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隠蔽
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湖の畔にあったあの古い建物は、倫子の母方の祖母の血縁のモノが建てたモノだった。祖母の血縁者には男子がいなかったため、長女である祖母がその建物を引き継いだが、祖父は道楽で骨董品や本を集めるのが好きだった。そのせいで身を滅ぼしたのだという。
戦火にも耐えたその建物には歴史的な価値があるらしく祖父が亡くなりその建物を手放したのち、市民の憩いの場として市が買い上げたのだ。
カルチャーセンターとして生まれ変わったその建物には、祖父が残した骨董品は市民の誰でも見ることは出来たし、本に至っては図書館にしては冊数が少ないモノの市民に貸し出すことが出来た。二階に空る部屋は防音を聞かせて会議室や視聴覚室として生まれ変わり、週末には子供たちのためにアニメ映画などを上映したり、夜になればアマチュアのバンドが練習に来たりしていた。
幼い倫子がよく目にしていたのは、その建物で思い思いに過ごす人たちの笑顔と、一階の片隅にある喫茶店の女店主が入れたコーヒーを飲んで笑顔になっているところだった。
形的にはその女店主がこのカルチャーセンターの責任者になっていたのは、建物自体に歴史があること、本や骨董品に希少性があることで、移動が頻繁にある市の職員では勤まらないという表向きの理由だったのだろう。喫茶店は一人で切り盛りをしているため、移動はない。
だからあの男も勘違いをしていた。最初に話を持ちかけたのは、あの建物にある事務所の男に話を持ちかけたのだと思う。
「私では美術品の管理はしていません。欲しいというのだったら、相馬さんに言ってみて下さい。」
そう。その喫茶店の女店主こそが「相馬」と言う名前だったのだ。
「うちの店のコーヒーを監修しているのが、その相馬って人の弟子だった人らしいの。」
倫子は煙草を消して泉に聞いていた。
「そうだったの。偶然って怖いわね。どこかで飲んだ味だと思っていたけれど。だけど、相馬さんがどうして監修をしなかったのかしら。」
「……亡くなっているみたいなの。」
「え……。」
その言葉に倫子は驚いて、泉をみた。
「あの建物が火事になって、店が無くなった。だから自分の旦那さんが南の土地でコーヒー豆を作っているところへ行った。でも何ヶ月もしないで亡くなったらしいわ。」
「……あいつのせいで……。」
倫子は拳をぎゅっと握る。そうしないと手が震えそうだったからだ。あの建物が無くなり、祖母は生きる気力を失ったように、痴呆が入った後静かに亡くなった。
母は、意地であの建物を存続させようとしていた祖母をずっと嫌がっていたのだ。だから罰が当たったと今でもことあるごとに愚痴をこぼしている。お嬢様で育った母だから仕方がないのかもしれないが、その愚痴を聞きたくないから実家にはあまり帰りたくないと倫子は思っていたのだ。
「ずっと病気だったみたい。だから……あいつとは……。」
「お店が相馬さんの生きる気力だったのよ。」
倫子もそうだ。作品を書かなければ、倫子だって生きていられない。むしろ生きる価値がないように思える。
「倫子。それも含めて、これから春樹さんといられるの?」
「……。」
「私はいい気分はしないわ。あの金の亡者みたいな人が身内にいるのよ。」
「……そうね……。泉も関係ない話じゃないものね。」
「それも含めて、一度春樹さんと話して。まともに話もしていないんでしょう?」
「うん……。でも今は無理かもしれないわ。」
「どうして?」
「……「戸崎出版」で春樹さんと私の噂が流れているから。」
おそらくそれをあいつは耳にした。だから倫子もまた張り付かれているのだ。
「初七日に、春樹さんが話をするって言っていたけれど……。」
「何を話すの?不倫してたって言うのかしら。そんなことをしたらあいつ……。」
「どう動くかしら。一会社員の春樹さんから取れるお金なんて、たかがしれているのに。」
春樹には何か考えがあるのだろう。そしてその一つ一つを春樹は倫子に話すことはない。そこまで春樹は倫子を頼っていないのだろうか。そう思う砺波だがでそうになる。
ただ体を合わせるだけ。それなら政近とあまり変わらない。
店の扉を開くのがこんなに怖かったことがあるだろうか。泉はそう思いながら、バッグヤードにつながるそのドアを開いた。
「おはよう。阿川さん。」
ドアを開いたらすぐにバッグヤードにつながる。本やポップ、ポスターなどがそこにあり、片隅には発注のためのパソコンが置かれている。ここでみんなが食事をしたりするのだ。
「おはようございます。」
その奥に更衣室があり、本屋で勤める人にはその制服があって、カフェ勤めの泉たちとは制服が違う。
泉は男女で分かれているその更衣室に入ろうと手をかけたときだった。男の更衣室から礼二が出てきた。泉の方を見て礼二は少し笑う。
「おはよう。阿川さん。」
「おはようございます。」
「二日酔いにはならなかった?」
「大丈夫でした。すいません。ご迷惑をかけてしまって。」
「大丈夫だよ。」
端から聞けば、誰がこの二人がセックスをしたと思うだろう。それくらい自然に挨拶をして、泉は更衣室に入り、礼二はエプロンをしてバッグヤードを出て行ったのだ。
泉は自分のロッカーの鍵を開けて、荷物やジャンパーを脱いで中に入れる。礼二にとっては普通の行為だったのかもしれないが、泉は夕べ眠れなかったのだ。目を閉じれば、夕べのことを思い出すから。そして倫子にも相談はできなかった。
こんなことを誰に相談していいのかわからない。泉はそう思いながら、セーターを脱いでいく。そしてブラウスを身につけた。
身支度ができて、二階に上がる。一階は品出しをしている店員がてんやわんやだった。二階は一階とは営業時間が違うので、あまりばたばたしてやってくることはない。
そして二階に上がると、冷えた空気が身を包んだ。礼二はまずここに上がると、いつも窓を開けっ放して空気の入れ替えをするのだ。そして窓を開けたまま焙煎を始める。すると窓からコーヒーのいい香りが逃げて、お客様を呼ぶらしい。これも礼二にコーヒーの技術を教えてくれたあの女性が教えてくれたことだった。
その間泉はキッチンに入って、デザートや食事の仕込みをする。レシピがキッチンの壁に書かれていた。最初はそれを見ながら仕込んでいたが、最近は手が勝手に動いてくれる。しばらくしたら、礼二もそれを手伝うのだ。
「阿川さん。どこまでした?」
「あ……今、カップケーキの種を寝かせてて。」
「OK。だったら、食事の方の仕込みをするよ。」
冷蔵庫からハムや野菜を取り出して、仕込みをしていく。長い指が包丁を握り、器用に野菜を切っていく。その指が夕べ泉の体を好きにしたのだ。
そう思ったが、すぐに泉は自分の仕事にかかる。
「あっ……。」
その声に泉は振り返って礼二の方をみる。
「どうしました?」
「手を切った。久しぶりにやったよ。」
珍しいこともあるんだな。そう思いながら、泉はカウンターに出ると、下の方にある救急箱から絆創膏を取り出した。
「結構切ってますか?」
礼二は切った指を口にくわえて止血しているようだった。だがそれを離して切った人差し指を見ると、ぷくっと赤い血が出てきた。
「ちょっとしたら止まると思うけどね。」
「絆創膏で……。」
その指に絆創膏を貼ろうとテープをはがして、その指に張る。その様子を見て、礼二は片手で泉の頬に触れる。
「あの……。」
絆創膏を張り終わった泉が困ったように、礼二をみる。だが礼二は止められなかった。素早く泉の唇にキスをすると、少し笑う。
「仕込みをしようか。ありがとう。」
いつも通りにしようと思っていたのに、どうしてこんなことをするのだろう。泉はそう思いながら、また自分の仕事に戻っていった。
戦火にも耐えたその建物には歴史的な価値があるらしく祖父が亡くなりその建物を手放したのち、市民の憩いの場として市が買い上げたのだ。
カルチャーセンターとして生まれ変わったその建物には、祖父が残した骨董品は市民の誰でも見ることは出来たし、本に至っては図書館にしては冊数が少ないモノの市民に貸し出すことが出来た。二階に空る部屋は防音を聞かせて会議室や視聴覚室として生まれ変わり、週末には子供たちのためにアニメ映画などを上映したり、夜になればアマチュアのバンドが練習に来たりしていた。
幼い倫子がよく目にしていたのは、その建物で思い思いに過ごす人たちの笑顔と、一階の片隅にある喫茶店の女店主が入れたコーヒーを飲んで笑顔になっているところだった。
形的にはその女店主がこのカルチャーセンターの責任者になっていたのは、建物自体に歴史があること、本や骨董品に希少性があることで、移動が頻繁にある市の職員では勤まらないという表向きの理由だったのだろう。喫茶店は一人で切り盛りをしているため、移動はない。
だからあの男も勘違いをしていた。最初に話を持ちかけたのは、あの建物にある事務所の男に話を持ちかけたのだと思う。
「私では美術品の管理はしていません。欲しいというのだったら、相馬さんに言ってみて下さい。」
そう。その喫茶店の女店主こそが「相馬」と言う名前だったのだ。
「うちの店のコーヒーを監修しているのが、その相馬って人の弟子だった人らしいの。」
倫子は煙草を消して泉に聞いていた。
「そうだったの。偶然って怖いわね。どこかで飲んだ味だと思っていたけれど。だけど、相馬さんがどうして監修をしなかったのかしら。」
「……亡くなっているみたいなの。」
「え……。」
その言葉に倫子は驚いて、泉をみた。
「あの建物が火事になって、店が無くなった。だから自分の旦那さんが南の土地でコーヒー豆を作っているところへ行った。でも何ヶ月もしないで亡くなったらしいわ。」
「……あいつのせいで……。」
倫子は拳をぎゅっと握る。そうしないと手が震えそうだったからだ。あの建物が無くなり、祖母は生きる気力を失ったように、痴呆が入った後静かに亡くなった。
母は、意地であの建物を存続させようとしていた祖母をずっと嫌がっていたのだ。だから罰が当たったと今でもことあるごとに愚痴をこぼしている。お嬢様で育った母だから仕方がないのかもしれないが、その愚痴を聞きたくないから実家にはあまり帰りたくないと倫子は思っていたのだ。
「ずっと病気だったみたい。だから……あいつとは……。」
「お店が相馬さんの生きる気力だったのよ。」
倫子もそうだ。作品を書かなければ、倫子だって生きていられない。むしろ生きる価値がないように思える。
「倫子。それも含めて、これから春樹さんといられるの?」
「……。」
「私はいい気分はしないわ。あの金の亡者みたいな人が身内にいるのよ。」
「……そうね……。泉も関係ない話じゃないものね。」
「それも含めて、一度春樹さんと話して。まともに話もしていないんでしょう?」
「うん……。でも今は無理かもしれないわ。」
「どうして?」
「……「戸崎出版」で春樹さんと私の噂が流れているから。」
おそらくそれをあいつは耳にした。だから倫子もまた張り付かれているのだ。
「初七日に、春樹さんが話をするって言っていたけれど……。」
「何を話すの?不倫してたって言うのかしら。そんなことをしたらあいつ……。」
「どう動くかしら。一会社員の春樹さんから取れるお金なんて、たかがしれているのに。」
春樹には何か考えがあるのだろう。そしてその一つ一つを春樹は倫子に話すことはない。そこまで春樹は倫子を頼っていないのだろうか。そう思う砺波だがでそうになる。
ただ体を合わせるだけ。それなら政近とあまり変わらない。
店の扉を開くのがこんなに怖かったことがあるだろうか。泉はそう思いながら、バッグヤードにつながるそのドアを開いた。
「おはよう。阿川さん。」
ドアを開いたらすぐにバッグヤードにつながる。本やポップ、ポスターなどがそこにあり、片隅には発注のためのパソコンが置かれている。ここでみんなが食事をしたりするのだ。
「おはようございます。」
その奥に更衣室があり、本屋で勤める人にはその制服があって、カフェ勤めの泉たちとは制服が違う。
泉は男女で分かれているその更衣室に入ろうと手をかけたときだった。男の更衣室から礼二が出てきた。泉の方を見て礼二は少し笑う。
「おはよう。阿川さん。」
「おはようございます。」
「二日酔いにはならなかった?」
「大丈夫でした。すいません。ご迷惑をかけてしまって。」
「大丈夫だよ。」
端から聞けば、誰がこの二人がセックスをしたと思うだろう。それくらい自然に挨拶をして、泉は更衣室に入り、礼二はエプロンをしてバッグヤードを出て行ったのだ。
泉は自分のロッカーの鍵を開けて、荷物やジャンパーを脱いで中に入れる。礼二にとっては普通の行為だったのかもしれないが、泉は夕べ眠れなかったのだ。目を閉じれば、夕べのことを思い出すから。そして倫子にも相談はできなかった。
こんなことを誰に相談していいのかわからない。泉はそう思いながら、セーターを脱いでいく。そしてブラウスを身につけた。
身支度ができて、二階に上がる。一階は品出しをしている店員がてんやわんやだった。二階は一階とは営業時間が違うので、あまりばたばたしてやってくることはない。
そして二階に上がると、冷えた空気が身を包んだ。礼二はまずここに上がると、いつも窓を開けっ放して空気の入れ替えをするのだ。そして窓を開けたまま焙煎を始める。すると窓からコーヒーのいい香りが逃げて、お客様を呼ぶらしい。これも礼二にコーヒーの技術を教えてくれたあの女性が教えてくれたことだった。
その間泉はキッチンに入って、デザートや食事の仕込みをする。レシピがキッチンの壁に書かれていた。最初はそれを見ながら仕込んでいたが、最近は手が勝手に動いてくれる。しばらくしたら、礼二もそれを手伝うのだ。
「阿川さん。どこまでした?」
「あ……今、カップケーキの種を寝かせてて。」
「OK。だったら、食事の方の仕込みをするよ。」
冷蔵庫からハムや野菜を取り出して、仕込みをしていく。長い指が包丁を握り、器用に野菜を切っていく。その指が夕べ泉の体を好きにしたのだ。
そう思ったが、すぐに泉は自分の仕事にかかる。
「あっ……。」
その声に泉は振り返って礼二の方をみる。
「どうしました?」
「手を切った。久しぶりにやったよ。」
珍しいこともあるんだな。そう思いながら、泉はカウンターに出ると、下の方にある救急箱から絆創膏を取り出した。
「結構切ってますか?」
礼二は切った指を口にくわえて止血しているようだった。だがそれを離して切った人差し指を見ると、ぷくっと赤い血が出てきた。
「ちょっとしたら止まると思うけどね。」
「絆創膏で……。」
その指に絆創膏を貼ろうとテープをはがして、その指に張る。その様子を見て、礼二は片手で泉の頬に触れる。
「あの……。」
絆創膏を張り終わった泉が困ったように、礼二をみる。だが礼二は止められなかった。素早く泉の唇にキスをすると、少し笑う。
「仕込みをしようか。ありがとう。」
いつも通りにしようと思っていたのに、どうしてこんなことをするのだろう。泉はそう思いながら、また自分の仕事に戻っていった。
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