいればこういうモノも目にするし、倫子が伊織のパンツを畳んでくれるのももう馴れた。だがこの間初めてあった人とこんな事をするのは初めてかもしれない。
大学の同期にホストのバイトをしている人は多かった。画材は結構お金がかかるし、昼間は学校で動けないから必然的に夜の仕事で割が言い仕事となるとホストが効率がいい。そのままホストに就職した人もいるがこの歳になって肝臓をやられて、今は田舎でバーテンダーをしているらしい。
酒は好きだがそこまでして飲む必要性も感じなかった。だが真矢は違う。きっと酒と本が一番の娯楽なのだろう。自分でもそう言っていた。
「こうして抱きしめられてもどこか空虚だった。いずれこの人も他の人の所に行く。私の代わりは沢山居るのだから。」
代わりなどいない。倫子の代わりも泉の代わりもどこにもいないのだ。もちろん自分の代わりもいない。そう思いながら駅に着いた伊織は、電車をでて改札口をくぐる。そしてもう暗くなってしまった夜道をドラッグストアの方へ歩いていった。
もう何度か通った道で、すでに真矢は帰っているはずだ。食事を用意しているらしい。そう思いながらドラッグストアの脇にある道を行く。そしてアパートにたどり着くと、階段を上がる。
チャイムを鳴らすと、すぐに真矢が出てきた。
「いらっしゃい。」
カレーの匂いがする。美味しそうな匂いだった。
「お邪魔します。」
「カレーを食べるかしら。私の好みに合わせているから、少し辛いかもしれないけれど。」
「食べるよ。辛いのは本当は好きでね。」
倫子が作るカレーは美味しかった。学校給食につとめている母から教わったというカレーは、辛いモノが苦手だという泉に合わせていつも甘口で誰の舌にも合うと思う。
ネクタイをゆるめて、ジャケットを脱ぐ。すると真矢は少し笑った。
「そのネクタイとてもセンス良いわね。誰かからの贈り物?」
台所でご飯をよそっている真矢がそう聞くと、伊織は首を横に振った。
「確かにもらったものだけど、今は言いたくないな。」
「どうして?気にしなくてもいいのに。」
「それは俺たちに何もないから?」
その言葉に真矢の動きが少し止まる。そして口元だけで笑った。
「そうね。何もない。はっきりした関係ではないわね。」
カレーをついで、テーブルに載せる。もうテーブルにはサラダやスープがあった。帰ってきて作ったのだろうか。それにしては手際が良すぎる。
「芦刈さん。嫌なら俺、これを食べたら帰りますよ。」
「ご飯は食べるんだ。」
「せっかく用意してもらったし。」
「そうね。」
そう言って真矢はスプーンを用意した。そして向かい合ってカレーを食べる。
「辛いね。でも美味しい。」
「良かったわ。舌にあって。カレーは好きなんだけれど、なかなか作る機会もなくて。一人だとそんなモノかしらね。」
「俺は一人で暮らしたことはないかな。」
「あら、一人暮らしはないの?」
「高校は祖母さんと暮らして、大学は寮だったし、就職したら祖母さんの体が少し不自由になったのもあって、自宅勤務をずっとしてたから。」
その祖母が亡くなったのは去年の話だった。祖母が入院したときに一人であの広い家に住んでいたのだ。そのときが唯一、一人暮らしをしたときかもしれない。
「それから小泉先生の所に?」
「春樹さんが紹介してくれて。倫子も誰か住んでくれる人がいないだろうかって春樹さんに相談していたみたいだ。」
「そう……。」
お互いのことをこうして話すことはそんなに無かった。飲みに来たときも本のことが中心だったし、その他のことはあまり話をしなかった。情が移ると思ったからだ。
もう我慢しなくていいのだろうか。しかし明確に恋人というわけではない。このカレーを食べたら伊織は帰ってしまうのだろうか。
辛いはずのカレーが味気がない感じがする。
食器を洗っている間、伊織は棚にある本を見ていた。そしてその一つを手にすると床に座ったままそれを読み出した。その様子に真矢は少しため息をつく。このまま居るのだろうか。朝まで一緒にいるのだろうか。疑問が湧いて止まらない。そして食器をしまった真矢は、覚悟を決めてタンスから下着を取り出す。
「私、シャワーを浴びてくるわ。このまま居てもかまわない。」
「……。」
「朝まで居ないのだったら私が出る前に帰って。本は貸してあげるから。」
それだけを言って眼鏡を外した真矢はそのままバスルームへ向かう。そして服を脱ぐと、シャワーの蛇口をひねる。そしてぬるいシャワーを浴びた。
きっと伊織は帰るはずだ。今までの男もそうだった。またはセックスをしてそのまま出て行く。朝まではいない。シャワーとともになぜか涙がこぼれる。
シャワーから上がると、まだ伊織は床に座ったまま本を読んでいた。どうやら画集を見ている。それを見て少しひきつった。
「それは……。」
「田島のモノだね。一冊目よりも二冊目の方が気合いが入ってるな。書き下ろしたのも多いし、でもどことなく人間がマネキンみたいに見える。」
「……えぇ、そうね。綺麗なだけ。でもこの間の漫画は良かった。評判が良かったのもうなづけるわ。」
心がないのは、人間にそんなに思い入れがなかったから。読んでいる人にもそれが伝わるのだろう。だからあまり評価は上がらなかった。
伊織もそうだった。だからデザインの採用はほとんどなかったようなのに、倫子の本に出会って変わった。日が沈まなければいい。夜は心まで黒く染めるようだから。そう伝わってきた。
今の立場になったのも倫子のおかげだったのかもしれない。だから倫子を手に入れたかった。だが倫子は伊織を見ることはない。倫子はずっと春樹しか見ていなかったのだ。体を抱いても伊織を見ることはない。
本を閉じて真矢を見上げる。湯上がりで頬を染めていた。この女性だって春樹しか見ていないのだ。今からしようとすることは空しいことではないのだろうか。ただ互いの心を埋め合っていくだけで何も満たされないだろう。
わかってる。だけど本心から真矢と今夜は一緒にいたいと思ったのだ。だからここにいる。
立ち上がると、真矢の肩に手を伸ばした。すると真矢はビクッと体を震わせる。こんな事は今までもあったはずなのに、どうしても反応してしまった。その力が強くなる。引き寄せたいと思っているのだろう。
「……シャワー。浴びない?その後でも遅くないから。」
「うん……。」
すると肩から手を離されて、ネクタイをとる。脱衣所へ行くと、棚からタオルを手にした。そしてふと脱がれている衣類が入ったかごが目に留まる。そこには真矢がさっきまで身につけていた服があった。
他人と一緒に住んでいればこういうモノも目にするし、倫子が伊織のパンツを畳んでくれるのももう馴れた。だがこの間初めてあった人とこんな事をするのは初めてかもしれない。
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