守るべきモノ

神崎

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 思わず熱くなってしまった。そう反省しながら、春樹はオフィスに戻っていく。
 春樹はここに入社したとき、ずいぶん厳しい先輩についた。取材をすると言って、何日も張り込んだ。徹夜が続いてつい眠くなり、目を閉じたときに肝心なところを写真に収め損ねた時は、具宇野寝も出ないほど怒鳴られたのだ。
 見かねて読み物のコーナーへ移動になり、担当の作家の原稿を受け取りに行ったらなんだかんだと丸め込まれ、原稿を持たずに帰ってくる。すると今度は殴られたあと、印刷所に頭を下げに行った。
 何でも器用にこなしていたわけではない。春樹だって相当失敗をした。やっと使えるようになったと言われて、「淫靡小説」に移動になったときには後輩が出来た。
 同期の夏川英吾も一緒で、夏川はヌルいことしか言わないと内心呆れていた。そして指導されたように春樹は後輩を指導する。すると指導をしていた後輩が、次々と退職届や移動の希望を出しているのをみた。
 夏川から聞いた話だと、もう一歩でパワハラだと言われかねなかったらしい。奇しくもほかの企業でパワハラやブラック企業のことをクローズアップした時代だった。だったら今まで自分が受けた指導は何だったのだろう。そう思いながら仕事をこなしていた。
 そんなときに移動の話がきた。当時「月刊ミステリー」はあまり部数が上がっていなくて、お荷物だと言われていたところだった。それを聞いて「あぁ、退職に追い込もうとしているな」と思ったが、やれることをやるだけだと気合いを入れて望んだ。
 そこでの編集長はやはりたたき上げの編集長で、部下が続かないように思えた。春樹も相当やり込められたが、必死に食らいついて過ごしてきた。
 そんなとき入社したばかりの加藤絵里子、そして移動されてやってきた青柳未来がやってきた。絵里子は割と器用に仕事をこなしていたが、未来はその辺が不器用だ。良く編集長から怒鳴られているところをみた。
「次をがんばればいい。同じミスをしないように。ほら、泣く暇があったら作家先生に連絡をするんだ。明後日までに仕上がるかどうか確認をして。」
 やんわりと自分の思ったようにし向ける。その技を身につけたのは未来がきっかけだったのかもしれない。飴と鞭を使い分けるのだ。
 それがわかっていたはずなのに、今日はどうしても我慢できなかった。
 パソコンが起動してメッセージを確認する。月刊漫画雑誌ほどではないが、こちらにもクレームのメッセージが来ていた。SNSで呟いたことは消せても、ネット上には残ることがある。特に、叙述トリックは読者を裏切らせるのが醍醐味で、それを先にばらされてはたまったものではないだろう。
 月刊漫画雑誌の来月号の部数が落ちるのは目に見えている。せっかく面白くなってきたのにと思うと、いらいらしてくる。
「藤枝編集長。」
 オフィスにやってきた男が、春樹の元に近づいてくる。春樹とは一年違いの先輩になるのだが、ここの部署の編集長になったのはつい最近だった。そして雑誌の方向性も少し変えてきている。
「どうしました。」
「うちのが迷惑をかけてすいません。浜田が余計なことを……。」
「きつく言いました。」
 今は春樹が丸くなったと思うが、当初は後輩が春樹に恐怖心を抱いていた。案外怖い男なのだ。浜田は相当気落ちしているはずで、内心良い気味だと思う。
「それで今夜ですけど、小泉先生と田島先生に詫びにいこうと思っていて、小泉先生の連絡先を聞きたいのですが。」
「あぁ……。」
 パソコンのアドレス帳を呼び出すと、そのパソコンのアドレスをメモした。そしてそれを男に手渡す。
「自宅にはいらっしゃらないと言っていました。パソコンのアドレスでも連絡が付きますかね。」
「いない?」
 また取材とか資料集めに行っているのだろうか。いや、だいぶ資料は集まっているはずだ。今はずっと執筆をしている。家にいないことはないと思うのに。
「えぇ。ぎりぎりですけど、原稿を差し替えたいと申し出られましてね。田島先生のところにいるみたいです。今回のことはこちらの責任ですし、印刷所にストップをかけてもらいました。今日の十二時までならとの条件で。」
「……間に合いそうですか?」
「何とかします。こちらも尻拭いが必死ですよ。」
 ずっと増刷が続いて大変だったはずだ。なのにこんなことになったのだ。男の目の下には薄くクマが出来ている。
「佐伯編集長。これを。」
 春樹はそういってデスクの下の引き出しから、ドリンク剤を取り出した。
「いただけるんですか。」
「えぇ。ちょっと良いヤツですよ。結構それは効きます。」
「ありがとう。では。」
 そういって男はオフィスを出て行った。だが春樹の心にまた嵐が吹き始めた。
 政近のところにいるという。家は知られたくないだろうし、ほかの住人に迷惑がかかるというのもわかる。だがもやっとするものがあった。
 仕事にかこつけて、政近がまた倫子を抱いたりしないだろうか。

 下書きをした原稿にペンを入れる。そしてその原稿に書かれている下書きの鉛筆の線を倫子が消していくのだ。
「あとベタ塗りとかは出来るだろ?」
「トーンは?」
「トーンはデジタル。デジタルで出来ることは最低限で居たいんだ。」
 一枚の原稿に相当手間がかかっているな。倫子はそう思いながら、消しゴムをかけていく。この消しゴムも原稿が破れないように、でも良く消えるようにと厳選したものらしい。鉛筆も、ペンも、すべてが拘っている。
 ちらっと部屋の隅に置かれている箱詰めの菓子に目をおいた。先ほど月刊漫画雑誌の編集長が、詫びにここへきたのだ。原稿を手伝っている倫子の姿を見て少し驚いたようだが、二人で作っている作品なのだ。原作だけを考えるのが、仕事ではないと倫子は言っていたのを覚えている。
 どんな作品でも心を込めないものはないのだろう。
「よし。こっち乾いたな。そっち者宣してるところはベタ塗っておいてそこで乾かして。次こっち。」
 原稿の差し替えは五ページ。その中には浜田が却下した殺人シーンがある。編集長に見せたところ、「問題はない」と言われて描いたのだ。何をそんなに慎重になっていたのだろう。
 パソコンを立ち上げて、スキャンした原稿にトーンを張っていく。あのペンタブレットは、見たことがある。それは伊織が使っているのと同じものだった。
「政近。ここもベタ塗るの?」
 原稿を指さして政近に聞く。すると政近はパソコンのいすから降りて、床に直に座っている倫子に近づいた。
「あ、そこ良いわ。消しておいて。」
「わかった。」
 いつもと違い髪を結んでいる。動きやすいようにしているのだろう。後ろから見ると白いうなじと、火傷のあと、そして入れ墨が見える。そのうなじにそっと近づくと、政近は唇を這わせた。
「何?」
 驚いて、政近の方を見る。すると意地悪そうに政近は笑った。
「十二時までってことは、終電もねぇよな。泊まっていけよ。」
「タクシーで帰るわ。」
「別に良いだろ?知らない仲じゃないんだし。それが終わったら、楽しみだな。」
 コンドームを買っておいて良かった。だが使うだろうか。
 汚したい。この声も、体も、全部自分で染めたいと思う。
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