守るべきモノ

神崎

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同居

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 雨は小降りほどになってきたようだ。春樹は本を置いて、病室の窓から外を見る。高いところにある病室は街の様子が一望できるようだ。妻が起きたとき、この景色を一緒に見れればいいと当初は思っていた。だが妻が起きる気配はいっこうにない。
「未来……。相談したいことがあるんだ。」
 表情を変えず眠ったままの妻の横顔を見ながら春樹は言葉を続ける。
「新婚旅行へ行ってから、部屋や家具を決めたいと君は言っていた。だけど、結局部屋も家具も何も出来ないままだったね。」
 春樹が住んでいる部屋は古いが広さがある。住むところにこだわりのない春樹は、そこでいいんじゃないかと思っていたが未来はそれを嫌がったのだ。古いところには住みたくないと思っていたのかもしれない。
「思い切って部屋を変えようと思う。その……担当している作家先生のためにも。」
 夕べ、伊織が倫子に告白をしていた。独身で健康な男と女が住んでいる家なのだ。こうなることは必然だったかもしれない。そのまま倫子が伊織とくっついてもらえば、きっと倫子は恋愛の小説を書けると思う。だがどこかでもやもやすることがあった。
 自分と体を重ねた。感情はないといいながらも、お互いに求め合ったのだ。離したくないと思っている自分がそこにはいて、自分の感情に戸惑っていた。
「先生のためにも……部屋を借りたい。君は許してくれるだろうか。」
 そのとき春樹の携帯電話が鳴った。驚いて春樹はそこ携帯電話を取ると、そこには管理会社の番号があった。
「はい……え……あ……はい。すぐに戻ってみます。」
 携帯電話を切ると、読みかけている本、未来の下着やタオルなどを自分の着替えが入っているバッグに詰め始めた。そのとき、病室の外からノックの音が聞こえる。
「はい。」
「藤枝さん。クッションをかえにきましたよ。」
 寝たきりだとどうしても床ずれが出来たりするのだ。それを防ぐのに一日に何度か看護師がやってきてこうやってクッションをかえるのだ。五年も通えば、春樹とも顔なじみになる。今日はベテランの看護師がやってきた。
「あら、もう帰られますか?」
「えぇ。ちょっと用事が出来てしまって。」
 雑誌の編集をしているという話も聞いている。その関係で忙しいのに、春樹は毎日のようにここへやってくるのだ。感心していた看護師だったが、その春樹の様子に少し違和感を持った。いつも笑顔の春樹に何の余裕もなさそうに見えたから。

「他の住人から水漏れがしているという情報が入ったのですが、藤枝さんが住む二百七号室は大丈夫でしょうか。」
 いつもだったら水漏れといってもそれほどヒドくないし、雨漏りもあるが管理会社に連絡をすれば、すぐに治してくれた。だから大したことはない。そう思っていたはずだった。
 だが管理会社が待っている駐車場で女性と合流し、アパートの部屋にはいるとそれは打ち消された。
「これは……。」
 思わず女性も言葉を失った。台所の上にある換気扇から水が漏れてシンクもその床も水浸しだったし、リビングもエアコンの室外機がずれてそこから水が入っている。そのしたにあったテレビはもう動かないだろう。そしてあらゆるところの天井から雨漏りというレベルではない水が滴って畳を濡らしている。当然、その畳に置いて置いた本はもう読めるものではないだろう。
 唯一良かったのは棚にしまって置いた本だけは、無事なようだった。
「他の住人の方には他のアパートを紹介しております。この近くがよろしかったでしょうか。」
 あまり若くないその女性はその様子を写真を撮りながら、春樹に話しかけた。
「……そうですね。住める状態じゃないですし……。」
 その状態に春樹は絶句しているようだった。ここまで酷いと思っていなかったのだろう。すると女性は少しため息を付いて春樹に言う。
「ここに住んで二十年近くになるようですけど、五年ほど前から退去した方が良いと言ってましたよね。」
「知ってますよ。でも住めると思っていたから。」
「通告はしていました。なのにずっと住んでいたとなると、敷金は返ってきませんよ。保険会社に連絡してみますけど、家電類もどうなるか……。」
 一からまた買い直さないといけないのか。春樹は頭の中で銀行の預金を計算した。出せないことはない。だからといってこのまま泣き寝入りをするのはしゃくに障る。
 そのときだった。
「わっ。どうしたんですか。これ。」
 振り向くと、そこには倫子と伊織が驚いたように部屋の中を見ていた。
「昨日の雨でね。」
「酷いですね。ここ、もう住めないでしょう?」
 倫子の表情が少し変わる。そして土足のまま、部屋の中にあがると床に置いてあった本を手にする。水が滴っていて、とても読めたものではないだろう。
「……手に入らない本なんかはないんですか?」
「床に置いていたモノは、時間があったら読もうと思っていたものです。最近買ったんですよ。」
 新刊か。とすれば、これを手に入れるのは難しくはないだろう。棚を見てみれば、そこにある本はあまり濡れていないが下段のモノは難しいかもしれない。
「家電は全滅ですね。火事にならなくて良かった。」
 伊織も中に入ってきてコンセントを抜いた。そして改めて周りを見ると、持ち出せるモノが限られるかもしれない。
「すぐにご案内できる物件は少ないので、とりあえずホテルに予約を入れましょうか。それからトランクルームなら、すぐにご案内できますが。」
「そうですね……そうしてもらえますか。」
 春樹はずいぶん落ち込んでいるようだ。おそらく大学には行ったときからここに住んでいたので、愛着があったに違いない。そこを出ろと言われるのは、身を引き裂かれる思いなのだ。伊織はそれを感じて、女性に聞く。
「管理会社の方ですか。」
「そうですが……あなたたちは?」
 何だろう。友人とは言えないし、仕事仲間というのには少し違う。歳も違いすぎるし、なんと言えばいいのかわからない。
「この辺が水没している地域があると聞いて、来てみたんです。藤枝さんには、ずいぶん恩義もありますから。」
 倫子はそう言って本を床に置く。
「他に部屋を紹介してもらうとしても、敷金なんかは引き継がれるんですか。」
 うまく誤魔化した。だが女性はいぶかしげな顔をして、二人を見ている。ずいぶん怪しい二人だと思ったのだろう。伊織はともかくとしても、倫子は相変わらず露出が激しいし、入れ墨がさらにそう見せている。
「いいえ。他の住人の方にも言ったのですが、ずいぶん前から退去命令がでていました。それでもなお住んでいたので、こちらに非はないかと……。」
 すると倫子は首を傾げる。
「自然災害でも敷金は返ってこないんですね。アパートってずいぶん厳しい。」
「……。」
 その言葉に女性は咳払いをする。こんなぼろいアパートにずっと住んでいたのだ。ここの住人がやっかいなのは決まっている。
「アパートとして成り立たせるんだったら住人が安心して住めるように補強工事をしないといけないはずなのに、どうしてそれもしてなかったんですか。」
「そんなことを言われても……。」
 女性はそう言ってその雨水に濡れている壁を見る。
「保険には入っているんですよね。そこから家具や、家電の保証も利くでしょう。まさか、プールしていたわけじゃないんですよね。」
「まさか。証書があるはずです。」
「でしたら、保険会社に連絡をするのが先でしょう。引っ越しはその後です。」
 倫子に言い負かされている。それに倫子は表情からはわからないが、かすかに怒っているようだった。その怒りは春樹だからなのかはわからない。
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