守るべきモノ

神崎

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 いつもよりもつやっとしている感じがする。そう思いながら加藤絵里子は、春樹を見ていた。奥さんの体調がいいのだろうか。それとも別に女が出来たのだろうか。
 結婚してすぐに奥さんは意識不明になった。だから新婚らしい結婚生活などしていないのだから、別に女が出来てもおかしくはないだろう。だがその相手が可愛そうだ。きっと本気ではないのだから。
「加藤さん。このレイアウトはもう少し考えて。」
 そう言って春樹はプリントアウトした原稿を絵里子に手渡す。そのときふと違和感を感じた。いつもしている指輪がないのだ。
「編集長。」
「どうしたの?」
「あの……指輪……。」
 すると春樹は思いだしたように左手をみる。
「ずっとしていたから気にならなかったんだけどね、今朝顔を洗っていたら落ちてしまってね。よく見たら傷だらけだし、少しメンテナンスでもしておこうかと思ってね。」
 考え過ぎか。そう思って絵里子は少し笑った。
「そうでしたか。」
 そう言って絵里子はまたパソコンに向かう。その横顔を見て、春樹は心の中でため息を付いた。
 夕べ、倫子とセックスをするとき、どうしても指輪が目にはいると自分の気持ちが萎えてしまう。だからシャワーを浴びたときにはずしておいたのだ。それから付けていない。
 案外無くても慣れるものだ。そう思いながら、春樹もまたパソコンへ向かう。そのとき外から帰ってきた男性編集者が、ため息を付いて自分のデスクに戻ってきた。
「お、お帰り。どうだった?荒田先生のサイン会。」
「アイドルかよって言うくらい女ばっかり。まぁ、あの見た目じゃ無理もねぇよな。」
 荒田夕という倫子と人気が二分する作家がいる。あまり表に出ない倫子とは違い、三十代ではあるがアイドル顔負けのルックスでテレビやCMなんかにも出るタレントのような作家だった。
 当然「月刊ミステリー」にも写真を載せれば、その号の部数が爆発的に上がる。
「あぁ、編集長。荒田先生から今度、小泉先生と対談できないかと言われてるんですよ。」
「作家直々に企画を持ち込まれるとはね。」
「いいんじゃないかと俺は思いますけどね。小泉先生も今度本が出るし、宣伝にもなるでしょうから。」
 宣伝をして売るというのは倫子はあまり得意としていないが、対談くらいだったら受けるかもしれない。
「連絡をしてみよう。そちらの窓口は、新垣君に頼むから。」
「任せて下さい。」
 そう言って男は自分のデスクに戻っていく。その様子に絵里子が声をかけた。
「いいんですか?荒田先生は、小泉先生が一番嫌がるタイプに見えますけど。」
「小泉先生も大人になってもらわないとね。見た目だけではなくて、こういう世界も、付き合いは大切だって。」
 ずいぶん自信があるんだな。絵里子はそう思いながら、春樹を見ていた。やはり何かあったのかもしれない。自分の奥歯がギリッときしむ音を聞いた。

 その日の夕方。夕べ来れなかった分の洗濯物を袋に詰めて、春樹は病院を出る。未来の容態は良くなったり悪くなったりらしい。
 今日の回診で医師から、急に容態は悪くなる可能性はあるので覚悟はしていて下さい。といわれた。
 覚悟なら出来ている。だが今の状況は未来が起きても、死んでも地獄だと思った。起きれば、倫子との関係を告白しないといけないだろう。そして亡くなれば、その喪失感でどうにかなるかもしれない。
 どちらにしても一人では生きていけそうにない。そう思いながら、駅を目指した。すると見覚えのある人が目に付いた。それは倫子だった。思わず声をかけようとしたら、倫子は携帯電話から目を離して、近づいてくる背の高い男に手を振った。
 グレーのスーツを着た男で、どことなく人相が悪い。ヤクザに見えないこともないと思って驚いた。と、そのとき倫子が春樹に気が付いて倫子の方から声をかける。
「藤枝さん。」
「小泉先生。お疲れさまです。」
 男も春樹をみる。春樹と同じくらいの身長だが、春樹が見下ろされるような感じに見えた。
「誰?倫子。」
 呼び捨てか。そんな関係の男なのだろうか。
「担当の編集者さん。」
「へぇ……編集者か。男かと思ったな。お世話になります。倫子の兄で忍と言います。」
「兄?」
 その答えに驚いたように春樹は見ていたが、よく見れば似ている兄妹だと思った。倫子も女性にしては背が高い方だ。
「あ、すいません。名刺を。」
 春樹は名刺を取り出して、忍にそれを手渡した。
「「戸崎出版」って、お前の本を最初に出したところか?」
「そう。藤枝さんがずっと担当してくれてるの。」
「へぇ……こいつ、苦労するでしょ?」
「兄さん。」
 焦ったように倫子が言う。こんな表情を見るのは初めてだった。
「気分屋だし、学校でも煙たがられてたから。」
「いらないことを言わない。」
 そんな時期から変わらないのか。春樹はそう思いながら少し笑った。
「お前みたいな生徒が居なくて良かった。」
「ふーんだ。」
 教師をしているのだろう。教師は常に勉強会などをしているらしい。だからこういう出張は当たり前なのだ。
「今日泊まるの?」
「あぁ。先生同士でホテルを取ってる。」
「食事も行くんじゃないの?何で私と行こうなんて……。どうせお盆には帰るよ?」
「ちょっと話もあるんだよ。お前、どっかうまい飯でも食わせるところに連れて行けよ。」
「うまい飯って言われても……私あまり外食はしないしなぁ。藤枝さん、何か知ってます?」
 すると春樹は名刺入れの中から、一枚の名刺を取り出す。
「ここは美味しかったですよ。半個室で、名目は居酒屋ですけど定食なんかもありましたし。」
「良いねぇ。住所ってこの近く?」
 倫子は携帯をかざして、地図アプリを広げる。どうやら歩いていけるようだ。
「繁華街の方ね。行こう。ありがとうございました。藤枝さん。」
「いいえ。」
 そのとき忍の目に春樹の荷物が目に付いた。どうやら仕事の荷物以外に何か持っているらしい。それがわかって少し笑う。
「藤枝さんも行きませんか。」
「俺もですか?」
「ただの食事ですよ。飲めるんですか?」
「えぇ……まぁ、人並みには。」
「それに……ちょっと聞いて欲しいこともあったから。編集長なら都合が良いと思うし。」
 意味ありげな言葉だ。そう思いながら、春樹はその二人のあとを追っていった。
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