守るべきモノ

神崎

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 仕事が終わって時計を見ると、定時からは少し残業してしまったようだ。この時期は仕方がない。伊織だけではなく、他の人も残業に追われていたのだ。まだ仕事が終わらない人もいる。その中で高柳明日菜はもうさっさと帰ってしまった。呼び止める事務の女の子にも答えることはない。ずいぶん思い詰めているように見えた。
「富岡君。」
 バッグを持った伊織に、社長の上岡富美子が声をかけた。
「はい。」
「このあと時間がある?ご飯でもどうかしら。」
 何の話なのかはわかる。きっと明日菜のことだろう。
「同居人にご飯はいらないと言っていないので、お茶くらいなら。」
「わかったわ。私ものんびりご飯を食べている暇はないし、気分も変えたいからつきあってくれる?」
 富美子は社長だからとあぐらをかいているタイプではない。社長業務と平行して、まだデザイナーとして第一線にいる。古い付き合いのある「戸崎出版」は、富美子に絶大な信頼を置いていた。すぐ切ることの出来る伊織とは格が違う。その分プレッシャーも大きい。だからこうして他の社員を連れて、食事やお茶をしにいくことも珍しくないのだ。
「良いですよ。」
 その光景は自然に思えた。秘書である男性に声をかけて、富美子もバッグを持って伊織とともに出て行く。
「やっぱり高柳さんのことを聞くのかな。」
「高柳さんが辞めるのって……やっぱり富岡さんのことかもしれないし。」
 一緒に働く社員たちなら誰もがわかっていたことだ。明日菜がずっと伊織にライバル心だけではない他の感情があることを。

 会社の裏手にあるひっそりとした喫茶店は、夜中まで開いている。若干薄暗いその店は、わざとお互いの顔が見えないようにしきりがあった。外部に漏れてはいけない話をするときだけではなく、世の中では許されないような人たちがこっそり集まる出会いの場でもある。伊織と富美子もその中の人たちに見えたのだろうか。見た目だけだったら、二人は不倫カップルに見える。
「高柳さんのことだけど。」
 店員がコーヒーとココアを置いて離れたとたん、富美子はすぐに話を切りだした。
「はぁ……辞めたいとか、他の会社から引き抜かれているって言ってましたね。」
 甘くないココアに口を付けて、伊織は少し砂糖を加えた。やはり少し粉っぽいようだ。ココアがこんなモノだとは思わないから。
「どこの会社かわかる?」
「アレでしょう?最近急成長した……「Rink」っていう会社。」
 若手の社長は、伊織とあまり歳が変わらない。若き実業家で強引に仕事をとっているが、その成果もそこそこ上げられているらしい。
「何で知っているの?」
「俺の所にも話が来たんで。」
 一ヶ月ほど前に、どこから仕入れたのかわからないが、伊織の個人的なパソコンのメールボックスにその会社からの引き抜きのメールが入っていたのだ。
「富岡君は断ったの?」
「俺、別にがつがつ稼ぎたいわけでもないし。」
 がつがつ稼ぎたいわけでもないが、そういう状況に陥っている。それが明日菜をデザイナーとしてもいらつかせていたのかもしれない。
「この業界のセオリーとして、まず会社には行って実力を付けて個人で独立、それが軌道になったら会社にするっていう感じなのよね。」
「だいたいどの業種でもそうでしょう。」
 倫子のような小説家はともかくとして、春樹の業種も泉の業種も、独立しようと思えば出来ることだ。だが会社に入っていた方が安定する。
「でもあの会社、ちょっと胡散臭いのよね。」
「俺も思ってました。結構しつこかったし。」
「しつこい?」
「こう……うちにはいったら、最低保障はこれだけだとか、案件を一つ採用されたらマージンの何パーセントはバックするとかだけじゃなくて、独立するときも保証はこれくらいしますとか。しないモノはしないんですけどね。」
「保守的よねぇ。富岡君は。確かに、他の会社に行って他の世界を見るのもデザイナーとしての幅は広がるかもしれない。だけど、高柳さんはちょっと違うでしょう?」
「冒険するタイプじゃないですよね。」
 少しタイプの違う案件がくれば断ったり、初めから相手にしなかったりすることがある。伊織はその辺が柔軟だ。クリスマスに配布された風俗情報の載ったフリーペーパーのデザインだって、何とかやってみようと試行錯誤していたところもある。だがそれは採用されなかった。あざとさが見えたからだ。
「そっちの会社でもその調子なら困ったことにならないかしら。」
「んー……。でもまぁ自分が選んだことだし、俺らが言うことじゃないと思うんですよね。」
 コーヒーに口を付けて富美子はちらっと伊織をみる。冷たい男だと思った。一緒に働いていた仲間なのだからもっと引き留めると思っていたが案外ドライだ。一方的に明日菜に気があり、伊織はそれに全く気が付いていない。
「富岡君は彼女にもそういう感じなの?」
「え?」
 恋人と言われて少し動揺した。泉のことが浮かんだが、泉とは正式に別れているわけではない。だがお互い違う人を見ていた。それが自分の首を絞めているということがわかっても。
「……そうですね。あまり言わないですね。仕事のことは俺も言えないし、あっちが言ってきても俺は同調することしかできないし。わからないから。」
「こっちの国で育っていないから感覚が違うのかもね。ヨーロッパの放って個人主義の国だから、子供にすらあまり口を出さないし……。」
「俺、ちょっと違和感を感じてて。」
「何を?」
「ほら、こっちの国の母親って、子供がこけるかもしれないから危ないところに行かせないって言うでしょう?こける前に大きな石は避けておいたりして。こけて痛いってわからないのに、それを避けてやるのが親なのかなって思って。」
「そうね。殴られて痛いってことがわからないと、人の痛みもわからないわね。うちの子供が一年だけでも施設に預けていたとき、そういうことを学んだみたい。放置する優しさって言うのも確かにあるわ。だけど、高柳さんは別。」
「そうですか?」
「うちと契約を切ったから、もう「他人です」とは心情的には言えないわ。それにあっちの会社でも「「office queen」にいたのにこの程度の仕事しかできないのかって言われるのは、私も悔しいのよ。」
「……高柳さんは仕事は出来ますよ。あいつに付いている企業もあるでしょう?」
「そうね……。」
 それは富美子が紹介したからだ。もし明日菜がこの会社からでたら、明日菜から離れるかもしれない。
「俺、少し心配なところはその点じゃないんですよね。」
「違うの?」
「……「Rink」って会社、大本が「青柳グループ」なんですよね。」
「「青柳」って……この間から少し問題になってる?」
「そうです。未だにあの会社のトップは表に出てきてないし……まるで他人事だなって。俺自身は、断って正解だったなって思うけど……高柳さんは乗るんでしょう?」
「ますます不安ね。」
 そういって富美子はコーヒーに口を付けた。あの施設の話は、富美子の気分も暗くさせた。事情があって自分の息子を一年間だけ施設に預けたことがある。もしその一年間で、横流しさせられていたら。あんな暑い国でゴミくずのように働かされたり、性奴隷にされていたら、悔やんでも悔やみきれない。
 そんな会社にますます自分が手をかけた明日菜を渡したくないと思っていた。
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