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聖夜
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最後の客が帰り、泉は少しため息を付く。クリスマスイブは案外忙しいのだ。限定のデザートは午前中で完売し、あと一日で販売は終了する。
「やれやれ。やっとデザートから解放されるな。」
店長の川村礼二が言うのもわかる。限定なのでもう無いと言えば、明らかにがっかりした顔になるし、酷い人は礼二や泉にくってかかるのだ。だが本社の指示で限定は決まっているし、他店舗も同じようなものだという。
「手が馴れちゃいましたね。」
「全くだ。それにまた春にはまた限定デザートを出すらしいよ。」
「えー……。」
泉がげんなりするのもわかる。せっかく出すんなら売れるもの、美味しいモノを出したいと気合いが入ったが、実際出せば売れすぎて困る。
「エリアマネージャーはほくほくだけどね。」
「売り上げが良いからでしょ?働いてる身にもなってみろっての。」
「全くだ。」
少し笑いあう。しかし以前のように自然ではない。泉が距離をとっているからだ。もう二度と触れられたくないと思う。触れていいのは伊織だけだ。
「ディッシャーだいぶ終わってる?」
「えぇ。」
「だったら俺、仕込みするよ。」
「焙煎は?」
「今しているから。」
最近やっと豆の品質が落ち着いてきた。なのではじく豆もあまりないのだ。その分、やっと自分の仕事に戻れる。
「じゃ、掃除しますね。」
テーブルに載っているカップを片づけて、テーブルを吹くといすをテーブルの上に上げた。そして掃除機を倉庫から出すと床のゴミを吸い込んでいく。カップケーキは、見た目もよく、美味しいが、割とぽろぽろと崩れやすい。なので床にカップケーキのくずが落ちているのだ。
そのとき階下から、本屋のスタッフが上がってくる。
「川村店長居ます?」
掃除機を止めて、泉はキッチンへ下がっている礼二に声をかけた。
「店長。お呼びですよ。」
「はい。はい。」
礼二はそう言ってカウンターから出てくると、スタッフが少し笑って言った。
「奥様がカフェで待っているそうですよ。」
「えー?別にメッセージでも良かったのに。」
「携帯を忘れたので伝えておいてくれって。やだ。店長、デートですか?」
自分で言って自分で恥ずかしがっている。女とはそんな生き物なのだろう。
「そんなたいそうなものじゃないよ。奥さんが雑誌の懸賞で送ったレストランのディナーが当たったから、子供を預けて行きたいって言うからね。」
「あー。すごい熱いですねぇ。良いなぁ。あたしもそんな旦那様が欲しい。」
そう言って本屋のスタッフは降りていった。そして気まずそうに礼二が振り返ると、泉は表情を変えずに掃除機をかけていた。
「阿川さん……あの……。」
「良いじゃないですか。クリスマスディナー。」
「泉。」
「別に良いですよ。私、別に恋人でも何でもないわけですし。」
冷たい言い方しかできない。そして自分には伊織が居るのだ。
「泉。ちょっとこっちにきて。」
「やです。」
「良いから。」
掃除機を止められて、手を引かれた。そしてカウンター奥のキッチンへ連れ込まれる。
「何ですか……。」
キッチンは狭い。食事のメニューは限られているので、一人で動き回れるように少し狭めに作られているのだ。だからこうやって二人ではいることはほとんどない。
「ずっと渡そうと思ってた。」
そう言って礼二はポケットからチェーンの付いた指輪を取り出す。
「あ……。」
慌てて泉は自分の胸元を探る。礼二が持っていたのは、伊織から贈られた指輪だったのだ。あの夜、わざわざ家の近くに来て持ってきてもらっていたのに、受け取らずに帰ったらしい。
「……ずっと持ってた。」
「渡してくれれば良かったのに。」
「気が付くと思ってた。だからずっと様子を見てたんだ。だけどこうなるまで君は気が付かなかった。」
「……普段しないから。」
「そうじゃないと思う。」
「何でですか。」
「そこまでの気持ちがないから。」
不安を抱えていた。思わず泉の目から涙がこぼれる。
「……私……。」
「今日は俺も妻に付き合わないといけない。だけど……君を離したくないというのは事実なんだ。」
「違うから。」
泉はそう言って涙を拭く。
「……上を向いて。」
かがむように礼二は膝を折り、泉の唇にそっとキスをする。そのときだった。
「あれー?誰も居ないの?」
外から声が聞こえて、慌てて二人は離れる。
「あ……はい。」
泉がでていく。だが顔が赤いのがばれてしまうかもしれない。そう思って、冷静を装った。
「阿川さん。どうしたの?泣いてた?」
本屋の店長が上がってきていたらしい。でっぷりと太った店長は、ここに上がるのもきついらしく、あまり二階には上がってこないのに珍しいと思った。
「あー。ちょっと厳しいことを言ってしまって。阿川さん。これから注意すればいいから。」
礼二もそう言ってカウンターから出てきた。だが泉は心の中で、注意するのはあんただと悪態を付く。
「ま、接客業はいろいろあるよねぇ。阿川さん。あのさ、こんな時に何だけど。」
「はぁ……何ですか?」
「小泉倫子先生と同居しているって聞いたけど、本当?」
「はい。でも……倫子に頼みがあるんだったら直接言って貰った方が……。」
「出版社を通すほどじゃないんだよね。それに個人的なことだし。」
「はぁ……。」
サインでも欲しいのかと思っていたが事情は違うらしい。
「「夢見」ってほら、「月刊ミステリー」で連載してる話があるじゃない。」
「はい。」
「そこの二話で出てくる、芋の煮っ転がしの文章をうちの奥さんが見てね、詳しいレシピを知りたいらしいんだ。」
その文章なら、泉も覚えている。そしてそれは倫子がよく作るモノだった。
「里芋ですね。聞いておきます。」
「悪いねぇ。個人的なお願いをして。」
そう言って店長は一階に降りていった。大した用事ではなかったと、泉はほっと胸をなで下ろした。
「あの人がそんな料理をするんだね。」
「えぇ。倫子は料理が上手ですよ。」
倫子の話題になると泉は機嫌が良くなる。まるでカンフル剤だ。
「……さて、掃除しないと、奥さんを待たせてるんですよね。」
泉はそう言って掃除機のスイッチを入れた。
「やれやれ。やっとデザートから解放されるな。」
店長の川村礼二が言うのもわかる。限定なのでもう無いと言えば、明らかにがっかりした顔になるし、酷い人は礼二や泉にくってかかるのだ。だが本社の指示で限定は決まっているし、他店舗も同じようなものだという。
「手が馴れちゃいましたね。」
「全くだ。それにまた春にはまた限定デザートを出すらしいよ。」
「えー……。」
泉がげんなりするのもわかる。せっかく出すんなら売れるもの、美味しいモノを出したいと気合いが入ったが、実際出せば売れすぎて困る。
「エリアマネージャーはほくほくだけどね。」
「売り上げが良いからでしょ?働いてる身にもなってみろっての。」
「全くだ。」
少し笑いあう。しかし以前のように自然ではない。泉が距離をとっているからだ。もう二度と触れられたくないと思う。触れていいのは伊織だけだ。
「ディッシャーだいぶ終わってる?」
「えぇ。」
「だったら俺、仕込みするよ。」
「焙煎は?」
「今しているから。」
最近やっと豆の品質が落ち着いてきた。なのではじく豆もあまりないのだ。その分、やっと自分の仕事に戻れる。
「じゃ、掃除しますね。」
テーブルに載っているカップを片づけて、テーブルを吹くといすをテーブルの上に上げた。そして掃除機を倉庫から出すと床のゴミを吸い込んでいく。カップケーキは、見た目もよく、美味しいが、割とぽろぽろと崩れやすい。なので床にカップケーキのくずが落ちているのだ。
そのとき階下から、本屋のスタッフが上がってくる。
「川村店長居ます?」
掃除機を止めて、泉はキッチンへ下がっている礼二に声をかけた。
「店長。お呼びですよ。」
「はい。はい。」
礼二はそう言ってカウンターから出てくると、スタッフが少し笑って言った。
「奥様がカフェで待っているそうですよ。」
「えー?別にメッセージでも良かったのに。」
「携帯を忘れたので伝えておいてくれって。やだ。店長、デートですか?」
自分で言って自分で恥ずかしがっている。女とはそんな生き物なのだろう。
「そんなたいそうなものじゃないよ。奥さんが雑誌の懸賞で送ったレストランのディナーが当たったから、子供を預けて行きたいって言うからね。」
「あー。すごい熱いですねぇ。良いなぁ。あたしもそんな旦那様が欲しい。」
そう言って本屋のスタッフは降りていった。そして気まずそうに礼二が振り返ると、泉は表情を変えずに掃除機をかけていた。
「阿川さん……あの……。」
「良いじゃないですか。クリスマスディナー。」
「泉。」
「別に良いですよ。私、別に恋人でも何でもないわけですし。」
冷たい言い方しかできない。そして自分には伊織が居るのだ。
「泉。ちょっとこっちにきて。」
「やです。」
「良いから。」
掃除機を止められて、手を引かれた。そしてカウンター奥のキッチンへ連れ込まれる。
「何ですか……。」
キッチンは狭い。食事のメニューは限られているので、一人で動き回れるように少し狭めに作られているのだ。だからこうやって二人ではいることはほとんどない。
「ずっと渡そうと思ってた。」
そう言って礼二はポケットからチェーンの付いた指輪を取り出す。
「あ……。」
慌てて泉は自分の胸元を探る。礼二が持っていたのは、伊織から贈られた指輪だったのだ。あの夜、わざわざ家の近くに来て持ってきてもらっていたのに、受け取らずに帰ったらしい。
「……ずっと持ってた。」
「渡してくれれば良かったのに。」
「気が付くと思ってた。だからずっと様子を見てたんだ。だけどこうなるまで君は気が付かなかった。」
「……普段しないから。」
「そうじゃないと思う。」
「何でですか。」
「そこまでの気持ちがないから。」
不安を抱えていた。思わず泉の目から涙がこぼれる。
「……私……。」
「今日は俺も妻に付き合わないといけない。だけど……君を離したくないというのは事実なんだ。」
「違うから。」
泉はそう言って涙を拭く。
「……上を向いて。」
かがむように礼二は膝を折り、泉の唇にそっとキスをする。そのときだった。
「あれー?誰も居ないの?」
外から声が聞こえて、慌てて二人は離れる。
「あ……はい。」
泉がでていく。だが顔が赤いのがばれてしまうかもしれない。そう思って、冷静を装った。
「阿川さん。どうしたの?泣いてた?」
本屋の店長が上がってきていたらしい。でっぷりと太った店長は、ここに上がるのもきついらしく、あまり二階には上がってこないのに珍しいと思った。
「あー。ちょっと厳しいことを言ってしまって。阿川さん。これから注意すればいいから。」
礼二もそう言ってカウンターから出てきた。だが泉は心の中で、注意するのはあんただと悪態を付く。
「ま、接客業はいろいろあるよねぇ。阿川さん。あのさ、こんな時に何だけど。」
「はぁ……何ですか?」
「小泉倫子先生と同居しているって聞いたけど、本当?」
「はい。でも……倫子に頼みがあるんだったら直接言って貰った方が……。」
「出版社を通すほどじゃないんだよね。それに個人的なことだし。」
「はぁ……。」
サインでも欲しいのかと思っていたが事情は違うらしい。
「「夢見」ってほら、「月刊ミステリー」で連載してる話があるじゃない。」
「はい。」
「そこの二話で出てくる、芋の煮っ転がしの文章をうちの奥さんが見てね、詳しいレシピを知りたいらしいんだ。」
その文章なら、泉も覚えている。そしてそれは倫子がよく作るモノだった。
「里芋ですね。聞いておきます。」
「悪いねぇ。個人的なお願いをして。」
そう言って店長は一階に降りていった。大した用事ではなかったと、泉はほっと胸をなで下ろした。
「あの人がそんな料理をするんだね。」
「えぇ。倫子は料理が上手ですよ。」
倫子の話題になると泉は機嫌が良くなる。まるでカンフル剤だ。
「……さて、掃除しないと、奥さんを待たせてるんですよね。」
泉はそう言って掃除機のスイッチを入れた。
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