守るべきモノ

神崎

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進展

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 妻と出会ったとき、妻は大学を卒業したばかりだった。一緒に入ってきた加藤絵里子共々教育係として、春樹はきっちり指導をしていた。
 絵里子は要領も良いし人当たりもソフトで作家を困らせることはあまりなかったが、未来はその辺がうまくできないようだった。
「今日までじゃないと、印刷所が間に合わないって言ったよね。」
 当時の編集長は、春樹よりも相当厳しかった。そして作家もルーズな人が多かった。だから未来はいつも矢面に立っているようだった。
「すいません。どうしても出来ないって……。」
「出来なきゃ、別の作家に依頼するんだよ。ったく、まだそんなこともわかんないのか。」
「すいません。」
 その様子に春樹が声をかける。
「あの先生は、いつもルーズだ。だから、今度から一日前に締め切り日を言えばいい。それから印刷所に、何時までなら持っていけるかって聞くから。ほら、泣く暇があったら連絡して。」
 相談され、いつの間にか二人で会い、そして恋人同士になった。ぼろい春樹の家を訪れることはあまりなかったが、未来の家で食事を一緒にすることもあった。
 籍を入れようと言い出したのは、春樹の方だった。だが未来はそれよりも子供が欲しいと言っていた。
「何で籍より先に子供が欲しいって言うんだろうな。」
 運ばれた地鶏の炭火焼きの肉を、忍は口に入れると焼酎を飲んだ。だが倫子の箸は進んでいない。さっきから酒ばかりを飲んでいる。
「たぶん、俺は仕事しかしてなかったから。」
「男が稼がなくてどうするんですか。」
「それ以上に妻を見ていなかった。編集業ってのは、時間の自由が利かないものです。小泉先生は割と今までそう言うことはなかったのですが、他の先生はいきなり「スランプだ」と言って、今月号は諦めてくれとか言われることもざらです。」
「たまらんね。今?って感じですね。」
「そうなると別の作家を捜したり、人気のある作家であれば何とか書いてもらおうとして二十四時間体制で話を聞くこともあります。そうなれば家庭なんか省みれません。」
「だから子供を?」
 倫子はそう聞くと、春樹は少し笑った。
「そうです。妻はずっと子供を欲しがっていたのは、そうやって俺にとって妻が「特別なんだ」と思って欲しかったから。と俺は思いますけどね。」
「……でもそれが意識不明になっちゃ、ざまぁねぇな。」
「兄さん。」
 倫子は慌てて忍を止める。だが酔いも回っているのかもしれないが、忍は止められなかった。
「藤枝さん。あんたも子供の一人くらい作れなかったんですか。」
「たとえば時期を見て狙って、それでも駄目なときは駄目です。俺はあの時期は全く自分の時間がとれなかったですから。」
「今は編集長なのに?」
 倫子がそれを聞くと、春樹は少し笑った。
「今の担当は指で数えられるくらいしかいません。楽になったものです。作家先生もみんな納期を守ってくれるし。」
「うっ……。」
 酒を飲んでいる場合ではなかったかもしれない。ここではなく別の出版社の締め切りは大丈夫だっただろうかと、急に不安になった。
「子供が産めないような女は金を食うだけでしょう。別れてもあちらの両親からは何も言いませんよ。」
 だから別れろとでもいいたいのだろうか。兄は、きっと自分の奥さんが病気にでもなったらすぐに別れるとか言い出すのだろうか。倫子は少し兄の奥さんに同情した。きっとこの調子では、妊娠中も苦労したのだろうと思うから。
「俺がしたいんですよ。」
「は?」
「忍さんは言われませんでしたか。結婚式をしたとき、健やかなるときも、病めるときもともに助け合いって。」
「俺、神前だったんで。」
「結婚するときは言われるんですよ。だから、俺はそうしているだけです。」
 歳が上だからだろうか。ずいぶん言い負かされている。作家によっては難しい人もいるのだろう。その人たちに言い負かされないように、言葉を選んで発している。それは言葉のプロである兄からでもわかるのだろう。
「死んだら別の女を捕まえますか?」
 すると春樹は少し笑って言う。
「たとえば、高校から大学入試をする前から「落ちたらどこの予備校に行く?」と言われるくらい愚問ですね。」
 その言葉に忍は言葉を詰まらせた。高校教師である忍がそんなことを言うはずはない。春樹なりの嫌みだったのだろう。そして表情には現れないが、春樹もまたいらついていたのだ。
 倫子を誰とも知らない人に渡したくない。

 居酒屋を出ると、忍は倫子に言った。
「お前な、見合いは悪い話じゃねぇからな。その火傷はともかく、入れ墨はどうみたってマイナスだろ?それでも良いって言うヤツなんだから、会うだけ会ったらどうだ。」
「遠慮しておく。」
 すると忍は頭をかいて、倫子に言った。
「断るんならお父さんに言っておけよ。父親同士で言った話らしいし。」
「わかった。そうする。」
「すいません。藤枝さん。こんなことに付き合わせて。」
「いいえ。すいません。俺の分までご馳走になって。」
「こっちが無理矢理誘ったようなものですし、気にしないで下さい。」
 駅の大通りに出ると、忍は足を止めた。
「俺、こっちだから。」
「そう。わかった。じゃあ、またお盆前に連絡するわ。」
「そう言えばお前、同居人がいるって言ってたな。今度顔を見に行くから。」
「どうかな。二人とも忙しいから、時間が合わないの。」
「そっか。まぁいいや。」
 そう言って忍は行ってしまった。その後ろ姿を見て、倫子はため息を付く。
「まさかお見合いなんて……。」
「知ってる人だった?」
「まぁ……田舎だから。近所の人はみんな知り合いみたいなものだし。」
 ちらっと後ろを見る。もう忍の姿がどれなのかわからない。それがわかって、春樹は倫子の手を握る。
「ちょっと……。」
「駄目?」
「昨日の今日でしょ?」
「連れて帰りたい。」
「元気よね。春樹は。私はすごい眠たいのに。」
「俺も眠いよ。だから今日は抱きしめて寝たい。」
「私、布団じゃないと寝れないわ。」
「どんな状況でも寝れるようになるのが、一人前の小説家だよ。」
「誰がそんなことを言ったの?」
「俺が担当した小説家はみんなそうだったよ。」
 その言葉に倫子は少し頬を膨らませる。
「土曜の夜にする。」
「土曜?」
「伊織が疑ってるから。」
 それだけじゃない。伊織はきっと倫子を見ているのだ。だから必要以上に突っかかるのだろう。
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