触れられない距離

神崎

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オムレツ

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 ピーナツ豆腐は切り分けて皿に盛り、タレをその上にかける。鮭の混ぜ寿司もタッパーから注ぎ分けた。ダイニングのテーブルの中央には作ったオムレツがある。それを二脚しか無い椅子に向かい合って、棗と一緒に食べる。すでに時間は日を超していた。色んな事があった日だったが、明日はもっと忙しいだろう。朝は早めに出て社用車を借りないといけないのだ。
「明日も仕事?」
「そうですね。明日は地方の方へ。」
「仕事ばっかりしてるな。本当に婚期が遅れるぞ。」
「しばらくはしませんよ。」
 一人暮らしであることくらいはわかっているし、棗も恋人らしい人はおろか友人らしい人も部屋に来るのを見たことが無い。と言うよりお互いの部屋にいる時間帯がバラバラすぎて良くわからないのだ。棗が料理人だというのも、実業家だというのも、この間初めて知ったのだから。
「まぁ……辰雄もお前はしばらく結婚しないだろうなとは言っていたし。」
「辰雄さんの所は皆さんお元気でしたか。」
「おぉ。下の子供は初めて見たよ。女の子ららしい感じだよな。忍によく似てて。忍はまだ若いし、あと一人くらいは子供が出来そうだな。」
 辰雄のところの明菜も、治の一番下の子も同時期くらいに産まれたはずだ。治のところの下の子供はすくすくと育っていて、写真で見る限りぷくぷくとしていて柔らかそうだと思った。しかし上の子供二人とはやはりあまり似ていない。くせ毛が酷いのは治に似ている証拠だとはいえ、女の子であれば育っていくと共に何か気が付くのかもしれないと思うと複雑だった。
「混ぜ寿司の鮭はどうしたんですか。あの辺は鮭なんて捕れないと思っていたのに。」
「これはうちが仕入れたヤツ。一本持って行ったんだよ。だから卵やら鶏肉やらが仕入れやすくなった。」
 身内だからと言って少し安く仕入れているが、この鶏肉や卵が棗の店の評判に繋がっている。もちろんいつも出せるわけではないが、出せれば客は運が良いと思うらしい。
「忍は少しざるなところがあるよな。」
「ざる?」
「作ったら大量に出来るんだ。この寿司だってそう。近所に配ったりしていたし。」
「多分、それで他のモノをもらったりしているんですよ。あぁ、でもこのお寿司とても美味しい。酢は、普通の酢じゃないみたい。」
「ワインビネガーだって言ってた。だからあまり酢っぽさながないんだ。」
「なるほど。」
「そっちの方が昭人が良く食うんだってさ。」
「そういう所も考えられているんですね。」
 ただ辰雄はそういう昭人を気にしていた。あそこで育ったら、他に出たところの食事は口に合わないだろうと思うから。辰雄もそうだったので苦労したが、最終的に自分が折れるしかなかったのだ。だが昭人は案外我が強い。人の考えを受け入れられるだろうかと思っていた。
「お前は結婚しないの?」
「しませんよ。」
「したいって相手くらいいるんじゃ無いのか。」
 箸が止まった。その場合どちらのことを言っているのだろうと思ったから。現実的なのは芹かもしれないが芹はその気があるのだろうかと思うし、一馬は奥さんと別れる気は無いという。奏太と結婚するのは論外だ。
「そうですね……。」
「そういうモノをもらう相手がいるんだろうし。」
「そういう?」
「それ。」
 棗が指さしたのは、沙夜の前にある瀬戸物のコップだった。これは芹が地方へ行ったときのお土産で、綺麗な柄が描かれている。大きさも丁度良くて、これでコーヒーを飲んだりお茶を飲んだり、普段使い出来るモノになっていた。
「お土産ですよ。これ。」
「土産にあげるには少し高いよ。」
「え?」
「俺、その辺はそこまで詳しくないけど、有名な焼き物だと思う。コップ一つで結構な値段がすると思う。」
「そうだったんですか。」
 そんなに高いモノだったのか。それに加えて酒ももらってしまった。そう思うと地方へ行ったり海外へ行ったときのお土産を、沙菜と一緒にと行って渡したようなモノでは足りなかったかもしれない。明日は地方へ行くし、時間を見つけて何か買っておこうかと思っていた。
「結婚出来る相手がいるくらいならさっさとしていた方が良いんじゃ無いの?」
「余計なお世話です。棗さんこそ結婚をしないんですか。」
 そう言ってまた箸を動かすと、棗は少しため息を付いて言う。
「結婚しようとした女ならいるよ。」
「しようとした?」
「別の男と結婚したから。」
 本気で結婚したいと思っていた。出会った当時はまだ高校生だった女で、辰雄にも紹介したことがある。だが辰雄はあの女にあまり会いたくないと言っていた。それは自分の憎む相手の子供だからだから。
「忘れられないんですか。」
「さすがに夫婦円満で、子供が出来ているような家庭に付け込むことはしたくないし。」
 そう言われて少し心が痛かった。一馬の家庭を壊している沙夜には実を積まされるような言葉だったから。
「……そうですね。」
「あの街も良い街だったのになぁ……くそ。今でも腹が立つわ。」
「街?」
「あー。俺さ。何店舗か店を出してて、でも何件か失敗してるんだよな。」
「借金があるんですか。」
 だからこんな片隅のアパートに暮らしているのだろうか。そんなに手広くしているなら会社にしても良いし、もっと良いところのマンションだったり一戸建てに住んだりも出来るだろうに。
「そう言うわけじゃ無いよ。確かに借金をこさえた時期はあるけど今は無いな。ここに住んでるのは、ちょっと事情もあってさ。」
「そうですか。」
 そう言って混ぜ寿司に箸をつける。すると棗は意外そうに沙夜を見た。
「気にならないのか。」
「何が?」
「女ってのは根掘り葉掘り聞きたいモノだろう?」
「一緒にしないでください。聞いたところで何も出来ないし、何も言えませんよ。私の人生経験なんて大したことないんですから。」
 一馬だったら聞いてアドバイスは出来ると思う。だが沙夜にはその言葉は無い。無責任なことを言いたくなかったのだ。
「お前やっぱ、少し似てるんだな。」
「似てる?」
「辰雄に姉がいるの知ってる?」
「詳しいことは聞いたことありませんけど、仏壇に写真がありましたね。綺麗な女性が。」
「あれ、俺にとっては従兄弟。外国で死んだ歌手だったんだ。」
「歌手?」
「声楽を学んでいたけど、ロックなんかも歌ってた。もっともそれを知ったのは少し前だけど。」
 インディーズで歌っていたあの声は、娘の声質によく似ている。棗の初恋だった女の娘をまた好きになると思ってなかった。
「あまり一緒に住んだことは無いんだけど、あの人も同じ事を言っていたわ。自分に出来ること以上のことをすると、絶対無理が出てくる。自分の器ってのを知った方が良いって。だから無責任に相談なんかを受けたくないって言っていた。」
「……。」
「もう死んだけどな。」
 皮肉だった。その娘をまた好きになると思ってなかったから。
「その従兄弟の方に似ていますか。」
「姿はあまり似てねぇよ。でもそう言うところが辰雄も気にかかったんじゃ無いのか。あぁ……変な意味に取るなよ。確かに入りはそうだったかもしれないけど、辰雄はお前のことを知れば知るほど気にかかるようだ。だから結婚のことだって気になっているみたいだし。それは忍もな。」
「そうでしたか。」
 こんなに自分のことを気にしてくれている人がいる。それが嬉しかった。
「俺も自分で出来る事ってのは限られているなって思うよ。だから、頼ることも覚えたんだ。でも任せられる人選ってのは重要で、良く人を見ないといけないと思った。そして店はもうこれ以上増やさないと思う。」
「増えることは無いんですか。」
「これ以上は手に負えない。それが若いときにはわかってなかった。がむしゃらに動いて、倒れたことだってあるんだし。本末転倒だよな。生活のために仕事をしてるのに、それが逆に仕事のために生活をするようになったら終わりだ。」
「……。」
「それに前が見えなくなる。お前も気をつけろよ。」
「私ですか。」
「あぁ。お前も仕事ばっかりしてるからな。会社はお前が倒れても面倒は見てくれないだろうし。」
 それはそうかも知れない。沙夜がしていることは奏太にも出来る。ただ、「夜」としてのことは、沙夜にしか出来ないだろう。いつの間にかそれだけが、自分の存在意義になっていた。
「そうですね。今は同僚もやってくれているし、ただ……少し不安はありますけどね。」
「お前が不安なの?それとも「二藍」が不安なのか。」
「どちらもです。」
 すると棗は少し笑った。
「お前みたいなヤツがうちの店に居ると楽だろうな。お前、仕事辞めたら雇ってやろうか。」
「接客は出来ませんし、調理師ほど料理の腕があるとは思えませんよ。それに調理師の免許なんか持ってませんし。」
「働きながら出来る。心配するな。」
 棗が好きだった女もそうしろと言ったのに、結局高校を卒業して調理師の専門学校へ行った。二つのことを同時に出来るほど器用では無いと言っていたのに、今は料理人でありながら、仲居もして、家に帰れば家事も、子育てもし、夫の世話や自分の祖父母の世話までこなしている。それを見ていると、棗の側へは来たくなかったのだと言えるだろう。それに棗は少しショックを受けていた。
 だからもう仕事に打ち込もうとしたのに、それを潰した人がいる。その人だけは許せなかった。
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