守るべきモノ

神崎

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 窓の外は少しずつ高い建物が増えていく。真矢が勤める図書館は、春樹たちが勤める会社より歩いていける町中にあるのだ。おそらく春樹もそこへ行ったことがあるが、真矢の姿には気がついていなかっただろう。
「あの図書館は確かに蔵書が多いみたいだけれど、ずっとあそこにいたの?」
 すると真矢は首を横に振る。
「国立にいたの。三十になってこっちに帰ってきたんだけど。」
「立派な経歴だね。でも見切りを付けてこっちに帰ってきたんだ。」
 ため息をついて真矢は口を開く。あまり言いたくなかったが、春樹は不倫をしていたことを告白した。これで自分のことを何もいわないのは自分が卑怯だと思う。
「あっちの街で、大学を卒業して図書館にいたわ。それまでずっと男の人は嫌いだったの。胸ばかり見られて。」
 確かにあまり強調していないが、真矢も姉の真優と同じくらいスタイルが良い。そして美人だと思う。眼鏡で隠しているだけだ。
 それに気がつかない男もバカだと思う。
 だが働き出せば、真矢の魅力に気がつく人もいるだろう。唯一の娯楽はお酒と本で、お気に入りのバーで本を片手にお酒を週末飲んでいた。そこに声をかけたのは、近くの輸入業をしている会社のサラリーマンだった。真矢とは一回り上の男で、本が好きで、誘いの文句だって真矢が好きな本の舞台になった場所を見に行こうという、何とも味家のない言葉だった。
「付き合って一年目にやっとキスをした。何もかもが初めてだったし、私もその人以外を見てなかった。」
 このまま結婚すると思っていた。なのに、三年目に突入したときやっとわかったことがある。その男は出張でこっちに来ているだけで、地元には妻や子供が居たのだ。
 意識はしていないにしても不倫をしていた。
「別れてから自棄になってた。妻子持ちとか、友達の彼氏とか、そんな人とばかり付き合ってて。結局私も姉と同じね。」
 卑下してみていた。計画性が無く子供を作った姉が地元に帰ってきたと聞いて、「やっぱりそうなった」と思っていたのに、自分もその道を歩んでいるように感じた。
「だから、離れることにしたの。土地を変えて、もう自分だけの生活をしたいって。」
 不倫をしていたことに嫌悪感を示したのは、そのためだったのだ。春樹はそう思って、真矢をみる。恋愛に対して、希望を持っていない。それがきっと倫子と少しかぶった。
「俺も不倫になるよ。」
「……。」
「作家の先生と妻が生きているときから体の関係があった。ネタのためだといいわけをして、誰にも言えないことをしてた。」
「ネタ?」
「どうしても……彼女の作品には血が通っていないと思った。作品の中で人が死ぬのも、セックスをするシーンも、情がない。今はそれが人気になっているのかもしれないけれど、いずれ飽きられる。担当している身としては、そういう風になって欲しくないと思うんだ。」
 一人の作家にそこまで尽くすわけがない。きっと徐々に感情が移ってきたのだろう。
「その作家って……私が好きな作家ね。」
「さっきそう言っていた。」
 小泉倫子なのだ。そして春樹はその倫子の家に間借りをしている。他に同居人がいるにしても、春樹は同棲しているのだ。
「不倫がうまくいくわけがないわ。」
「君の経験から?」
「えぇ。調子の良いことをいって結局セックスをしたいだけだから。」
「体だけなら、一緒にいたいとは思わないよ。」
「……。」
「セックスだけなら、そういう割り切った相手を作ればいい。俺も昔はそうしてた。」
「セックスだけの相手?」
「意外といるものだよ。」
 今はどうなっているのかわからない相手だ。そして今考えると、自慰をするのと変わらない存在だと思う。
「君ならすぐに捕まりそうだね。」
「嫌な感じね。」
 体がコンプレックスだった。胸が大きいのが、地味そうなのに遊んでいると思われていたのだ。
「体だけじゃないんだ。かといって彼女を取り巻く環境でもない。結局、心なんだよ。」
 離れたくないし、渡したくもない。この三日間、伊織と一緒にいたと言うだけで嫉妬する。何事もなければいいのだが、倫子は案外流されやすい。

 まさか最寄り駅まで一緒だと思っていなかった。春樹と真矢はそこで別れる。その前に連絡先を交換した。
「連絡することがあるのかしら。」
「わからないよ。でも無いとは言えないだろう。」
「そうね。」
 真矢はそう言って荷物を抱えて駅を離れていく。
 その後ろ姿を見て、春樹は少しため息をついた。すんなり不倫をしていたということを告白できた自分に戸惑っているのだ。
 話しやすい人だと思っていた。そして無理をしなくても良い相手だと思う。正直に話して貰うには、自分が正直にならないといけない。
 春樹はそれをわかっていたはずなのに、倫子との関係はまだ壁がある。まだ話せない事情があるからだ。
「春樹さん。」
 後ろから声をかけられた。そこには伊織の姿がある。
「伊織君。」
「同じ電車だったんだね。」
「どこかへ行っていたの?」
「ペンタブのペンが壊れてね。必要だったし、買いに行ってた。時間があればネットでもいけるんだろうけど、今すぐ必要だったし。」
「そうだね。それがないと仕事が出来ないだろう。」
「うん。まっすぐ帰るんなら、その荷物、何か持とうか?」
「いいの?遠慮しないよ。」
「俺の荷物これだけだし。」
 いつもよりも軽装だ。ワンショルダーのバッグを持っているだけで、両手はあいている。
「じゃあ、こっちの荷物を持って貰おうかな。」
 そう言って持っていたバッグを差しだそうとした。だが伊織は発泡スチロールの方を手にする。
「いいの?そっち重いよ。」
「大丈夫。意外と力があるから。」
「頼もしいな。」
 そう言って春樹は、伊織とともに帰り道を歩く。
「実家はどうだった?倫子を連れて行ったんだろう?」
「俺のお祖母さんが翻訳の仕事をしていた関係で、洋書があるって食いついてきたけどさ……。ほとんどポルノ小説だった。」
「ポルノ?」
 驚いて春樹は伊織をみる。
「それでも表現の勉強になるからって、倫子は借りていったよ。」
「こっちではあまりみないな。俺も見せて欲しい。」
 こうしてずっと誤魔化していていいのだろうか。伊織はそう思いながら、足を進めていたが首を横に振る。
「春樹さん。」
「何?改まって。」
 すると伊織は足を止めて春樹に向かい合う。
「俺、倫子が好きだ。」
「……本気で言ってる?」
「うん。やっぱり……自分の気持ちを誤魔化せない。」
「……倫子は何も思っていないよ。」
「それでも俺……。」
「駄目。何を言っても駄目だよ。君、あの家を追い出されたいの?」
「追い出されても倫子の気持ちがとぎれることはないよ。」
「……。」
 ここまで強気で言うことがあっただろうか。この二、三日で何かあったのだろう。
「俺、遠慮しない。言っておくけど、春樹さん。」
「何?」
「俺に脅しは利かないから。田島と一緒にしないで。」
 そんな表情を初めて見た。思わず立ちすくんでしまった春樹を後目に、伊織は家を目指す。
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