触れられない距離

神崎

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オムレツ

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 食器の片付けは手伝ってくれた。終わったらこのまま帰ってくれないだろうかと思っていたが、棗は一旦沙夜の部屋を出るとまた戻ってきた。その手にはビニールの袋のようなモノがある。
「これ、飲もうぜ。」
「何ですか?」
「茂さんって知ってる?」
「あぁ……辰雄さんの所の街の漁師さんですよね?」
「そう。そこの嫁がハーブでお茶を作ってんだよ。物産館で売り出しててさ。その試作をもらってきたんだよ。」
 茂という人が同じ地区では無いが、漁師で辰雄と懇意にしていた。その奥さんと忍も奥さん同士で仲が良いらしい。茂の奥さんは海女をしながら、そういうモノを作っているのだ。それは評判が良くて、雑誌なんかに取り上げられることもあるらしい。
 食器を片付け終わり、湯飲みにハーブティーのティーパックを入れるとお湯を入れた。するととても良い香りが立つ。蓋をしていても匂いが漏れてくるようだった。
「何の匂いですかね。」
「カモミールって言っていたわ。気分を落ち着かせて、安眠出来るらしいよ。お前、あまり寝る時間が無いなら、こういうのを使って深く寝た方が良いかもな。」
「睡眠の質を高めた方が良いって事ですか。」
「そういう事。」
 一馬も同じようなことを言っていた。だから体を動かして眠るといいという良いわけをして何度も求めてくるのだから、どちらが本当の意味なのかわからない。大体、セックスで気を失うように眠っても安眠と言えるのだろうか。
 コップにお茶を注いで、用意すると座っている棗の前に置いた。そして沙夜もその向かいに座る。
「ずいぶん香りが良いですね。」
「手間暇かけてるからな。市販のはお湯みたいなモノもあるし。」
 こういうモノは響子が嬉しいだろう。一馬に行って言付けても良いかもしれない。響子にとって今日はやはり眠れないかもしれないのだ。真二郎のこともショックだっただろう。
「カモミールは気分を落ち着かせると言ってましたけど、もしかして……。」
「何だよ。」
「棗さんも落ち着かないことがあったんじゃ無いんですか?」
「は?」
「そうじゃ無いとこんな夜にオムレツを作れとか、もし夫婦ならまだしも、従業員ならハラスメントと言われかねないことですし。」
「でも作ってくれたじゃん。」
「私も気分を変えたかったんですよ。」
 そう言ってまた香りの高いお茶に口をつけた。すると棗はそれを飲むと、ため息を付いて言った。
「時間が全然取れなかったけど、あの時からちょっと気になることはあったんだよ。」
「あの時?」
「紫乃がお前をつけ回していたあの時。」
「紫乃さんが……。」
「何かしたのか。遠藤紫乃は。」
 すると沙夜はコップを置くと少し考えていた。そしてやはり少しの嘘を混ぜる。
「「二藍」のメンバーである花岡なんですけど。」
「ベースだっけ。嫌な楽器だな。」
「嫌?」
 惚れた女の旦那になる人がベーシストだったのだ。それを少し思いだして払拭する。未だに連絡を取り合う良い関係で居たいと思うと同時に、未だに嫉妬しそうになるから。
「それはいいや。んで?その花岡ってヤツがどうしたんだ。」
「近くに個人の倉庫を借りてまして。」
「倉庫?あぁ。あれくらい売れてるアーティストなら楽器も多く持っているだろうしな。」
 詳しいな。そう思いながら沙夜はまたお茶に口をつける。
「家には子供さんが居るので、倉庫に楽器をしまっているそうなんですよ。たまにそのタイミングが一緒になって一緒に行くことがあるんですけどね。紫乃さんはそれを見かけて、花岡と私がただならぬ関係では無いかと思ってたみたいです。」
「そいつって既婚者だったよな?」
「えぇ。子供さんも居ます。」
「昔は色々あったみたいだけど、今は良い父親のイメージが強いな。それが他に女が居るなんて言ったら、その評判が悪くなるのは目に見えている。それを狙って売ろうとかしてるのか。」
「そうかも知れませんね。紫乃さんは出版社勤務ですから。」
「出版社ね。もしかしてこの本を書いているのか。」
 そう言って棗は携帯電話を取り出すと、通販のページを開いた。そこには紫乃が過去に出した書評の纏めた本がある。綺麗の表装をしていて、おそらく何も知らなければ手に取られることもあるだろう。
「そうです。結婚されて名字は天草となってますね。」
「結婚したのか……って言うか、出来たのか。」
 その言葉に、やはり知り合いだったのかと思った。だがあまりいい感情では無さそうに思える。だから少し突っ込んだことを言おうと思った。
「えぇ。旦那さんはバンドマンです。」
「意外だな。その旦那の写真ってある?」
 すると沙夜も携帯電話を取り出すと、「Harem」が紹介されている「Harem」のホームページを開いた。そしてその写真を見せる。
「この人です。」
「うさんくさそうな男だな。それに……意外。」
「意外?」
「こいつ本当は、こういう軽そうなヤツよりも、もっと爽やな感じが好きなんだよ。「二藍」で言ったら、それこそ千草翔みたいな感じ。」
 翔が爽やかなのかどうかは置いておいて、やはりそうだったのかと納得した。
「はぁ……。やはり知り合いでしたか。」
 裕太と結婚したのはおそらく狙いがあったのだろう。それくらいは沙夜でもわかる。そうなると不幸なのは、二人の子供だろう。愛情が無い状態でただ金の都合をつけてもらうためだけに利用されているような気がするから。
「知り合いじゃ無い。直接会ったのは、二,三回くらい。初めて会ったときも強烈だったけど。」
「そう見えますね。紫乃さんもあまり会いたくは無さそうでしたし。」
「お前は会ったことがあるのか。って言うか会わなきゃ、そんなつけられたりしないか。」
「直接話なんかはしたことが無いですね。挨拶はしたかどうかは微妙ですが。旦那さんである天草裕太さんの方が、イベントやテレビ局なんかで顔を合わせることはありましたけどね。あまり関わりたくないんです。」
「嫌われてるな。でも強引だから仕方ないのかもな。」
「強引?」
「紫乃はうちの従業員に言い寄っててさ。手に入れるためなら何でもする感じだった。俺が気が付かなかったのが馬鹿なんだけどさ。」
「気が付かないようにしていたんじゃ無いのですか。」
 すると棗は驚いたように沙夜を見る。直接会っていない割には良く紫乃のことがわかっていると思ったからだ。
「何ですか?」
 嫌にじろじろ見てくるなと思っていぶかしげに沙夜は棗を見る。すると棗は少し笑って言った。
「いや……。お前いい女だなと思ってさ。」
「は?」
「やっぱ、社会人経験があると違うな。それに仕事しかしていないってのも、人の心は汲み取ってる感じがするし。やっぱ、お前会社辞めたらうちに来いよ。」
「仕事になりませんよ。愛想笑いは出来ませんから。」
「確かに商売の基本は笑顔かもしれないが、それ以上に心遣いが良い。女将にでもなれるだろうな。」
「なれませんよ。神経がすり減ります。」
「そうかもな。不器用そうだし。でも俺が支えてやるよ。今度こそ失敗したくないから。」
「失敗?」
「その紫乃のこと。」
「紫乃のせいで店が一件潰れたんだ。すげぇ気に入っていたダイニングの居酒屋だったのにさ。」
「……。」
「その居酒屋ではバーテンダーを入れたんだよ。料理というよりも酒がメインの居酒屋だったし。そいつが紫乃に目をつけられてさ。今だったらストーカーになると思うよ。それに俺も気が付かなかったのが馬鹿だったんだ。」
「そんなに卑下しないでください。自分を卑下すると、本当に価値がなくなってしまう。」
 その言葉に棗は少し笑った。だが自分が一杯一杯だったから良いという問題では無いのだ。
「さっき言っただろ?一人で出来る事って言うのは限られてて、それ以上のことをすると無理が出てくる。それって、俺が身をもってわかったことなんだ。俺が一杯一杯すぎて、目が届かなかったことでバーテンダーの息子が事故で殺されて、バーテンダーも高いビルから飛び降りた。」
 それを発見したのは棗だった。悪夢のような出来事で、未だに夢に出てくることもある。
「……。」
「俺がもっと早くストーカー……紫乃に気が付いていれば、そんなことになら無かったのにな。」
 紫乃にとって自分の思い通りになら無かった男はあいつだけだった。だから、棗の店の評判を落とし、閉店に追い込んだのだ。
 他の店にも影響があると思った。だが残されたバーテンダーの奥さんが、紫乃に対峙したことで紫乃は弱気になったのだ。
「弱気?」
「紫乃は俺の店で自殺者が出たのは、環境にあると噂を立てたんだ。実際難しい問題だけどさ。料理人ってのは職人の世界だし、仲居ってのもある意味職人なんだよ。練習をする時間も労働の時間なのかって言われると、店的には微妙だろ?光熱費を使って、練習させて、職人にしてから店に還元させる。けど、それも労働だと言われたらそこも給料が発生する。職人の世界ってのは、少しグレーなところがあるんだ。」
「はぁ……そうですね。」
 考えもしなかった。しかしそれが好きでしていることと、仕事でしていることの違いかもしれない。
「うちがブラックだって噂を立てたんだ。すると、目に見えて本店……つまり、料亭の方の売り上げも下がってさ。」
「それが狙いだったんでしょうね。」
「でもあのバーテンダーの奥さんが、紫乃に直接言ったんだ。紫乃が死んだバーテンダーにストーキングをしていた証拠がいくつもあると。もしこれ以上、世話になったうちの店に迷惑がかかるようだったら、そのストーキングの証拠を世の中にぶちまけると。」
「それって……。」
「見せられないけど、凄いよ。脅しってのは俺でもわかった。」
 おそらく紫乃はそうやって生きてきたのだ。それがばれずにやってきたのは、本人がメディア関係だからだろう。そしてもみ消すことは、宮村の力で何とでもなるのだ。だからこそ、棗の存在は紫乃にとって驚異なのだ。だから怯えている。すでに棗の存在は、紫乃でも宮村でも潰せない存在になっているのだから。
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