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日常
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自分の用事が終わって、春樹は指定されたバーへやってきた。会社の近くではなく繁華街から少し離れたところにあるバーは、食事も酒も美味しいと評判だったのだ。
灰色の建物の二階。そこに足を踏み入れると、緩やかな音楽と飲んでいる人たちの騒ぐ声が聞こえた。楽しそうだな。そう思いながら、春樹は荷物を手にしてテーブル席へ向かう。
「来た。来た。編集長。」
春樹は少しほほえんで席に着く。すると仲間たちが、春樹にメニューを見せてきた。
「ここって果物を絞ってくれるんですよ。」
「生の果汁だったね。つい飲み過ぎるよ。」
「ですよねぇ。」
あまり酒は強い方ではないが、ここの酒は美味しいのでつい飲み過ぎてしまう。
「編集長。まず食べた方が良いですよ。食べてないんですよね。」
気を使ってくれたのか、絵里子がフードのメニューを差し出してきた。
「気が回るねぇ。加藤さんは。」
少し笑って、春樹はそのメニューをみる。酒だけではなく、ここはフードも美味しいのだ。
「パスタにしようかな。すいません。」
金色の髪の男に声をかける。すると男は少し微笑んで、春樹に近づいてきた。
「ボンゴレをもらえますか。あと、サングリアを。」
「はい。」
メモを取って、男はカウンターへ向かった。カウンターの向こうにはショートボブの女性が、酒を作っている。そのカウンターを見ると、数人の若者が思い思いに酒を飲んでいるようだ。その中に一人で酒を飲んでいる女性が居るのがわかった。細身で、肌を露出させたその手には黒いものが見える。入れ墨のようだ。
その入れ墨に見覚えがあり、春樹は思わず席を立つ。
「編集長?」
絵里子が驚いたように春樹を見ると、そのカウンター席に近づいた。
「驚いた。こんなところまで来てるんですか。」
その女性は、倫子だった。まだ夜になれば寒いのに、肌を露出させた服を着ている。胸元から首にかけて、さらに黒い竜の入れ墨があった。
「あぁ……。藤枝さんでしたっけ。今晩は。」
担当編集者だ。数年前、この男に見いだされて、倫子は小説家デビューをした。それから春樹が編集長になってもそれは変わらない。編集長として仕事が沢山あるのだろうに、別の人では倫子がうんと言わないのだ。
「ねぇ。あれって小泉倫子?」
「写真って昔の写真しかないから、髪伸びててわからなかったな。」
倫子がこんなところまで来ているのか。絵里子はぐっと唇をかむ。せっかくの酒が不味くなりそうだ。
「家ってもう少し離れてますよね。」
「同級生なんですよ。この二人。」
酒を作っている女性が少し笑った。倫子は二十五だと言っていたが、ずいぶん大人びている。そしてこのバーテンダーをしている女性もまた大人びているように感じた。
「職場の飲み会でしょう?今はプライベートですし、仕事の話をする気はありませんから。」
倫子の手元にはショットグラスがある。ずいぶん酒には強いようだ。
「えぇ。そうですね。また今度、「夢見」のデザインをチェックしに、お伺いします。」
「あぁ……そうだった。仕事の話なんですけど、今度出版する本のカバーデザインを別に変えてもらえませんか。」
「え?でもあれで良いと……。」
「あれじゃ売れないから。」
倫子はそう言って煙草に火をつける。そして目を細めた。これだから別の編集者も匙を投げることがあるのだという。春樹がつとめる「戸崎出版」はずっと春樹が担当しているから良いものの、ほかの出版社では倫子の担当を嫌がる人も多いらしい。何かしらと「売れない」「駄目。書き直したい」と気分がころころ変わるからだ。
作家には多いタイプではあるが、倫子はひどい感じがする。
「わかりました。業者にはそう明日連絡を入れます。」
そう言って春樹はまたテーブル席に戻っていった。その様子を見て、倫子は少し笑った。
「倫子。わがままお嬢さんね。」
「妥協をしないと言ってくれる?」
煙を吐き出して、倫子はカウンターの向こうにいるバーテンの堀亜美に声をかけた。
「まぁねぇ。本なんて沢山あるから、見た目ってのは大事かもねぇ。」
奥に引っ込んでフードを作り出した男に変わって、亜美は作った酒をテーブル席に持って行く。今日は出版社の人たちだけではなく、デザイン事務所の人たちもいるのだ。
「お待たせしました。モスコミュールと、ジントニックです。」
酒を亜美が持っていくと、そのテーブルの人たちはその酒を手にする。するとまた向こうから春樹が今度はこのテーブルに近づいてきた。
「「office queen」の方々ですよね。」
「あ、「戸崎出版」の……。」
「お世話になります。」
こういう仕事をしていると来る人は一緒なのだろうか。そう思いながら、亜美はまたカウンターの向こうへ向かう。
「倫子。あなた、食事はしたの?」
「えぇ。泉がいつも作ってくれるわ。」
「全く……家政婦じゃないんだから、泉も。」
「良いじゃない。本人がやりたいってしてるんだし。」
するとフードを作り終えた男が奥のキッチンからやってきた。
「ボンゴレできた。亜美。サングリアを注いで。」
「えぇ。」
安いワインでも果物を入れると劇的に美味しくなる。このサングリアは、この店でもよく出るものだ。
「倫子。このあとどう?」
金色の髪をした川村牧緒は倫子にそう聞くと、倫子は煙を吐いて言う。
「今日は帰るわ。」
「え?マジで?」
「明日、出掛けたいのよ。」
倫子が出掛けるときは、いつも仕事がらみだ。こうして飲みに来るのは一息つきたいだけ。それがわからない男とはセックスなどしたくない。
灰色の建物の二階。そこに足を踏み入れると、緩やかな音楽と飲んでいる人たちの騒ぐ声が聞こえた。楽しそうだな。そう思いながら、春樹は荷物を手にしてテーブル席へ向かう。
「来た。来た。編集長。」
春樹は少しほほえんで席に着く。すると仲間たちが、春樹にメニューを見せてきた。
「ここって果物を絞ってくれるんですよ。」
「生の果汁だったね。つい飲み過ぎるよ。」
「ですよねぇ。」
あまり酒は強い方ではないが、ここの酒は美味しいのでつい飲み過ぎてしまう。
「編集長。まず食べた方が良いですよ。食べてないんですよね。」
気を使ってくれたのか、絵里子がフードのメニューを差し出してきた。
「気が回るねぇ。加藤さんは。」
少し笑って、春樹はそのメニューをみる。酒だけではなく、ここはフードも美味しいのだ。
「パスタにしようかな。すいません。」
金色の髪の男に声をかける。すると男は少し微笑んで、春樹に近づいてきた。
「ボンゴレをもらえますか。あと、サングリアを。」
「はい。」
メモを取って、男はカウンターへ向かった。カウンターの向こうにはショートボブの女性が、酒を作っている。そのカウンターを見ると、数人の若者が思い思いに酒を飲んでいるようだ。その中に一人で酒を飲んでいる女性が居るのがわかった。細身で、肌を露出させたその手には黒いものが見える。入れ墨のようだ。
その入れ墨に見覚えがあり、春樹は思わず席を立つ。
「編集長?」
絵里子が驚いたように春樹を見ると、そのカウンター席に近づいた。
「驚いた。こんなところまで来てるんですか。」
その女性は、倫子だった。まだ夜になれば寒いのに、肌を露出させた服を着ている。胸元から首にかけて、さらに黒い竜の入れ墨があった。
「あぁ……。藤枝さんでしたっけ。今晩は。」
担当編集者だ。数年前、この男に見いだされて、倫子は小説家デビューをした。それから春樹が編集長になってもそれは変わらない。編集長として仕事が沢山あるのだろうに、別の人では倫子がうんと言わないのだ。
「ねぇ。あれって小泉倫子?」
「写真って昔の写真しかないから、髪伸びててわからなかったな。」
倫子がこんなところまで来ているのか。絵里子はぐっと唇をかむ。せっかくの酒が不味くなりそうだ。
「家ってもう少し離れてますよね。」
「同級生なんですよ。この二人。」
酒を作っている女性が少し笑った。倫子は二十五だと言っていたが、ずいぶん大人びている。そしてこのバーテンダーをしている女性もまた大人びているように感じた。
「職場の飲み会でしょう?今はプライベートですし、仕事の話をする気はありませんから。」
倫子の手元にはショットグラスがある。ずいぶん酒には強いようだ。
「えぇ。そうですね。また今度、「夢見」のデザインをチェックしに、お伺いします。」
「あぁ……そうだった。仕事の話なんですけど、今度出版する本のカバーデザインを別に変えてもらえませんか。」
「え?でもあれで良いと……。」
「あれじゃ売れないから。」
倫子はそう言って煙草に火をつける。そして目を細めた。これだから別の編集者も匙を投げることがあるのだという。春樹がつとめる「戸崎出版」はずっと春樹が担当しているから良いものの、ほかの出版社では倫子の担当を嫌がる人も多いらしい。何かしらと「売れない」「駄目。書き直したい」と気分がころころ変わるからだ。
作家には多いタイプではあるが、倫子はひどい感じがする。
「わかりました。業者にはそう明日連絡を入れます。」
そう言って春樹はまたテーブル席に戻っていった。その様子を見て、倫子は少し笑った。
「倫子。わがままお嬢さんね。」
「妥協をしないと言ってくれる?」
煙を吐き出して、倫子はカウンターの向こうにいるバーテンの堀亜美に声をかけた。
「まぁねぇ。本なんて沢山あるから、見た目ってのは大事かもねぇ。」
奥に引っ込んでフードを作り出した男に変わって、亜美は作った酒をテーブル席に持って行く。今日は出版社の人たちだけではなく、デザイン事務所の人たちもいるのだ。
「お待たせしました。モスコミュールと、ジントニックです。」
酒を亜美が持っていくと、そのテーブルの人たちはその酒を手にする。するとまた向こうから春樹が今度はこのテーブルに近づいてきた。
「「office queen」の方々ですよね。」
「あ、「戸崎出版」の……。」
「お世話になります。」
こういう仕事をしていると来る人は一緒なのだろうか。そう思いながら、亜美はまたカウンターの向こうへ向かう。
「倫子。あなた、食事はしたの?」
「えぇ。泉がいつも作ってくれるわ。」
「全く……家政婦じゃないんだから、泉も。」
「良いじゃない。本人がやりたいってしてるんだし。」
するとフードを作り終えた男が奥のキッチンからやってきた。
「ボンゴレできた。亜美。サングリアを注いで。」
「えぇ。」
安いワインでも果物を入れると劇的に美味しくなる。このサングリアは、この店でもよく出るものだ。
「倫子。このあとどう?」
金色の髪をした川村牧緒は倫子にそう聞くと、倫子は煙を吐いて言う。
「今日は帰るわ。」
「え?マジで?」
「明日、出掛けたいのよ。」
倫子が出掛けるときは、いつも仕事がらみだ。こうして飲みに来るのは一息つきたいだけ。それがわからない男とはセックスなどしたくない。
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