守るべきモノ

神崎

文字の大きさ
上 下
88 / 384
緊縛

88

しおりを挟む
 食事の後、すぐにホテルへ行こうとした。もう遅い時間だし、せっかくダブルで部屋を取った意味がない。春樹はそう思いながら、倫子をみる。だが倫子の視線には、ある建物が映っていた。
「今日、病院行けてないですよね。」
「暇はなかったからね。」
「今からでも洗濯物だけでもとりにいったらどうですか?ホテルにコインランドリーついているでしょうし。」
 きっと倫子は絵里子が言ったことを気にしているのだ。仕事ばかりをしている春樹が、妻である未来を全く省みていないと言うこと。
「もう面会時間は過ぎているんだ。」
「……毎日行っているんだったら、看護師さんたちも黙っているんじゃないのですか?」
 確かにそうだ。毎日行っていれば顔見知りになって、どうしても手が放せない校了の時なんかは、夜遅い時間に行っても何も言わない。それに今日持って行こうと思っていた洗濯物も、まだそのまま持っている。
「……遅くなるよ。」
「チェックインをしておきますから。」
 その間に寝てしまおう。そうすれば求めることはないだろうし、奥さんの顔を見ればそんな気は失せるだろうと思っていた。
 だが春樹は予想外のことを言った。
「一緒に来ないか。」
「え?」
「前から思ってた。妻に会わせたいと思っていてね。前から妻は、君がどんな人なのかって気になっていたようだったし。」
 ここまで無神経な人だったのだろうか。倫子はそう思いながら、ため息をついた。
「いいんですか。」
「かまわないよ。」
 そういって春樹は病院の方へ足を進めた。そして裏手に回ると、救急外来の入り口にはいる。そこには眠そうな警備員がいるが、名前を書くとすぐに通してくれた。
 待合室を通りエレベーターへ乗り込む。広めに作られているのは車いすの人や、今から手術の人はベッドごとエレベーターに乗るため。
 七階に着くと、すぐにナースステーションがある。看護した地が忙しそうに動いているところを見ると、急患がでたのだろう。春樹の方をちらっと見たが、後ろの倫子までは気がいかないらしい。春樹は軽く声をかけると、そのナースステーションに一番地か伊平屋のドアを開ける。
「入るよ。」
 ドアを開けると、中は消毒のような臭いがした。病人特有の臭いなどしない。薄暗い部屋の中で、ただ規則的に機械の音がする。それが未来が生きているという唯一の証拠だ。
「未来。小泉先生だ。」
 ベッドの上で横たわっている女性を見た。確かに眠っているだけに見える。緑色の病衣で顔色が悪く見えるが。顔立ちは悪くない。お嬢様だという春樹の言葉も、割と現実味がある。
「初めまして。小泉です。」
 だが倫子の声はきっと届いていない。呼吸すら出来ていないのか、口元には人工呼吸器がつけられている。手には点滴があり、布団の中から延びているチューブは、おそらく尿を取るためのものだろう。
 ただ生きているというだけの存在に見えた。それでも妻のためと、春樹は毎日ここに通っているのだ。
「今日はお風呂に入ったんだろうね。タオルが多い。気持ちよかったかな。」
 語りかけても何も反応はない。思わず倫子はその手に触れた。だが冷たい手だと思う。なま暖かいくらいの手は、白く華奢だ。おそらく動かしていないので、筋力も落ちてしまったのだろう。
「あなたが見つけてくれたと聞きました。」
「……倫子……。」
「藤枝さん。今は……その名前で呼ばないで。」
「……わかりました。」
 未来のことを思っていたのだろう。人間は死ぬとき、最後まで残る感覚は聴力だという。こんな状態になっても聞こえている可能性はあるのだ。
「あなたのお陰で、生きていられます。好きなことをして食べれるんです。ありがとうございました。」
 倫子はそういって手を握る力を強めた。するとわずかだが、その手が握り返されたような気がして、思わず倫子は未来をみる。
「目が……開いてる。」
 春樹は驚いたように未来を見た。だがそれは一瞬だった。すぐにすっと目を閉じてしまう。それを見て倫子は手を離した。何もかも知られているような気がして、いたたまれなかったのだ。

 ホテルにチェックインをすると、すぐにシャワーを浴びた。そして着ていたものと一緒に未来のものをまとめると、春樹はそのまま一階にあるコインランドリーへ行ってしまった。
 その間、倫子は煙草を吹かしながら外を見ていた。
 こんなところに二人でいてはいけない。病院を出て倫子はそう思い、ホテルに着くとシングルに替えれないかと聞いてみた。だがシングルは今は一杯で、予約したぶんでしか用意ができていないのだという。
 未来は何もかも知っていたのだろうか。だから目を開けた。それは許しているということだろうか。それとも恨みからだろうか。
 倫子は煙草を消して、バッグからピルケースを取り出す。そして錠剤を口に入れると、水で流し込んだ。一日一度飲む薬のお陰で、生理がくる周期を自分でコントロールできる。今は、子供は出来ない。
 しかし未来は子供を望んでいたのだという。自分とは正反対だ。
 自分が我が儘だから子供は作りたくないし、仕事よりも子供を優先できるとは思えない。
「……。」
 倫子はため息をついてベッドの中に潜り込もうとした。そのとき、部屋のドアが開いた。そこには洗濯物の入ったバッグを手にしていた春樹がいる。
「大きな乾燥機は良いね。すぐに乾いた。」
「そうね。」
 倫子の家にも乾燥機はあるが、梅雨時期でもそれをあまり利用はしない。まとめてコインランドリーの大きな乾燥機に入れてしまうのだ。
 まだ温かいそのタオルを手にして、ベッドの上で春樹はそれを畳み始める。
「一瞬目が開いた気がしたよ。」
「私もそう思った。」
 倫子も自分の洗濯物を畳み始める。そして未来のものであろう下着などが手に着いた。
「俺、未来には君のことを言っている。わかっていないと思ってた。でも……案外わかっているのかもしれないな。」
「だとしたら体が動かない分、私は卑怯なことをしたわね。」
「倫子。」
「やっぱりやめましょう。春樹。こんなことをしたら……。」
「君のことだから、未来に会わせるとそう言うだろうと思ってた。」
「……。」
「でも言っただろう?未来は君が小説家で大成することを、誰よりも望んでいた。俺はその意志を受け継いだ。それじゃあ悪いのかな。」
「あの……春樹。」
「もちろん、俺はそれ以上の感情を持ってしまった。それに後悔はしていない。」
「どこの世界に、奥さんが旦那の不倫を黙ってみている人がいるのかしら。」
「……。」
「私はきっと奥さんが、怒っていると思ってる。だから……今からでも遅くないから……もう……。」
 辞めたい。こんな関係を辞めたいと言いたい。なのにさっきよりも口が動かない。代わりに倫子の目から涙がこぼれた。春樹はそれを拭うように頬に手を当てる。そして包み込むように頬を持ち上げると、唇を重ねた。
「俺が辞めれない。俺は、ずっと縛られていたんだ。それを説いてくれたのは君だから。」
「……。」
「愛してる。」
 嘘。それはわかっているのに、止められない。春樹が奥さんを見る目は、誰よりも優しかった。語りかける口調もいつもよりも柔らかかった。愛しているのは奥さんだけだ。
 わかっている。なのに差し込まれた舌を拒否できない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
恋愛
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

アイドルグループの裏の顔 新人アイドルの洗礼

甲乙夫
恋愛
清純な新人アイドルが、先輩アイドルから、強引に性的な責めを受ける話です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...