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移気
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手に持っているポットが手から落ちそうだ。そう思って伊織はそのポットを倫子からとると、部屋の中に入ってテーブルの上に置いた。
「返して。」
「え?」
「仕事をしたいの。」
言わなければ良かったと思う。伊織は頭をかいて、倫子を見る。
「仕事できるの?」
「明日の午前中までにプロットを送りたいの。リジェクトされるかもしれないと思えば、余裕を持ちたいし……。」
「……。」
「春樹の奥さんが見つけてくれたの。それは感謝している。その恩を私のやっていることは仇で返していることもわかってる。だけど止められないのよ。」
それだけ好きだった。愛がなんたるかもわからなかった倫子に、すべてを教えてくれた。
「だったら何で田島と……。」
「……何で政近が出てくるの?」
「あ……いや。何でも……。」
口を押さえた。しまった言うつもりはなかったのに。
「……仕方ないわね。確かにそうよ。政近とは色々あった。あなたとあまり変わらないのかもしれない。だけど、それはやっぱり私の気の迷いだったの。」
「それで済ませられるんだ。」
「もう寝ない。あなたともう寝ないように、政近と寝ることもない。」
だがやはりキスはしてしまった。のこのこと政近の家に行ってしまった自分も隙があったし、自分が弱かったからだ。
「仕事するわ。」
そういって倫子はテーブルを置いてあったポットに手をかけようとした。そのときその手を伊織は握る。
「辞めて。」
「辞めたくない。」
するとその手を引き寄せられた。思わず伊織の胸に倒れ込む。それを受け止めるように伊織は倫子を抱きしめた。
「離して。」
よじろうすればするほど、伊織は力ずくで抱きしめてくる。春樹ではないその体が、とても嫌だ。
「伊織。辞めて。」
「落ち着いたら離すから。」
片手で倫子の体を抱きしめて、片手で倫子の手を手にする。すると震えていた。
「あなたが離したら落ち着くわ。」
「ううん。震えている。倫子。ずっと自分を責めてたんだろう?」
その言葉に倫子は涙をこらえきれなかった。
「全部が全部自分のせいにしてた。この間、お兄さんが来たときにわかったよ。全部を倫子に背負わせている。田島はそれが許せなかったみたいだ。」
「伊織……。」
「倫子はいつも泉に言ってるよね。泉が悪かったことなんか一つもないって。俺には倫子が悪かったことなんか一つもない。なのに全部倫子のせいにしている。やっていることも、全部否定されて。」
「……同情ならいらない。」
もう涙声だった。そうしないと耐えきれなかったから。
「俺だと頼りにならないから?」
「好きじゃないから。」
「だったら、俺がずっと倫子を好きでいるよ。」
手にしたその手を握る。すると倫子もその手を握り返してきた。
そして少しその体を離すと、伊織は倫子の頬に手を添えた。倫子もその頬に手を添える。そしてゆっくりと唇が重なる。
優しいキスだった。強引に舌を割るわけでもない。ただ唇が触れるだけだった。そして伊織はそのまままた倫子を抱き寄せる。
そのときだった。
「ただいま。」
玄関の開く音がして、春樹の声がした。あわてて体を離すと、伊織がすぐに部屋を出ていった。
「お帰り。遅かったね。」
「うん。やっとごたごたが終わりそうだ。明日から通常業務。」
「大変だったね。」
「倫子は?」
「本を借りたいって。俺の部屋にいる。」
その言葉に少しいぶかしげな顔をした。第一今、倫子は本をゆっくり楽しむ暇はないはずだ。
コートを脱いで部屋に戻る。そのとき伊織の部屋から倫子が出てきた。
「あぁ。お帰りなさい。」
「ただいま。本を借りてたんだって?」
「えぇ。料理の本。」
そういって手に持っている「基礎の料理」という本だった。
「料理?」
「漫画の新連載。料理人が最初のターゲットだから、料理の詳しい用語を知りたくてね。」
「あぁ。そうだったのか。」
「知ると、普通にやってた事ってこんな名称があるのって思ったわ。つい、その場で読んでて。」
倫子らしい言葉だ。他意はないのだろう。だが気になるのは頬の赤みだ。
「暑かった?」
「伊織って寒がりなの?」
倫子がそう聞くと、居間を出てきた伊織は少し笑っていった。
「ほら、俺暑い国にいたし、寒いのは苦手なんだ。」
「そうね。でも適度に換気してね。部屋の中で倒れられても困るから。」
「わかってる。」
そういって伊織は部屋に戻っていく。そして倫子はポットと本を手にして、居間に戻った。
「食事を用意しようか?」
「あぁ、軽くで良いよ。会社で少し摘んできてね。」
「そう。肉じゃがだけど、どれくらい注ごうか?」
倫子はそういうと、台所へ向かう。そしてテーブルにポットと本を置くと、鍋を火にかける。すると春樹はその体を引き寄せた。
「危ないわ。火を使っているのよ。」
「キスさせて。」
「……。」
すると倫子はそのまま背伸びをして春樹の唇にキスをする。
「良い匂いがするな。お風呂に入った?」
「一番風呂よ。さっき伊織が入ったみたいだから、さっさと食べてはいらないと冷めちゃうわね。」
「泉さんは?」
「礼二のところへ行ったわ。今日は帰らないみたい。」
「この間さ。」
「ん?」
気になることがあった。「book cafe」へ行ったときのことだった。
「ぜんぜん知らない人がいたよ。泉さん、やっぱりあの店を離れるのか。」
「違うわ。書店側も人が居なくて、まるっと一日人を貸し出せなくなったの。だから本社からの人間がヘルプでやってきたみたい。」
「高校生みたいだった。」
「ふふっ。私も会ったことがあるわ。でもあの人三十歳よ。」
「へぇ……。アレだと礼二さんが老けて見えるね。」
「礼二も別に老けてないわ。ただ、あの人だと厳しいわね。」
ただ見たことのある人だった。どこで見たのかは覚えていないが。
「返して。」
「え?」
「仕事をしたいの。」
言わなければ良かったと思う。伊織は頭をかいて、倫子を見る。
「仕事できるの?」
「明日の午前中までにプロットを送りたいの。リジェクトされるかもしれないと思えば、余裕を持ちたいし……。」
「……。」
「春樹の奥さんが見つけてくれたの。それは感謝している。その恩を私のやっていることは仇で返していることもわかってる。だけど止められないのよ。」
それだけ好きだった。愛がなんたるかもわからなかった倫子に、すべてを教えてくれた。
「だったら何で田島と……。」
「……何で政近が出てくるの?」
「あ……いや。何でも……。」
口を押さえた。しまった言うつもりはなかったのに。
「……仕方ないわね。確かにそうよ。政近とは色々あった。あなたとあまり変わらないのかもしれない。だけど、それはやっぱり私の気の迷いだったの。」
「それで済ませられるんだ。」
「もう寝ない。あなたともう寝ないように、政近と寝ることもない。」
だがやはりキスはしてしまった。のこのこと政近の家に行ってしまった自分も隙があったし、自分が弱かったからだ。
「仕事するわ。」
そういって倫子はテーブルを置いてあったポットに手をかけようとした。そのときその手を伊織は握る。
「辞めて。」
「辞めたくない。」
するとその手を引き寄せられた。思わず伊織の胸に倒れ込む。それを受け止めるように伊織は倫子を抱きしめた。
「離して。」
よじろうすればするほど、伊織は力ずくで抱きしめてくる。春樹ではないその体が、とても嫌だ。
「伊織。辞めて。」
「落ち着いたら離すから。」
片手で倫子の体を抱きしめて、片手で倫子の手を手にする。すると震えていた。
「あなたが離したら落ち着くわ。」
「ううん。震えている。倫子。ずっと自分を責めてたんだろう?」
その言葉に倫子は涙をこらえきれなかった。
「全部が全部自分のせいにしてた。この間、お兄さんが来たときにわかったよ。全部を倫子に背負わせている。田島はそれが許せなかったみたいだ。」
「伊織……。」
「倫子はいつも泉に言ってるよね。泉が悪かったことなんか一つもないって。俺には倫子が悪かったことなんか一つもない。なのに全部倫子のせいにしている。やっていることも、全部否定されて。」
「……同情ならいらない。」
もう涙声だった。そうしないと耐えきれなかったから。
「俺だと頼りにならないから?」
「好きじゃないから。」
「だったら、俺がずっと倫子を好きでいるよ。」
手にしたその手を握る。すると倫子もその手を握り返してきた。
そして少しその体を離すと、伊織は倫子の頬に手を添えた。倫子もその頬に手を添える。そしてゆっくりと唇が重なる。
優しいキスだった。強引に舌を割るわけでもない。ただ唇が触れるだけだった。そして伊織はそのまままた倫子を抱き寄せる。
そのときだった。
「ただいま。」
玄関の開く音がして、春樹の声がした。あわてて体を離すと、伊織がすぐに部屋を出ていった。
「お帰り。遅かったね。」
「うん。やっとごたごたが終わりそうだ。明日から通常業務。」
「大変だったね。」
「倫子は?」
「本を借りたいって。俺の部屋にいる。」
その言葉に少しいぶかしげな顔をした。第一今、倫子は本をゆっくり楽しむ暇はないはずだ。
コートを脱いで部屋に戻る。そのとき伊織の部屋から倫子が出てきた。
「あぁ。お帰りなさい。」
「ただいま。本を借りてたんだって?」
「えぇ。料理の本。」
そういって手に持っている「基礎の料理」という本だった。
「料理?」
「漫画の新連載。料理人が最初のターゲットだから、料理の詳しい用語を知りたくてね。」
「あぁ。そうだったのか。」
「知ると、普通にやってた事ってこんな名称があるのって思ったわ。つい、その場で読んでて。」
倫子らしい言葉だ。他意はないのだろう。だが気になるのは頬の赤みだ。
「暑かった?」
「伊織って寒がりなの?」
倫子がそう聞くと、居間を出てきた伊織は少し笑っていった。
「ほら、俺暑い国にいたし、寒いのは苦手なんだ。」
「そうね。でも適度に換気してね。部屋の中で倒れられても困るから。」
「わかってる。」
そういって伊織は部屋に戻っていく。そして倫子はポットと本を手にして、居間に戻った。
「食事を用意しようか?」
「あぁ、軽くで良いよ。会社で少し摘んできてね。」
「そう。肉じゃがだけど、どれくらい注ごうか?」
倫子はそういうと、台所へ向かう。そしてテーブルにポットと本を置くと、鍋を火にかける。すると春樹はその体を引き寄せた。
「危ないわ。火を使っているのよ。」
「キスさせて。」
「……。」
すると倫子はそのまま背伸びをして春樹の唇にキスをする。
「良い匂いがするな。お風呂に入った?」
「一番風呂よ。さっき伊織が入ったみたいだから、さっさと食べてはいらないと冷めちゃうわね。」
「泉さんは?」
「礼二のところへ行ったわ。今日は帰らないみたい。」
「この間さ。」
「ん?」
気になることがあった。「book cafe」へ行ったときのことだった。
「ぜんぜん知らない人がいたよ。泉さん、やっぱりあの店を離れるのか。」
「違うわ。書店側も人が居なくて、まるっと一日人を貸し出せなくなったの。だから本社からの人間がヘルプでやってきたみたい。」
「高校生みたいだった。」
「ふふっ。私も会ったことがあるわ。でもあの人三十歳よ。」
「へぇ……。アレだと礼二さんが老けて見えるね。」
「礼二も別に老けてないわ。ただ、あの人だと厳しいわね。」
ただ見たことのある人だった。どこで見たのかは覚えていないが。
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