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電話を切って伊織はため息を付く。初めてまともに話したかもしれない、泉の上司である川村礼二。三十近くの年代で、ずっと接客をしていた。礼儀も言葉遣いも何の違和感もないし、一般的な常識のある男だと思った。
だがあの男が泉を襲った。レイプするように処女を奪ったのだ。それがきっかけなのかはわからない。だが泉は少しずつ、礼二を意識しているように思えた。
「伊織。泉は大丈夫なの?」
すると伊織は電話を手にしたまま倫子に言う。
「あっちの店長さんが送ってくれるらしい。」
「店長って……あなた、誰だかわかってるの?泉をレイプしたような男よ。あー。ダメダメ。やっぱり迎えに行くわ。」
そういって倫子は、自分の部屋に戻ろうとした。だが伊織がそれを止めるように、倫子の二の腕をつかんだ。
「何?」
「他にもいるらしい。泉一人を送る訳じゃないよ。車を持っている人は、手分けをして送っているみたいだ。」
「何だ。そうなの。一人じゃないのね。」
ほっとした。倫子はそう思いながら、胸をなで下ろす。
「お茶でも入れようかしら。」
「倫子はまだ仕事が残ってる?」
「うん。もう少し修正するわ。明日、納品ね。」
「で、また締め切りがあると。」
「年末は仕方ないわ。あなたもそうでしょう?」
「最近、チョコレートのことしか頭にないよ。それから春のデザートと。」
「菓子職人じゃないんだから。」
うまく誤魔化した。本当は多人数いるのかわからない。二人きりかもしれない。だったら、きっとあの男は泉に手を出してくる。
きっと泉もそれを望んでいるのだから。そう思うのに、どこか胸のあたりにもやもやしたものが残る。
部屋にあがりたくなくて、玄関先で待っていた。だが礼二は引きずるように泉を部屋に入れる。シンプルな部屋だった。ダイニングテーブルとソファーの前にはローテーブル。棚はあるが空になっていた。おそらく奥さんが持って行ったのだろう。
「引っ越ししたいって言ってましたね。」
「うん。ここはやっぱり駅に近いし、家賃高いしね。一人なら住むところ何かこだわらないよ。」
倫子が大学の時に住んでいた部屋を思い出した。逐年数は相当経っているような下宿屋みたいな所で、六畳一間。ミニキッチンだけが付いていて、トイレは共同、風呂は歩いて五分の所に銭湯がある。ベランダはなく、共同での物干し台があるだけだった。
いくらこだわらないと言ってもそんなところには住まないだろう。第一、女性を連れ込めない。小綺麗にしているから、泉を呼ぼうと思ったのだ。そしてきっとまた寝ようとでも思っているのかもしれない。
「阿川さんの住んでるところの近くって住宅街だっけ。」
「そうですね。近くに家もあるし、アパートもありますよ。」
「その辺でも良いな。」
「電車通勤になりますよ。」
「まぁ、車があるし、別に電車じゃなくても良いけど。」
そういって礼二は、引き出しから鍵を取り出す。
「じゃあ、行こうか。」
何もしなかった。泉は少しほっとしたが、その分、もやもやした気分になった。手を繋いだが、それを引き寄せることはない。キス一つする事もなく、部屋を出ていく。望んだことだ。なのに何か胸に残る。
靴を履いて、外に出ようとしたときだった。後ろから腕が伸びてくる。
「え……。」
泉が声を上げる前に顔を横に向かせると、そのまま唇を重ねた。ちゅっという軽い音がして、思わず泉の動きが止まる。
「辞めてください。」
だが一瞬だった。泉は後ろに立っていた礼二の体を押しのけると、玄関を出ようとした。だがその手にも手を重ねてくる。
「離れたくない。」
その言葉が胸を締め付ける。この人ではない。恋愛感情なんかない。なのにその手を拒否できない。
泉の理想は無理矢理抱くような男じゃない。細くて、スマートで、あの半纏の中の温もりだったはずなのに、奥さんが居ても浮気をするような母のような真似は絶対しないと思っていたのに、その手を振り払えなかった。
「店長……。」
「今は店長って辞めて。」
その言葉に泉の頬が赤くなる。やはり寝るつもりなんだと思う。だが肝心の言葉が出てこない。泉は少し戸惑っていた。
「どうしたの?」
「……名前……。」
「ん?」
「何でしたっけ。牧緒のお兄さんてことは知ってたんですけど……。」
がっくりと肩を落とす。そんなことも知らなかったのだ。だが知らなければ教えればいい。ずっとそうやって泉に接してきたのだ。
「礼二。」
「……礼二さん。」
初めて名前を呼ばれた気がする。そこまで関心がなかったのだ。だが関心は持ってもらえばいい。
「泉。さんはいらない。」
「何で私の名前……。」
「ずっと覚えてた。初めましてって言われたときから。」
ドアノブに触れていた手を握ると、こちらを振り向かせた。そして玄関ドアに泉の体を押しつける。そしてそのまままた唇を重ねた。
「口を開けて。」
お互いにコーヒーの匂いがする。アルコールの匂いなんかしなかった。夢中でその舌を味わう。慣れていないキスも、震える体も、全てが愛しいと思った。
「したいな。」
「嫌です。早く帰るって言ったし……。」
家では伊織が待っている。帰らなければ心配するだろう。
「だったら明日、終わったらここに来て。」
「……嫌です。」
「迎えにいく。」
「店長……駄目です。やっぱり……。あの……。」
その言葉に礼二はまた無理矢理、唇を重ねる。そして少し微笑むと、泉に言った。
「名前で呼んでっていったよね。」
「……礼二。ここでは嫌です。」
「何で?」
「……奥さんの跡が見えるから。」
全部持って行ったはずだった。持って行かないものは処分したはずだった。だが至る所に残っているらしい。それは匂いだ。
この部屋には赤ちゃんがいたことがある。だからその乳臭いような匂いなんかが残っているのだろう。
「そっか……。だったら嫌かな。」
わかってもらえた。泉はそう思って体を離す。
「明日、迎えに行くよ。」
その言葉に泉はため息を付いた。やっぱり何もわかっていなかったからだ。
だがあの男が泉を襲った。レイプするように処女を奪ったのだ。それがきっかけなのかはわからない。だが泉は少しずつ、礼二を意識しているように思えた。
「伊織。泉は大丈夫なの?」
すると伊織は電話を手にしたまま倫子に言う。
「あっちの店長さんが送ってくれるらしい。」
「店長って……あなた、誰だかわかってるの?泉をレイプしたような男よ。あー。ダメダメ。やっぱり迎えに行くわ。」
そういって倫子は、自分の部屋に戻ろうとした。だが伊織がそれを止めるように、倫子の二の腕をつかんだ。
「何?」
「他にもいるらしい。泉一人を送る訳じゃないよ。車を持っている人は、手分けをして送っているみたいだ。」
「何だ。そうなの。一人じゃないのね。」
ほっとした。倫子はそう思いながら、胸をなで下ろす。
「お茶でも入れようかしら。」
「倫子はまだ仕事が残ってる?」
「うん。もう少し修正するわ。明日、納品ね。」
「で、また締め切りがあると。」
「年末は仕方ないわ。あなたもそうでしょう?」
「最近、チョコレートのことしか頭にないよ。それから春のデザートと。」
「菓子職人じゃないんだから。」
うまく誤魔化した。本当は多人数いるのかわからない。二人きりかもしれない。だったら、きっとあの男は泉に手を出してくる。
きっと泉もそれを望んでいるのだから。そう思うのに、どこか胸のあたりにもやもやしたものが残る。
部屋にあがりたくなくて、玄関先で待っていた。だが礼二は引きずるように泉を部屋に入れる。シンプルな部屋だった。ダイニングテーブルとソファーの前にはローテーブル。棚はあるが空になっていた。おそらく奥さんが持って行ったのだろう。
「引っ越ししたいって言ってましたね。」
「うん。ここはやっぱり駅に近いし、家賃高いしね。一人なら住むところ何かこだわらないよ。」
倫子が大学の時に住んでいた部屋を思い出した。逐年数は相当経っているような下宿屋みたいな所で、六畳一間。ミニキッチンだけが付いていて、トイレは共同、風呂は歩いて五分の所に銭湯がある。ベランダはなく、共同での物干し台があるだけだった。
いくらこだわらないと言ってもそんなところには住まないだろう。第一、女性を連れ込めない。小綺麗にしているから、泉を呼ぼうと思ったのだ。そしてきっとまた寝ようとでも思っているのかもしれない。
「阿川さんの住んでるところの近くって住宅街だっけ。」
「そうですね。近くに家もあるし、アパートもありますよ。」
「その辺でも良いな。」
「電車通勤になりますよ。」
「まぁ、車があるし、別に電車じゃなくても良いけど。」
そういって礼二は、引き出しから鍵を取り出す。
「じゃあ、行こうか。」
何もしなかった。泉は少しほっとしたが、その分、もやもやした気分になった。手を繋いだが、それを引き寄せることはない。キス一つする事もなく、部屋を出ていく。望んだことだ。なのに何か胸に残る。
靴を履いて、外に出ようとしたときだった。後ろから腕が伸びてくる。
「え……。」
泉が声を上げる前に顔を横に向かせると、そのまま唇を重ねた。ちゅっという軽い音がして、思わず泉の動きが止まる。
「辞めてください。」
だが一瞬だった。泉は後ろに立っていた礼二の体を押しのけると、玄関を出ようとした。だがその手にも手を重ねてくる。
「離れたくない。」
その言葉が胸を締め付ける。この人ではない。恋愛感情なんかない。なのにその手を拒否できない。
泉の理想は無理矢理抱くような男じゃない。細くて、スマートで、あの半纏の中の温もりだったはずなのに、奥さんが居ても浮気をするような母のような真似は絶対しないと思っていたのに、その手を振り払えなかった。
「店長……。」
「今は店長って辞めて。」
その言葉に泉の頬が赤くなる。やはり寝るつもりなんだと思う。だが肝心の言葉が出てこない。泉は少し戸惑っていた。
「どうしたの?」
「……名前……。」
「ん?」
「何でしたっけ。牧緒のお兄さんてことは知ってたんですけど……。」
がっくりと肩を落とす。そんなことも知らなかったのだ。だが知らなければ教えればいい。ずっとそうやって泉に接してきたのだ。
「礼二。」
「……礼二さん。」
初めて名前を呼ばれた気がする。そこまで関心がなかったのだ。だが関心は持ってもらえばいい。
「泉。さんはいらない。」
「何で私の名前……。」
「ずっと覚えてた。初めましてって言われたときから。」
ドアノブに触れていた手を握ると、こちらを振り向かせた。そして玄関ドアに泉の体を押しつける。そしてそのまままた唇を重ねた。
「口を開けて。」
お互いにコーヒーの匂いがする。アルコールの匂いなんかしなかった。夢中でその舌を味わう。慣れていないキスも、震える体も、全てが愛しいと思った。
「したいな。」
「嫌です。早く帰るって言ったし……。」
家では伊織が待っている。帰らなければ心配するだろう。
「だったら明日、終わったらここに来て。」
「……嫌です。」
「迎えにいく。」
「店長……駄目です。やっぱり……。あの……。」
その言葉に礼二はまた無理矢理、唇を重ねる。そして少し微笑むと、泉に言った。
「名前で呼んでっていったよね。」
「……礼二。ここでは嫌です。」
「何で?」
「……奥さんの跡が見えるから。」
全部持って行ったはずだった。持って行かないものは処分したはずだった。だが至る所に残っているらしい。それは匂いだ。
この部屋には赤ちゃんがいたことがある。だからその乳臭いような匂いなんかが残っているのだろう。
「そっか……。だったら嫌かな。」
わかってもらえた。泉はそう思って体を離す。
「明日、迎えに行くよ。」
その言葉に泉はため息を付いた。やっぱり何もわかっていなかったからだ。
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