守るべきモノ

神崎

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 仕事が終わって、飲んでいたコーヒーが入っていたカップを手にすると、給湯室へ向かう。クリスマスが過ぎるとここは定時に帰ることは難しくなるだろう。春樹はそう思いながら、帰りにどこかのドラッグストアか量販店へ行って、栄養補助食品とエナジードリンクでも買っておくかと思っていた。こういうモノがないと倒れてしまうのだ。
「三上さん。そろそろ買いだめをしておいた方が良いよ。」
 他の編集者が、今年初めて年末を迎える新人の社員にそう声をかけた。
「何をですか?」
「補助食品とか、ちょっとしたお菓子とかね。一口で食べれるようなもの。」
「え?何で?」
 三上と呼ばれた男は、不思議そうに声をかけた男を見ている。
「どこの会社も年末は忙しいけど、出版業界はもっとやばいよ。編集長なんかまた二、三日帰れないでしょ?」
「そうかもしれないね。」
 春樹はカップを手にしたまま少し笑う。
「えー?マジか。」
 大学を卒業したばかりの男は、きっと本を作りたいと夢を持ってここに来たのだろうが、校了の忙しさや文字を追うただ淡々とした作業に、嫌気が指しているのかもしれない。何より自分の時間をとるのが難しいのだ。
 かといってすぐに辞めれない。三上にも意地があるのだ。
「それにしても今月号、増刷どれくらいしたかなぁ。」
「あぁ。すぐに書店から消えたらしいね。」
 目玉企画の、小泉倫子と荒田夕の対談は評判が良かった。写真を増やしたのも良かったのかもしれない。インターネットの中では「ミステリー界の王子と姫」と賞賛の声が飛び交っている。
「読み切りも良かったみたいですよ。三池先生のショートストーリーは、この間テレビ局の人が単発のドラマにしたいって言ってたし。」
「企画としても良かった。また出来るといいんだけどね。」
 春樹はそういって頭の中で計算していた。作家によってはショートストーリーを嫌がる人もいる。と言うのも、文字数が決められていればあまり凝ったトリックは使えないし、何より表現力の力を試されているのだ。倫子はその辺が欠けているところがある。だらだらと同じような文章で説明すれば読者が飽きると、赤ペンを取りだして容赦なく書いた文章を削除するのだ。そのたびに倫子がふくれっ面になる。
 この辺は個人的な感情ではどうにもならないことだ。本のために春樹はやっているのだから。
「編集長。」
 加藤絵里子が電話の受話器を持ったまま、春樹に声をかける。
「どうした?」
 作家からのクレームか、読者のクレームか。春樹は少しため息を付いて絵里子の方を向く。
「下にお客様が見えてるそうですよ。編集長に会わせろって。」
「わかった。すぐに行くよ。」
 こういうこともすべて編集長の仕事なのだ。春樹は給湯室へ向かうと簡単にカップを洗って、そのまま廊下へ出て行った。
 エレベーターを降りて一階のロビーを見ると、そこには白いワンピースを着た未来の母親がいた。いつも和装なのに、今日は様相でいるのは何か理由があるのだろうか。
「お母さん。どうしました。」
「ちょっとお話がありましたの。初七日のことで。」
「電話でも良かったんですけど。」
「どうしても直接うちの人から伝えて欲しいと。」
 あの男が何か言うのだろうか。そう思いながら、春樹は愛想笑いを浮かべる。
「お仕事は終わりましたの?」
「えぇ。」
「お食事はどうなさいますか?」
「いいえ。結構です。」
 家に帰れば倫子が用意してくれた食事があるはずだ。タッパーに詰まっているそれは味気がないように思えるが、初七日までだ。春樹は我慢していた。
「そこに車がありますの。帰社の用意が出来次第、お待ちしてますわ。」
 有無は言わせないつもりか。そう思いながら、コートを羽織った母の後ろ姿を見ていた。
 未来の母とはいっても後妻で、春樹とは歳が変わらない。端から見ると、恋人が迎えに来ているように見えるだろう。そんなことを春樹は気にしていない。そしていいわけをしても、妻の母だと言えばみんな納得するのだから。

 車の中で、母は春樹に一枚の封筒を手渡した。そこには青柳グループが吸収合併するという「西島書房」の資料があった。この会社は秋ほどに、倫子の家に盗聴器や盗撮機を仕込んでいて倫子がそれを訴えたところだ。そういった作家は沢山いるらしく、「西島書房」は実質倒産しているところだった。そこへ青柳グループが、買収を持ちかけた。青柳グループは出版業界にはまだ手を染めていない。
「……これがどうしました?」
「主人はあなたにここの責任者になっていただきたいと。」
 つまり青柳グループには入れということだろう。春樹は顔も広く、作家の信頼もある程度ある。あの男はそれに目を付けたのだ。どんなにけちが付いたところでも、おそらく春樹なら立て直せると思っているのかもしれない。
「お断りします。」
「春樹さん。」
 春樹はそういって封筒を母に返した。
「今のところで割と上手くやっていますよ。一人で食べていく分には不自由もないし。」
「……管理職に就くおつもり?」
「今のところ編集長業務で手一杯ですよ。」
 激務だがやりがいがある。それに倫子がいるのだ。あの場所を出ることは今のところ考えられない。
「出世も望まないし、あれだけ未来さんに尽くしていたのにお金はいらないとおっしゃっていた。あなた、何が目的なの?」
「何もないですよ。好きなことをして、好きなように生きれればそれでいい。」
 好きなことというのは、本のことだろうか。考えれない。ただの本だ。
「春樹さん。女性のために本をお作りになるの?」
「女性?」
 すると母は、バッグの中からもう一枚封筒を取り出した。そしてそれを春樹に手渡す。封筒の中には写真が入っていた。それは、画像は荒いが倫子の部屋で倫子が春樹のモノをくわえているところのようにみえる。だが画像が荒くて、本当に倫子なのか春樹なのかということすら不鮮明だった。
「……。」
「その女性が誰か知っていて?」
「おそらく作家の先生ですよ。デビュー以来俺が手をかけている……。」
「その作家の先生とあなたはただならぬ関係なのでしょう?だから離れたくないと?」
「俺だという証拠もありませんね。」
 下からとられているその写真は、倫子だろうと言うはっきりした証拠は、倫子の肌にある入れ墨からわかる。だが男の方は、かなり背が高いというくらいしかわからない。
「……。」
 今度は母が黙る番だった。
「先生は、官能小説を書きたがっていた。だからこういうことをしているのは、自分で体験したいからだということからでしょう。または、本当に恋人だったのかもしれませんが。」
「あなたではないの?」
「俺ではない。一時的に小泉先生のところを間借りしていた時期もありますが、今は出ていますしね。」
「それは……。」
「わかっているのでしょう?俺のことや小泉先生をかぎ回っていたのですから。」
 すると今度は春樹が携帯電話を取り出す。そして母にその画面を見せた。
「小泉先生がそちらを訴えてもいいそうです。」
 その画面には、倫子の家のそばにたっている黒いスーツの男。サングラスで顔はよく見えないが、きっちり朝の九時、昼の十二時、夕方四時にここの前を通っている。そして倫子が出かけると、その男が付いてくるらしい。
「人気のある作家なのでしょう?熱烈なファンなのではないのですか?」
「いいえ。今日、わかりましたよ。この人は雇われて小泉先生をつきまとっていたと。そして俺にもつきまとっていたと。」
 どうしてわかったのだろう。母は心の中で舌打ちをする。
「もう一度言いますが、これ以上は警察沙汰にします。小泉先生もそうなさるそうです。その上で、今のことを公にするかどうか考えてください。」
 春樹はそういって、車を出る。その後ろ姿を見て、母は舌打ちをした。
「奥様。これ以上は無理でしょう。」
 助手席に座っていた初老の男が声を上げる。
「何を言っているの?御堂。搾り取れるところからは搾り取らないと何を言われるか。」
「旦那様もわかるはずですよ。あの男の後ろには何がついているのか。そしてあの小泉倫子さんにもね。」
 その男は運転手に車を走らせるように言った。母だけが不機嫌そうにその流れる景色を見ているようで、御堂はため息を付く。これを計算して、未来は春樹と結婚したのだろうか。
 誰よりも父親を恨んでいる娘が、春樹と結婚したことによって呪いをかけた。それが今、父親の首をゆっくり締めようとしている。
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