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移気
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さっきから真矢は春樹の方を見ていない。視線を合わせようとしていないのだ。おそらくこの間、真矢が春樹の体に体を寄せたことを真矢はずっと気にしていているのだろう。
そんなことを気にしなくてもいいのに。春樹はそう思いながら、紙袋から缶詰を取り出した。
「これをお返しに。」
真矢の手に置いたのは、物産館で売られていたあの街で若い人が加工をしているシーチキンだった。
「これ、美味しいわよね。」
「そのまま湯切りしなくて食べれるそうだ。つまみになるよ。」
「いいの?おうちの方に買って帰ったんじゃないの?」
「いいや。電車の中で食べようかと思っていたんだけど、母が持たせてくれたものが結構多くてね。そこまで手が回らなかったんだ。母親っていうのは、いつまでたっても高校生くらいだと思っているのかな。」
そう言って春樹は愚痴をこぼすと、真矢は少し笑った。
「若く見えるわ。私と同級生には見えないもの。」
「芦刈さんも若いよ。」
「え?」
どきっと心臓が高鳴るのを感じた。ますます春樹の方をみれない。
「声をかけてくれる人もいるだろう。昔のことを忘れるいい方法は、新しい人に目を向けることだよ。君は言葉が足りないところがあるから、もっと話し合えばいい。」
不倫をしていたことを言ったことがある。だからそれを忘れられないとでも思っているのだろうか。その言葉を春樹の口から聞くのが、どれだけ自分を惨めにしているのか、春樹にはわからないだろう。
「そうね。良い人が居たら……。」
真矢は自分でそう言って涙をこぼしそうになった。顔を赤くさせて、それを耐える。すると春樹はその頭に手を乗せる。そして小さな子供にするように撫でた。
「誰にでも幸せになる権利はあるよ。そのためには前に進まないとね。」
倫子はずっと立ち止まっている。だから、春樹が前に進ませたいと思った。そのきっかけがあの官能小説だった。
うまくいって良かったと思う。
「ごめんなさいね。立ち話で。お茶でも出せば良かったんだけど。」
「仕事でもないのに、一人暮らしの女性の部屋に入り込むようなまねはしないよ。」
「紳士なのね。でも……。」
「何?」
「……私は、そんなあなたに甘えていたのね。」
ずっと真矢は言いたかったことなのだろう。だからずっと目も合わせなかったのだ。
「ごめんなさい。この間。」
「酔っていたんだよ。この歳になったら酔った失敗の一つや二つはあるだろう?通り過ぎればネタになる。」
酔った過ちだった。そう言ってくれる春樹は優しいのか、無神経なのかわからない。
「酔わないの。私。」
「……。」
「いくら飲んでも酔ったって感覚がなくて。だから……。」
すると春樹は首を横に振った。そして真矢を見下ろす。
「だったら初めて酔っぱらったんだよ。そうした方が良い。」
酔った過ちだったと思わせたかった。これ以上踏み込ませてはいけない。倫子のためにも。
「藤枝さん……私……誤魔化したくないの。」
「だったらその気持ちには答えられない。」
わざと突き放した。そうやって真矢を諦めさせたかったのだ。
「……藤枝さんは昔と変わらないのね。優しい。」
真矢はそう言って涙をこぼした。すると春樹はその頬に手を添える。
「目が腫れるよ。明日も仕事だろう?」
「うん……。」
その指の感覚が、愛しかった。ずっと触れたいと思っていたのだ。図書館の受付に座っていて、本の受け渡しをするときに手が触れる。それだけで嬉しかったはずだった。
「もう、俺からは連絡をしない。」
春樹は確かにそう言った。だがその頬に添えられた手を避けない。
少しずつ、真矢は春樹に近づいていく。そして春樹もその体を引き寄せようとした。そのときだった。
春樹の視線の方から光が近づいてくる。それが見えて、さっと手を避けた。自転車に乗った人が道を通り過ぎる。それを見て、二人は息をついた。
「ありがとう。これ。」
「うん……。」
「じゃあ、お休み。」
「おやすみなさい。」
春樹はそう言ってドラッグストアの方へ向かっていってしまう。その後ろ姿を消えるまで見送り、真矢は家へ帰っていく。
玄関の鍵をかけると、その廊下にしゃがみ込んだ。缶詰が転がっていく。
「……。」
また同じ事をしている。真矢はそう思いながらも、自分の頬に手を当てる。熱い。ここに春樹が手を添えたのだ。煙草の匂いがした。あの不倫をしていたあの男とは違う匂い。
そしてその自分に引き寄せようとする力があった。
「もう、俺からは連絡をしない。」
そう言ったはずだった。なのに春樹は真矢を引き寄せようとしたのだ。
「男はやりたいだけなんだから。」
いつか女友達がいっていた。その女友達の彼氏と寝たこともある。それが知られて、男とも友達も失った。
春樹もしたいだけなのだろうか。無駄に大きな胸を持っているのだ。すぐにさせてくれるとでも思っているから、引き寄せようとしたのだろうか。
そんな簡単な感情で終わらせたくない。
家に帰ってくると、居間には伊織の姿しかなかった。伊織は、テレビを見ながらお茶を飲んでいるようだった。
「お帰り。」
「ただいま。」
春樹はそう言って台所へ向かう。実家から持って帰ったものと、真矢からもらったものを冷蔵庫に入れるためだった。
「あれ?倫子も泉さんも居ないの?」
居間に帰ってくると、伊織はコップを置いていった。
「倫子は風呂にさっさと入って部屋に閉じこもったし、泉はまだ帰ってきてないな。もうすぐ帰ってくるんじゃない?今日、泊まるとはいってなかったし。」
時計を見ると、確かに少し遅いとは思うがこれくらい遅くなることは良くあることだ。特に今は、書店の方がまだばたばたしているのだろう。
「明日、実家から魚を送ってくるよ。」
「マジで?刺身に出来る感じ?」
「だと思うよ。もう少しでぶりは刺身に出来なくなるし、今のうちに食べよう。」
「ぶりか。なんかめでたい感じだね。」
「四十九日だったのに?」
少し笑って、伊織はまたお茶に口を付ける。
「……ニュース見た?」
「あぁ。青柳が送っていたあの国の売春宿の実体だろ?」
「あの子が死んだ所もあんな感じだったよ。不衛生でさ。臭かった。それでもあの子は、客を取る為っていって出来る限りのことをしていたみたいだ。」
「……。」
「売春が良いとは思わないけど、それしか生きる道はなかったんだろうね。環境のせいなんかにしたくないけれど、結局環境なんだ。」
「……無くなることはないよ。国を変えなければ、人も変わらない。」
春樹はそう言ってテレビを見る。おそらく伊織は見たくなかったのだろう。普段はつけていないバラエティー番組が笑いを誘っていた。
そんなことを気にしなくてもいいのに。春樹はそう思いながら、紙袋から缶詰を取り出した。
「これをお返しに。」
真矢の手に置いたのは、物産館で売られていたあの街で若い人が加工をしているシーチキンだった。
「これ、美味しいわよね。」
「そのまま湯切りしなくて食べれるそうだ。つまみになるよ。」
「いいの?おうちの方に買って帰ったんじゃないの?」
「いいや。電車の中で食べようかと思っていたんだけど、母が持たせてくれたものが結構多くてね。そこまで手が回らなかったんだ。母親っていうのは、いつまでたっても高校生くらいだと思っているのかな。」
そう言って春樹は愚痴をこぼすと、真矢は少し笑った。
「若く見えるわ。私と同級生には見えないもの。」
「芦刈さんも若いよ。」
「え?」
どきっと心臓が高鳴るのを感じた。ますます春樹の方をみれない。
「声をかけてくれる人もいるだろう。昔のことを忘れるいい方法は、新しい人に目を向けることだよ。君は言葉が足りないところがあるから、もっと話し合えばいい。」
不倫をしていたことを言ったことがある。だからそれを忘れられないとでも思っているのだろうか。その言葉を春樹の口から聞くのが、どれだけ自分を惨めにしているのか、春樹にはわからないだろう。
「そうね。良い人が居たら……。」
真矢は自分でそう言って涙をこぼしそうになった。顔を赤くさせて、それを耐える。すると春樹はその頭に手を乗せる。そして小さな子供にするように撫でた。
「誰にでも幸せになる権利はあるよ。そのためには前に進まないとね。」
倫子はずっと立ち止まっている。だから、春樹が前に進ませたいと思った。そのきっかけがあの官能小説だった。
うまくいって良かったと思う。
「ごめんなさいね。立ち話で。お茶でも出せば良かったんだけど。」
「仕事でもないのに、一人暮らしの女性の部屋に入り込むようなまねはしないよ。」
「紳士なのね。でも……。」
「何?」
「……私は、そんなあなたに甘えていたのね。」
ずっと真矢は言いたかったことなのだろう。だからずっと目も合わせなかったのだ。
「ごめんなさい。この間。」
「酔っていたんだよ。この歳になったら酔った失敗の一つや二つはあるだろう?通り過ぎればネタになる。」
酔った過ちだった。そう言ってくれる春樹は優しいのか、無神経なのかわからない。
「酔わないの。私。」
「……。」
「いくら飲んでも酔ったって感覚がなくて。だから……。」
すると春樹は首を横に振った。そして真矢を見下ろす。
「だったら初めて酔っぱらったんだよ。そうした方が良い。」
酔った過ちだったと思わせたかった。これ以上踏み込ませてはいけない。倫子のためにも。
「藤枝さん……私……誤魔化したくないの。」
「だったらその気持ちには答えられない。」
わざと突き放した。そうやって真矢を諦めさせたかったのだ。
「……藤枝さんは昔と変わらないのね。優しい。」
真矢はそう言って涙をこぼした。すると春樹はその頬に手を添える。
「目が腫れるよ。明日も仕事だろう?」
「うん……。」
その指の感覚が、愛しかった。ずっと触れたいと思っていたのだ。図書館の受付に座っていて、本の受け渡しをするときに手が触れる。それだけで嬉しかったはずだった。
「もう、俺からは連絡をしない。」
春樹は確かにそう言った。だがその頬に添えられた手を避けない。
少しずつ、真矢は春樹に近づいていく。そして春樹もその体を引き寄せようとした。そのときだった。
春樹の視線の方から光が近づいてくる。それが見えて、さっと手を避けた。自転車に乗った人が道を通り過ぎる。それを見て、二人は息をついた。
「ありがとう。これ。」
「うん……。」
「じゃあ、お休み。」
「おやすみなさい。」
春樹はそう言ってドラッグストアの方へ向かっていってしまう。その後ろ姿を消えるまで見送り、真矢は家へ帰っていく。
玄関の鍵をかけると、その廊下にしゃがみ込んだ。缶詰が転がっていく。
「……。」
また同じ事をしている。真矢はそう思いながらも、自分の頬に手を当てる。熱い。ここに春樹が手を添えたのだ。煙草の匂いがした。あの不倫をしていたあの男とは違う匂い。
そしてその自分に引き寄せようとする力があった。
「もう、俺からは連絡をしない。」
そう言ったはずだった。なのに春樹は真矢を引き寄せようとしたのだ。
「男はやりたいだけなんだから。」
いつか女友達がいっていた。その女友達の彼氏と寝たこともある。それが知られて、男とも友達も失った。
春樹もしたいだけなのだろうか。無駄に大きな胸を持っているのだ。すぐにさせてくれるとでも思っているから、引き寄せようとしたのだろうか。
そんな簡単な感情で終わらせたくない。
家に帰ってくると、居間には伊織の姿しかなかった。伊織は、テレビを見ながらお茶を飲んでいるようだった。
「お帰り。」
「ただいま。」
春樹はそう言って台所へ向かう。実家から持って帰ったものと、真矢からもらったものを冷蔵庫に入れるためだった。
「あれ?倫子も泉さんも居ないの?」
居間に帰ってくると、伊織はコップを置いていった。
「倫子は風呂にさっさと入って部屋に閉じこもったし、泉はまだ帰ってきてないな。もうすぐ帰ってくるんじゃない?今日、泊まるとはいってなかったし。」
時計を見ると、確かに少し遅いとは思うがこれくらい遅くなることは良くあることだ。特に今は、書店の方がまだばたばたしているのだろう。
「明日、実家から魚を送ってくるよ。」
「マジで?刺身に出来る感じ?」
「だと思うよ。もう少しでぶりは刺身に出来なくなるし、今のうちに食べよう。」
「ぶりか。なんかめでたい感じだね。」
「四十九日だったのに?」
少し笑って、伊織はまたお茶に口を付ける。
「……ニュース見た?」
「あぁ。青柳が送っていたあの国の売春宿の実体だろ?」
「あの子が死んだ所もあんな感じだったよ。不衛生でさ。臭かった。それでもあの子は、客を取る為っていって出来る限りのことをしていたみたいだ。」
「……。」
「売春が良いとは思わないけど、それしか生きる道はなかったんだろうね。環境のせいなんかにしたくないけれど、結局環境なんだ。」
「……無くなることはないよ。国を変えなければ、人も変わらない。」
春樹はそう言ってテレビを見る。おそらく伊織は見たくなかったのだろう。普段はつけていないバラエティー番組が笑いを誘っていた。
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